第21話:おはよう、うるさい世界
変化が起きたのは、その夜だった。
俺たちはコンビニで調達した弁当を囲んでいた。
レンが不意に箸を止め、アリスのベッドを凝視する。
「……音が、変わった」
「え?」
「脳波のノイズじゃねぇ。……覚醒のリズムだ」
レンが椅子を蹴倒す勢いで立ち上がり、ベッドへ駆け寄る。
俺と白石も続く。
毛布の中、銀色の髪が揺れた。
長い睫毛が震え、ゆっくりと、本当にゆっくりと、その瞼が開かれる。
現れたのは、吸い込まれそうなほど透明な、薄紫色の瞳だった。
「……アリス!」
レンが叫ぶ。
その声に反応して、アリスの肩がビクッと跳ねた。
「……ぁ、あ……」
彼女は怯えたように身を縮め、両手で耳を塞いだ。
喉の奥から、言葉にならない悲鳴が漏れる。
レンがハッとして口をつぐむ。
そうだ。彼女は「受信体質」。
覚醒した直後の無防備な精神に、兄の大声や、世界中の環境音が一気に雪崩れ込んでいるのだ。
「……ごめん。……大丈夫だ、俺だ、レンだ……」
レンが声を押し殺し、震える手で妹に触れようとする。
だが、アリスの震えは止まらない。
今の彼女にとって、世界は「音の洪水」そのものなのだ。
俺はレンの肩を引いた。
「代わるぞ」
「なッ……」
「今の彼女には、お前の『音』ですら刺激が強すぎる」
俺はアリスの枕元に膝をついた。
俺には「音」がない。心の声も、ノイズもしない。
俺は何も言わず、ただ静かに手を差し出した。
能力(虚無)を展開し、彼女の周囲の空気を少しだけ「吸う」。
彼女に向かって押し寄せる情報の波を、俺がスポンジのように吸収して遮断する。
とたん、アリスの表情が和らいだ。
耳を塞いでいた手が、ゆっくりと離れる。
「……しず、か……?」
アリスの瞳が、俺を捉えた。
世界で唯一、音がしないブラックホールのような男。
彼女にとって、それは恐怖ではなく、嵐の中の「無風地帯」に見えたはずだ。
「……聞こえるか、アリス」
俺は極限まで声を絞って囁いた。
「ここはもう、あの水槽の中じゃない。……お兄ちゃんが、助けてくれたんだぞ」
俺が視線で促すと、レンがおそるおそる近づいてきた。
アリスが、俺の背後にいるレンを見る。
「……お、にい……ちゃん?」
「……ああ。そうだ、アリス」
レンが泣きそうな顔で、けれど必死に笑顔を作って、妹の手を握りしめた。
「もう痛くねぇよ。……俺が、全部黙らせてやったからな」
アリスの瞳から涙が溢れた。
それは苦痛の涙ではなく、安堵の涙だった。
「……うん。……聞こえる。お兄ちゃんの音……懐かしい、音……」
アリスはレンの胸に顔を埋めた。
レンが声を殺して泣き、白石がもらい泣きをして鼻をすする。
俺はそっと「サイレンサー役」を解除し、席を外そうとした。
その時、アリスの小さな手が、俺の袖を掴んだ。
「……?」
「……あの、ね」
アリスが濡れた瞳で俺を見上げる。
「あなたの音……すごく、寂しくて、優しい音……」
「……俺に音なんてないよ。空っぽだからな」
「ううん。空っぽだから……私の声が、響くの」
彼女は不思議なことを言った。
俺の虚無が、彼女の受信能力と共鳴している?
「……ありがとう、お兄さん」
ふわりと花が咲くように笑う彼女を見て、俺は柄にもなくドギマギして視線を逸らした。
後ろで白石が「むっ」と頬を膨らませた気配がしたが、気づかないフリをした。
こうして、俺たちの「秘密基地」に、最強のレーダー兼マスコットが加わった。
しかし俺たちはまだ知らない。
彼女が受信してしまう「世界の声」が、俺たちを新たな戦いへと引きずり込むことを。




