第100話:君の名前、世界の名前
これから読むとネタバレです。
(――選ベ。世界ヲ、書キ換エルカ?)
泥の声が、脳内に響く。
それは悪魔の囁きであり、同時に甘美な救済の提案だった。
この泥には、現行の人類種を絶滅させ、新たな生態系を一から作り直すだけのエネルギーがある。
教授が夢見た「新世界」。
痛みも、差別も、コンプレックスもない完全な世界。
俺が望めば、それは一瞬で叶う。
亡くなった母さんだって、理論上は「幸せな記憶」として再構成できるかもしれない。
「……」
俺の心が揺らぐ。
「虚無」である俺には、この腐った世界に執着する理由が薄い。
いっそ、全部チャラにしてしまえば――。
「ダメだよ、カケルくん」
その思考を遮ったのは、温かな手の感触だった。
白石が、俺の両手を包み込むように握っている。
彼女の姿は、もう半透明ではない。
夕暮れに染まるロスト・トウキョウの光の中で、誰よりも鮮やかにそこに「在った」。
「行かないで。……向こう側に行ったら、もう戻ってこれなくなる」
「白石……」
「私ね、ずっと隠してたことがあるの」
彼女は真っ直ぐに俺を見つめた。
その瞳には、かつての怯えはない。
「私のコンプレックスは『対人恐怖』だった。……人の視線が怖くて、誰とも関わりたくなくて、消えてしまいたいって毎日願ってた。そうしたら本当に、体が透明になって……誰からも認識されなくなった」
白石の独白。
それが彼女の異能の正体。
「消えたい」という逃避願望が産んだ、悲しい防衛本能。
「でも、カケルくんは私を見つけてくれた。……私の『孤独』ごと、麻婆パンと一緒に受け入れてくれた」
彼女の手が、俺の手を強く握り返す。
「だから今度は、私がカケルくんを見つける番。……貴方が『虚無』に飲まれて、自分が誰かわからなくなっても、私が何度だって名前を呼ぶよ」
「お前は……」
「私は『観測者』。相馬カケルという人間が、確かにここにいるって証明するための錨。……それが、私の役目」
ズズズ……。
暴れようとしていた泥が、彼女の言葉に触れて静まっていく。
俺の中の空洞に、泥とは違う、もっと確かな「質量」が満ちていく感覚。
世界を書き換える必要なんてない。
俺の世界は、ここにある。
こいつがいる場所が、俺の帰る場所だ。
「……ありがとう、白石」
俺は憑き物が落ちたように笑った。
そして、ずっと聞きたかったことを口にする。
「なあ。……教えてくれよ。お前の本当の名前」
白石は一度だけ大きく深呼吸をした。
そして、恥ずかしそうに、でも誇らしげに微笑んだ。
それは、灰色の世界で咲いた一輪の花のように美しい笑顔だった。
「私の名前はね……」
彼女の唇が動く。
旅路の果てに、ようやく世界に刻まれる「彼女」の証。
「――――」
「私の名前はね……ミチル。白石ミチル」
その音は、静かに、けれど確かに俺の胸の奥底まで染み渡った。
「ミチル……」
俺は無意識にその名を反芻していた。
カケル(欠ける)と、ミチル(満ちる)。
偶然なのか、運命なのか。
俺が生まれた時から抱えていた空虚な穴。それを埋めることができるのは、世界を書き換える強大な力なんかじゃない。
最初から隣にいた、この小さな存在だけだったんだ。
(――満チタ。……ナラバ、良イ)
頭の中で、泥の声が満足げに遠ざかっていく。
俺の体から溢れ出していた黒い霧が、スゥッと右腕の中へと収束していく。
暴走も、侵食もない。
ただ静かな「力」として、俺の一部になった。
「……ははっ」
俺は空を見上げて笑った。
ロスト・トウキョウの淀んだ空に、雲の切れ間から朝日が差し込んでいる。
長い夜が明ける。
「変な名前だった?」
ミチルが不安そうに上目遣いで見てくる。
「いや。……いい名前だ。俺にはもったいないくらいな」
俺は彼女の手を握り直した。
もう、その手が透けることはない。
「帰ろうぜ、ミチル。……レンたちも待ってる」
「うん!」
彼女が弾けるような笑顔で頷く。
俺たちは、朝日が照らす瓦礫の街を歩き出した。
世界はまだ、傷だらけだ。
教授がいなくなっても、地下都市の問題も、地上の汚染も、何一つ解決していない。
これから俺たちを待っているのは、英雄としての称賛か、それとも魔王としての迫害か。
それは誰にもわからない。
だけど、怖くはなかった。
俺の中にはもう「虚無」はない。
空っぽだった器は、日常という名の「幸せ」で満たされている。
「ねえカケルくん、お腹すいたね」
「ああ。……帰りにまた、あのパン買うか?」
「ふふ、今度は行列に並ばなくていいかもね」
他愛のない会話。
瓦礫の向こうで、レンが手を振っている。アリスが駆け寄ってくる。ゲンゾウさんが安堵の息を吐いている。
俺たちの物語(旅)は、ここで一区切りだ。
でも、俺たちの人生(日常)は、ここから始まる。
欠けた月が満ちる時、世界はこんなにも美しい。
(完)
読んで頂きありがとうございました。
他にもストックと構想があるので、よろしくお願いします。




