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境界

カーテンの縁から滲む光が灰色に濁っていた。厚い雲が窓の外に低く垂れ込め、ガラス面を伝う細い筋がときおり線の位置を変える。――雨だ。音はほとんど聞こえないのに、窓全体が湿った膜で覆われている気配だけが、病室の薄い白にじわりと染みてくる。

 目を開ける。世界は静かだった。耳の奥に、あの裂けるような悲鳴がない。湿気が肺の奥にまとわりつくが、音としての圧はどこにもいなかった。

 喉の奥に乾きが刺さる。枕元のプラスチックのコップを持ち上げ、液面を確かめる。透明な線が一度だけ震え、冷たい重さが舌の上を滑り、喉を下り、胃に落ちる。――耳は沈黙を守る。沈黙は、雨の匂いと一緒に胸の底に沈んだ。

 回診の主治医は、雨合羽の代わりに白衣の袖口を丁寧に折り返していた。

 「耳管の形態差と開閉の癖。飲水時の圧変化が聴覚路の一部を過敏にし、高周波の歪みがあなたの脳内では“悲鳴”として再構成されていた。手術で圧の逃げ道を作り、過剰な興奮を抑えています」

 言葉は乾いているのに、湿った空気の表面に張りついて離れない。

 ――幻聴。

 単語は軽い。けれど、私を支配してきた重さは、梅雨の空と同じで、ちょっとやそっとでは晴れない。

 退院の手続きを終えるころ、病院の玄関先に溜まった雨水が靴底を吸い、アスファルトの黒は艶を持っていた。折り畳み傘を開く。傘の内側にこもる呼気とビニールの匂い。側溝を流れる細い水の音が、足音のすぐそばでつきまとった。

 拠点は雑居ビルの五階。エレベーターの古い鏡は曇りを映し、その曇りは自分の顔と同じ形に広がって、また縮んだ。

 ドアを押すと、外の湿気は一枚剥がれ、代わりにサーバの微かな唸りと乾いた冷房の風が出迎える。壁沿いのモニタは雨の光を拾って鈍い反射を返し、ケーブルの被覆は濡れていないのに水の艶に似た鈍さを帯びている。

 城戸はキーボードの上に両手を置いたまま、こちらを一度だけ見てすぐ画面に視線を戻した。「終わったか」

 「……終わりました。医者は、そう」

 相良は窓際に立ち、濡れたガラスの向こうを流れる車の尾灯を目で追っている。桐生は膝に和紙のように薄いファイルをのせ、指先で角を整えながら「科学的な解決に至ったわけだ」と言った。

 城戸がショートカットを打つ。スクリーンに世界地図、折れ線、棒グラフ。雨天の街を俯瞰したみたいな鈍い配色。

 「先に、俺たちの反省から」城戸は自分の胸を親指で軽く叩いた。「情報の偏りを見誤った。水を飲んだ時刻と、どこかで起きた事故の時刻。その重なりを“因果”に見立てたのは、急ぎすぎたからだ」

 画面は季節別に色分けされた曲線を出す。初夏にかけて緩やかに持ち上がる山。

 「統計には“疑似相関”がある。たとえばアイスの売上と水難事故は、夏に同時に増える。互いが互いを押し上げるんじゃない。“暑さ”っていう第三の要因が背後にいて、同じ方向に傾ける。

 気流――偏西風の蛇行や梅雨前線の停滞。海流――黒潮や親潮の張り出し。観光やイベントで水辺に人が集まる。報道の取捨とタイムラグ。複数の要因が積み重なると、関係のない二つが“寄り添って”見える」

 カーソルが、河川沿い自治体の事故報告と降水量の推移のグラフをなぞる。「梅雨は特にノイズが大きい。降雨で水位が上がり、視界が悪くなり、人の動きは休日に偏る。三日、一週間の窓で見た揺らぎは、個人の行為で説明できるスケールじゃない」

 桐生がファイルを閉じた。「伝承に引かれて、私は“語り”の側へ体重を移しすぎた。人柱の話は筋が通りすぎるの。筋が通ると、現実の凸凹が見えにくくなる。反省してる」

 相良は窓から離れず、濡れたガラスに自分の輪郭を映しながら言った。「現場は連続で同じ匂いがすると、脳が同じ犯人にしたがる。今回は、それに飲まれた」

 私は膝の上で指を組み、湿った掌同士がわずかに吸い付く感触を確かめた。「……つまり、私の飲水と事故は、偶然の重なりだった?」

 城戸が頷く。「“統計的には”そう言える。手術前後で世界の総件数に有意な差は出ていない。相関係数を算出しても、短期ではノイズ。長期でも季節要因の方が桁でかい。――結びつける根拠はない」

