第16話:沈黙の病棟
『聖マリア療養所』は、深い霧に包まれていた。
真夜中の山道。車の通りもなく、静寂が支配している。
「……気持ち悪い静けさだな」
レンがヘッドホンをずらして呟く。
物理的な音はしない。だが、彼の耳には別のものが聞こえているらしい。
「聞こえるか?」
「ああ。……建物の地下から、重低音が響いてる。機械の駆動音じゃねぇ。もっとドロドロした……人の呻き声みたいな念波だ」
どうやら、ただの療養所ではないことは確定だ。
「白石、カメラはどうだ?」
「えっと……外周に監視カメラが12個。赤外線センサーもあるけど……全部『死んでる』」
白石がタブレットを見ながら首を傾げる。
電源は入っているのに、機能していない?
「誰かが先に侵入したのか、それとも……」
「罠、だろうな」
俺たちは顔を見合わせた。
蔵木からの招待状だ。「どうぞお入りください」というわけか。
「上等だ。案内されるままに進んでやるよ」
俺たちは正門を抜け、本館へと侵入した。
ロビーは無人だった。受付には埃が積もっている。表向きは休業中ということになっているのだろう。
「レン、地下へのルートは?」
「エレベーターは電源が落ちてる。非常階段だ。……こっちだ」
レンが先導する。彼は壁に手を当て、反響音で建物の構造を把握していた。
まるで自分の家のように迷いなく進んでいく。
「……待って」
地下への階段を降りようとした時、白石が声を上げた。
彼女が震える指で、廊下の奥を指差す。
「あそこ……何か、いる」
彼女の『不可視』能力者は、逆に「見えないもの」や「気配を消しているもの」に対して敏感だ。
俺たちが目を凝らすと、闇の中からゆらりと人影が現れた。
それは、ナース服を着た女性だった。
だが、様子がおかしい。
顔半分が巨大な注射器のような金属と融合し、腕が異様に長く変形している。
<改造人間>。
「ア……あア……痛イ、痛イ……」
うわごとのように呟きながら、ナースがこちらに歩いてくる。
その手には、巨大なメスが握られていた。
「……チッ、悪趣味な改造しやがって」
レンが一歩前に出る。
「俺がやる。……あんな雑音聞かされてちゃ、耳が腐る」
「待て、レン。こいつは……」
俺が止めるより早く、ナースが襲いかかってきた。
速い。常人の動きじゃない。
だが、レンは動じない。
「黙れッ!!」
レンが指を鳴らす(スナップする)。
バヂンッ!!
空気が破裂し、指向性の衝撃波がナースを吹き飛ばした。
ナースは壁に激突したが、すぐにカサカサと蜘蛛のように起き上がる。
「硬ぇな……痛覚を遮断されてるのか?」
「レン! 無闇に壊すな! こいつも元は人間だ!」
俺が叫ぶ。
蔵木は生徒だけでなく、職員まで実験台にしているのか。
「知るかよ! 向こうが殺す気なら……!」
「――違う」
白石が、俺たちの前に飛び出した。
彼女は『不可視』を使っていない。生身で、怪物の前に立った。
「白石!?」
「……聞こえるの。この人、怒ってるんじゃない。『助けて』って言ってる」
白石は、ナースの異形化してしまった顔をじっと見つめた。
対人恐怖症の彼女が、他人の目を、顔を、正面から見ている。
「私には分かるよ。……変わりたくなかったんだよね? 誰かの目に触れるのが怖くて、隠れていたかったんだよね?」
ナースの動きがピタリと止まる。
彼女のコンプレックスは、おそらく白石に近い『容姿への劣等感』や『対人恐怖』。
だからこそ、顔を金属で隠すような姿に変貌させられたのだ。
「……ウ、ぅ……」
「相馬くん! 今!」
白石が叫ぶ。
俺はダッシュした。
ナースの懐に入り込み、その歪んだ金属の顔に手を触れる。
「……楽にしてやる」
俺の能力発動。
彼女の中に埋め込まれた『強制されたコンプレックス(増幅剤の効果)』を吸い出す。
ドロリとした「他人に操作された劣等感」が流れ込んでくる。
これは……自然発生したものじゃない。人工的に植え付けられた、汚い感情だ。
「ガ、アアアァァァ……ッ」
ナースの体から黒い霧が抜け、変形していた肉体が縮んでいく。
数秒後、そこには気絶した普通の女性が倒れていた。
「……はぁ、はぁ」
俺は膝をついた。
人工的なコンプレックスは、味が最悪だ。化学薬品を飲まされたような胸焼けがする。
「相馬くん!」
「へへ……すげぇな、テメェら」
レンが感心したように口笛を吹く。
「壊さずに『治す』か。……俺にはできねぇ芸当だ」
「お前のサポートがあったからだ。……それに、白石の『共感』のおかげだな」
俺たちは顔を見合わせた。
この地下には、こんな被害者がまだまだいるはずだ。
「行くぞ。……蔵木の野郎、絶対に許さねぇ」
俺たちは再び歩き出した。
地下深く、地獄の釜の底へと続く階段を。




