静寂
手術を明日に控えた夜。
部屋はいつもと変わらないはずなのに、空気の重さが違っていた。
冬でも夏でもない、ただ湿りを含んだぬるい温度が、壁から床へ、床から足首へとまとわりつく。
カーテンの隙間から滲む街灯の光が、床に細長い帯を落とし、時計の秒針がその帯を寸断していく音だけが響く。
胸の奥に不安が、ぬめるような塊になって沈んでいた。
――明日で終わる。
そう自分に言い聞かせても、その塊は崩れない。かえって、ゆっくりと膨らんでいく。
夕食は、スープとパンを少し。
水分は控えた。口に含むのは紅茶だけ。
だが、夜が深まるにつれて、喉の奥が砂を詰められたように乾いていく。唾を飲んでも、乾きは逆に広がった。
舌先が上顎に張り付き、舌の裏に熱い血の味がじわりと滲む。
頭ではわかっている――水を飲めば、また“あれ”が来る。
それでも、身体は別の意志を持ってしまったように、キッチンの方へ視線を送ってしまう。
冷蔵庫の低い唸りが耳にこびりつく。
蛇口は暗闇の中で光を失い、そこだけ黒い穴のように沈んで見える。
視線を逸らしても、背中の皮膚が、そこから伸びる冷たい気配を拾い続けている。
――行くな。
そう頭が叫ぶのに、足は床板の軋みを踏みながら、音を吸い取るように一歩ずつ進む。
シンクの前に立つと、金属の冷たさが足裏から伝わってくる。
コップを手に取る。ガラスの表面が微かに湿っていて、指先にぬるりとした感触が残る。
蛇口をほんの少しだけ捻る。
細い銀色の糸が落ち、底に透明な水が溜まっていく。
その水面が――揺れた。
最初は私の顔だけ。
だが、次の瞬間、横に別の顔が並んだ。
髪が水の中で広がり、暗い海草のように揺れている。
顔の輪郭は溶けるように曖昧で、皮膚は死人のように色を失っていた。
その唇が、私と同じタイミングで開く。
「……まだ……足りない……」
声は耳からではなく、頭蓋の内側へ直接落ちてきた。
全身の毛穴が逆立つ。喉が硬直し、身体が水面へ引き寄せられる。
背中に糸を括りつけられ、それがゆっくりと巻き取られていく――そんな感覚。
距離が縮まる。あと数センチで、顔と顔が触れる。
息が浅くなる。心臓の鼓動が耳の奥で金属音のように響く。
コップを離そうとしたはずなのに、指は逆に縁を強く握っていた。
そして――ごくり。
喉が自動的に動き、水が流れ込む。
耳の奥で爆ぜるような悲鳴。
視界が白と黒に交互に切り替わり、部屋の輪郭が水の揺らぎに呑まれる。
足元から冷たいものが這い上がり、膝、腰、胸元までを締め上げる。
廊下の奥に、白いワンピースの裾が見える。
濡れて重たく、左右にわずかに揺れ――歩みを進めるたび、足音ではなく水滴の音だけが響く。
「……やめろ……」
声にならない声。唇は動いているのに、音は水に吸い取られる。
女の顔は見えない。だが、髪の奥で確かに、誰かが笑っている気配がした。
その瞬間、灯りが一斉に戻った。
蛇口からの水は止まり、コップには半分の水が残っている。
床も、壁も、乾いている。
……ただ、コップの水面には、私ではない誰かの瞳が一瞬、まばたきした。
息を荒げながらベッドへ戻る。
天井の影がゆっくり形を変え、時折、人の髪の束のように見える。
耳の奥は静かだ。あの悲鳴も、囁きもない。
――終わるんだ。
そう呟きながら、乾いた唇を噛み、眠りに落ちた。
翌朝、手術室の白い天井が目の前に広がる。
麻酔の匂いが鼻に絡みつく。
医師の声が遠くなり、視界の端で、水面と同じ揺らぎが一度だけ走った。
そのまま意識は、深い水底へと沈んでいった。
――揺れている。
最初はそう思った。
頭が、体が、水底でゆらゆらと浮かんでいるような感覚。
遠くで規則的な音がしている。ぽこん、ぽこん、と、潜水中の気泡のように。
次第に、それが心電計の電子音だと気づく。
瞼を開こうとしても、まぶたの裏に鉛が仕込まれているように重い。
喉は渇いていたが、あの時のような切迫した渇きではない。ただ、じんわりとした乾きが舌に貼りついている。
ぼんやりとした意識の隙間に、昨夜の水面が浮かんだ。
黒髪の女の顔。白く濁った皮膚。
――終わったはずだ。
そう念じるが、映像は薄れず、しぶとく残っている。
まぶたがわずかに開き、白い光が目に刺さった。
そこは手術後の回復室だった。
天井の照明は滲んで見え、点滴スタンドの金属がわずかに冷たい輝きを放っている。
耳の奥は静かだった。
……本当に、何も聞こえない。
呼吸が少し深くなる。
ベッド脇に人影が動いた。城戸だった。
「起きたか」
その声も、以前のような水の反響を伴わない。ただの声だ。
それが、胸の奥に小さな安堵を落とす。
桐生と相良も現れ、口元に笑みを浮かべる。
「成功だってさ」
その言葉を聞いた瞬間、視界がわずかに滲んだ。
だが、安堵の波はすぐに別の波に打ち消された。
――本当にこれで終わったのか。
水のない場所にいても、喉の奥に薄い膜のような違和感が残っている。
それは乾きでも潤いでもなく、何か透明なものが、まだそこに貼りついているような感触だった。
看護師が差し出した紙コップの白湯を、ためらいながら口に含む。
温かさが舌に広がる。耳は静かだ。
――大丈夫……?
小さく息を吐くと、胸の奥の緊張が一枚剥がれ落ちた。
それでも、底の方に残った何かは、まだ剥がれないままだった。
窓の外は、雨上がりのような曇天。
白い雲の切れ間から差す光は、どこか水面の反射に似ていた。
まぶしさに目を細めると、その一瞬、雲の間に――あの女の髪が揺れたような錯覚が走った。
瞬きをした時にはもう、ただの空に戻っていた。
「……これで、終わった」
城戸がそう言い、私はうなずいた。
けれど心の奥では、まだ答えを出せずにいた。