 小さな沈黙。サーバファンの一定の拍に、雨樋を流れる水の音が遠くから和音のように重なった。

 桐生が笑う。「怪異贔屓としては悔しいけど、医学の勝ち。耳に棲んでいた“物語”は、手術で追い出された」

 「……美談だな」相良が片眉を上げる。濡れた窓を離れて、ポケットから折り目のついたメモを取り出した。「ただな。あの日、氷水を口にした夜。海外ニュースの時刻を現地時間に戻して、こっちの飲水時刻と突き合わせた。……重なり方が、出来すぎてた」

 城戸は肩をすくめる。「出来すぎは出来すぎとして、脳から剥がす。でないと数字はすぐ嘘をつく。俺らは“君の回路”から一旦降りる」

 相良はメモを胸ポケットへ押し戻し、短く「降りる」とだけ言った。

 空気が、解散の方向へ傾いた。

 城戸は端末を閉じ、桐生は古書を鞄に滑り込ませ、相良はコートの襟を整える。私は立ち上がり、三人に頭を下げる。「ありがとうございました」

 「いや」城戸が手をひらりと振る。「水は普通に飲め。耳は耳として使え」

 桐生が目だけで微笑む。「“お冷をください”って言われたら、今度は頷きなさい」

 相良は私の顔を真正面から見て、ほんのわずかに目を細めた。「何かあったら言え。何もなくても言え」

 廊下に出ると、湿気は濃く、匂いは重かった。エレベーターの中の空気まで、薄い雨粒で満たされている気がする。地上に降りると、雨は細かく、絶え間がない。アスファルトの黒はまだ艶を保ち、マンホールの縁で薄い渦が回っている。

 傘の布を叩く音が一定の拍で続き、遠くの工事現場でタープがバタついた。信号の青が路面に二重に映り、横断歩道の白は帯の片側が滲んでいる。

 水は、どこにでもあった。触れずとも、耳に入らずとも、そこにある。梅雨は、水の存在を世界の表面へ押し出す季節だ。

 家に戻る。玄関に湿った匂いが低く溜まり、下駄箱の隙間から乾きかけた靴の皮の匂いが混じる。傘を畳むと、水滴が玄関マットに丸い暗い斑点をいくつも作った。

 台所へ。蛇口の金属は曇り、シンクの隅に小さな水の玉が集まっている。コップを取り、ポットの湯で紅茶を入れる。湯気がゆっくりと、湿った空気を押し広げる。

 口をつける。陶器の縁の感触、茶の苦み。

 ――その瞬間、耳の奥を、薄い波の膜が撫でた。

 排水溝の網をかすめる水が、遠くのどこかで細く走ったような、湿った線の音。ほんの一拍。

 呼吸が止まり、視線が蛇口へ吸い寄せられる。

 次の一拍には、何もいなかった。キッチンの静けさは、ただ湿度を孕んでいるだけだ。

 「……気のせい」

 声に出す。声は湿った空気に溶け、紅茶の表面に小さな輪が生まれて消えた。

 夜。机に術後の注意書きを広げる。活字は、現実の側にある。水分制限なし。入浴可。飛行機は当面不可。激しい鼻かみは避けること。

 窓ガラスの向こう、雨は強めに降ったり弱まったりを繰り返している。街灯の明かりが路面で砕け、排水路の口が周期的に小さく呑む。

 ベッドの縁に腰を下ろし、耳の中の空洞を意識する。耳は静かだ。耳は――耳として、そこにある。

 そのはずなのに、胸の奥、見えない臓器の一つが、波打ち際でじっと水を待っている気がした。待っているのは、私か、向こうか。境目は、梅雨の雲と地平線の境界みたいに曖昧で、触れればすぐ混ざる。

 灯りを落とす。録音アプリが起動していないことを三度確かめ、スマホを伏せる。

 眠りの手前、城戸のグラフと世界地図の赤い点が、まぶたの裏に浮かびかけ――雨粒に叩かれて、ゆっくりと均されていった。

 ――統計は静かだ。

 静かさは正しさの形ではない。ただ、均す。

 均された面の下で、何かがこちらを見ていたとしても。

 私は目を閉じた。雨は続く。水は、巡る。

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