第17話:ノイズの檻
最深部の扉が開く。
そこは、青白い光に満ちたドーム状の空間だった。
無数のサーバーラックが並び、その中心に鎮座するのは――巨大な円筒形の水槽だった。
「……アリス」
レンの声が震える。
水槽の中、特殊な溶液に満たされながら、一人の少女が浮かんでいた。
銀色の髪が水流に揺れている。
だが、その体には無数の細いケーブルが、まるで血管のように突き刺さっていた。こめかみ、首筋、背骨……。
『ようこそ、私の実験室へ』
スピーカーから、蔵木の声が響く。今回は通信ではなく、この部屋のどこかで見ているようだ。
「テメェ……! アリスに何をしやがった!!」
レンが咆哮し、水槽へ駆け寄ろうとする。
だが、
ガギィンッ!!
見えない壁に阻まれ、レンが弾き飛ばされた。
『乱暴だな。彼女は今、とても繊細なんだ。……彼女のギフトは「受信」に特化している。この施設の、いや、この都市中の能力者たちの「精神ノイズ」を吸い上げ、浄化するためのフィルター役だよ』
蔵木の声が得意げに語る。
『彼女のおかげで、コンプレックス増幅剤の研究は飛躍的に進んだ。他人の負の感情を無限に受け入れ、処理してくれる「聖女」……それが今の彼女だ』
「ふざけるな……! そんなことしたら、アリスの心が壊れちまう!」
レンが叫ぶ。
聴覚過敏の兄妹だ。レンが「音を拒絶する(出力)」タイプなら、アリスはおそらく「音が聞こえすぎる(入力)」タイプ。
そんな人間に、都市中の悪意やストレスを流し込めばどうなるか。想像するだけで吐き気がする。
『壊れてなどいないよ。……ほら、お兄ちゃんの声に反応している』
水槽の中、アリスの瞼がピクリと動いた。
彼女の口元が微かに動き、スピーカーを通じてその「声」が出力される。
『……う、るさい……』
『……きこえる……いたい……』
『……おにい、ちゃん……こないで……うるさい……』
「ッ!?」
レンが凍りついた。
拒絶された。
最愛の妹から、「来るな」「うるさい」と言われたショックで、彼の膝が折れる。
「アリス……俺の声が、うるさいのか……?」
『そうとも。今の彼女にとって、外部からの刺激は全て激痛だ。君のような大声の塊なら尚更ね。……さあ、帰りたまえ。これ以上近づけば、防衛システムが作動して君たちを排除する』
レンがうなだれる。戦意喪失だ。
自身の存在そのものが妹を苦しめるという事実は、彼の心を折るには十分すぎた。
だが。
「……あーあ、趣味が悪いったらねぇな」
俺はレンの肩を掴み、無理やり立たせた。
「な、何すんだ……放せ……俺がいたら、アリスが……」
「馬鹿野郎。よく聞けよ」
俺は水槽のアリスを指差した。
「あいつ、泣いてるじゃねぇか」
溶液の中だから分かりにくいが、アリスの目尻から、確かな雫が溢れて水に溶けていた。
そして、俺には「見える」。
彼女の心から溢れ出ている、本音の周波数が。
『たすけて』
『ひとりにしないで』
『こわい、こわい、こわい』
強制的に流し込まれる他人のノイズにかき消されそうになりながらも、彼女はずっと兄を呼んでいたのだ。
「来るな(巻き込みたくない)」という言葉の裏にある、悲痛な叫びを。
「……レン。お前の耳は飾りか? 妹の『本当の声』も聞き分けられないほど、ヤキが回ったのかよ」
「……ッ!」
レンがハッとして、ヘッドホンを強く押し当てた。
集中する。
物理的な音ではなく、心の音を。
ノイズの嵐の向こうにある、たった一つのメロディを。
「……聞こえる。……呼んでる」
レンの瞳に光が戻る。
「……『助けて、お兄ちゃん』って……泣いてやがる」
レンが立ち上がる。その顔つきは、もう迷える少年のものではなかった。
「……相馬。力を貸せ」
「おう」
「白石、道を拓けるか?」
「うん。あの『見えない壁』……多重構造の防音ガラスみたいな結界だと思う。私の不可視を上乗せすれば、一瞬だけ『壁がないもの』として誤認させられるはず」
白石が前に出る。
彼女の手が、空中の見えない壁に触れる。
「……『そこには何もない』」
彼女がつぶやくと、空間が歪んだ。
物理的な壁はある。だが、認識上、そこは「通路」になる。
「行くぞッ!!」
レンが叫び、両手を広げた。
「蔵木ィイイ!! 俺の妹に雑音を食わせた罪、万死に値するぜッ!!」
レンのコンプレックスが爆発する。
拒絶の音波ではない。
妹への想いを乗せた、純粋で強烈な「共鳴」。
「アリス! 今すぐそのクソみてぇな水槽、俺が叩き割ってやる!!」
水槽のガラスに亀裂が走る。
防衛システムが起動し、天井から無数のレーザー砲門が出現する。
だが、今の俺たちには関係ない。
俺はレンの前に飛び出した。
迫り来るレーザーの雨。
全部まとめて、俺の「虚無」で飲み込んでやる。
「掃除の時間だ! 邪魔なもんは全部俺に寄越せ!!」
最終決戦が始まった。
敵は施設そのもの。
そして、囚われの姫を縛る「世界中のノイズ」だ。




