第2話:透明な捕食者
放課後の旧校舎裏。
そこは「幽霊が出る」なんてありふれた怪談の舞台ではなく、もっと現実的で質の悪い溜まり場だった。
「……う、あ……」
あえぐような声が聞こえて足を止める。
見ると、昼間の授業で隣にいた白石が、コンクリートの壁に背中を押し付けられていた。
彼女の前には、人の形をした黒い「靄」のようなものが漂っている。
<怪人>。
コンプレックスを暴走させ、理性を失った人間のなれの果て。
「み、見ないで……見ないで……」
白石がガタガタと震えている。彼女の能力『不可視』は、恐怖心が極限に達すると制御を失い、逆に周囲の「見たい」という欲望を引き寄せてしまう欠点があるらしい。
ファントムは彼女の「見られたくない」という強烈な拒絶反応を、極上のスパイスとして味わおうとしていた。
俺はとっさに足元の空き缶を蹴り飛ばした。
カァン! と乾いた音が響く。
ファントムの顔と思わしき部位が、ギギギと音を立ててこちらを向く。
「……なんだ、テメェは」
人間の言葉が残っている。まだ暴走の初期段階か。
俺は内心の焦りを悟られないよう、できるだけ気だるげにポケットに手を突っ込んだ。
「あー、悪い。通りかかっただけだ。邪魔したな」
逃げるなら今だ。
だが、ファントムは俺を一瞥すると、興味なさそうに視線を白石に戻した。
「……味がしねぇ」
「は?」
「テメェからは、何の匂いもしねぇんだよ。……不味そうなガキだ、失せろ」
無視された。
殺気すら向けられなかった。
奴にとって、コンプレックスの薄い俺は、道端の石ころ以下らしい。
白石が絶望的な目で俺を見る。助けて、とは言わなかった。彼女もまた、俺に期待していないのだ。
その瞬間、俺の中で何かが冷たく切れた。
(……ああ、そうかよ)
俺には価値がない。
悩みも、苦しみも、才能も、味すらもない。
だったら――
俺は一歩、踏み出した。
逃げるためじゃない。奴の間合いに入るために。
「不味くて悪かったな。……なら、お前のその『濃い味』、俺によこせよ」
俺は無意識に、自分の無意味な能力――『無色透明の霧』を展開していた。
ただの霧だ。目隠しにもならない、薄い霧。
だが、その霧がファントムの黒い靄に触れた瞬間。
ドクン。
俺の心臓が、ありえない拍動を打った。
霧が、黒い靄を「吸い込み」始めたのだ。
ファントムの体から流れ込んでくるのは、ドロドロとした『優越感への渇望』と『敗北への恐怖』。
強烈な他人の感情が、空っぽの俺の中に、色鮮やかな劇薬として満たされていく。
「な、なにをしやが――!?」
ファントムが驚愕の声を上げるのと同時に、俺の右腕が勝手に変質していく。
それは俺の能力じゃない。
さっきまで奴が使っていた、影を刃に変える力――。
「……これ、使いやすそうだな」
俺は自分の意志とは裏腹に、獰猛な笑みを浮かべていた。
空っぽの器に、初めて「中身」が入った瞬間だった。




