兆し
翌朝、首の後ろに薄い板が差し込まれているような硬さを覚えながら目を開けた。眠りは浅かった。寝返りのたびに、シーツの繊維が皮膚に水の絹のように貼りつく感触があって、そのたび目が覚めた。台所のシンクの氷は、朝には水たまりになっていた。黒い点は、どこにも見当たらない。ただ、ステンレスの底に丸い輪が残り、そこだけ金属がわずかに曇っている。
城戸から「昼、会えるか」と連絡が入った。待ち合わせは駅前のビジネスホテル。小さなロビーは安い芳香剤の匂いがして、観葉植物の土が乾きすぎていた。エレベーターで四階へ。突き当たりの部屋のドアが半分開いていて、ノックする前に中から城戸の声がした。
「入って」
狭い部屋に、白いベッドと小さなデスク、パイプ椅子が二脚。カーテンは半分閉められ、外の光は澱んだ布越しに鈍く落ちている。城戸はノートPCを開いたまま、画面をこちらへ向けた。桐生はベッドの端に腰をかけ、紙のファイルを膝にのせている。相良は窓際に立ち、カーテンの隙間から外の色温度を測るみたいに空を見ていた。
「医学の線、進んだ」城戸は前置きなしに言う。
画面には英語の論文。図と波形。脳の断面の模式図。
「液体摂取の瞬間、耳管――咽頭と中耳をつなぐ管の圧が変化して、鼓膜や耳小骨のわずかな動きが、骨伝導で脳に異常な入力を与える。構造的な違いがある人間は、特定の周波数を“声”として誤認しやすい」
城戸の声は乾いているが、説明は正確だ。指先でグラフの山を示し、ピークの位置をタップする。「ここ。女声の悲鳴帯域に近いピークが出ている症例がいくつかある」
桐生が補足する。「“飲んだときだけ聞こえる”幻聴。稀だけど、あるの。耳の形、耳管の開閉の癖、神経の配線。遺伝で似ることもあるらしい」
「検査を受けてみろ」相良が短く言う。「知り合いを手繰って、紹介を取った。大学病院。来週、枠が一つ空いた」
息を吸う。肺の内側が少し広がった気がした。そこに、やっと空気が入る。
「……お願いします」
病院の白は、清潔というより“徹底的な排除”の色だ。廊下の床はほどよく弾み、靴音が軽く吸われる。案内板の矢印に沿って耳鼻咽喉科。受付から検査室へ。
CT。金属音。機械の円の中に頭を差し込まれ、動かないように、と言われる。装置の中の空気の温度は、わずかに冷たく、乾いている。内側から耳が痒くなる。
次は鼓膜の可動性の測定。小さなイヤチップを外耳道に入れられ、空気圧を変化させる。微かな圧迫感が、咽頭の奥へ逆流する。
さらに、脳波のような装置で聴覚野の反応を取る。白いジェルをこめかみに塗られ、電極が貼られる。看護師の手の温度は平均的で、プロの押し当てる圧は一定だ。
機械の音に混じって、ぽたり――という音が、一度だけした。
天井を見上げる。蛍光灯は乾いた光を放っている。わたしが目線を戻すと、看護師は何も気づいていない様子で、数値を読み上げていた。
医師は五十代、痩せた指に細い結婚指輪。眼鏡の奥の目は疲れを隠さないが、声はよく通る。
「耳管の形がやや特異です。生まれつきかもしれない。飲水時に圧が変動しやすい。聴覚路の一部に、過敏な反応が出ていますね」
淡々と画面を切り替え、わたしのCT画像に丸をつける。耳の内側の空洞は、思っていたより複雑で、空の洞窟の断面のようだった。
「手術で矯正可能です。内視鏡で耳管の一部の形を調整し、必要なら鼓室の圧調整も。術後、こうした幻聴は消えることが多い」
「副作用は……?」
「一過性の眩暈や耳鳴り。感染のリスクは低いですがゼロではない。術後は一定期間、圧のかかる行為――飛行機、潜水、激しい鼻かみなど――を避けてください」
言葉は現実的で、どれも理解可能な枠内に収まっている。異常は、枠の中に収まるなら、異常ではなくなる。
「お願い……します」
口から出た声は、驚くほど小さかった。医師は頷き、手術の日取りを来週の中頃に定める。
説明書類にサインをする。ペン先の摩擦が、紙の上で乾いた音を立てる。インクの匂い。わたしの名前の横に今日の日付。数字は現実の鎹だ。
席を立ったとき、診察室の隅で、透明なものが一瞬、光った。
看護師が落とした消毒用ボトルのキャップだ。床に転がり、止まる。
――わたしは、何に怯えている。
病院を出ると、午後の光は白の中に黄色を含み、駐車場の白線を鈍く照らしていた。風は吹いていない。耳の奥の空洞は、さっきより静かだった。
ホテルの部屋に戻ると、三人が待っていた。
「どうだった」城戸。
「手術すれば……治るって」
「やったな」相良が短く言い、コンビニの紙コップのコーヒーを手渡してくる。「砂糖入ってない。大丈夫だ」
わたしは一口飲む。舌に苦味が広がる。安全だ。温度に、味がある。
桐生は横顔を見ながら、ゆっくり頷いた。「医学は、現実の側に橋を架ける。こっちに戻るための橋」
城戸はノートPCに視線を落としたまま、別の画面を開いていた。「一つだけ、言っておく。手術はやった方がいい。だが、統計は“世界”のペースを緩めない。君が飲まなくても、点は点り続けた」
「……知ってる」
昨日の氷。黒い点。ニュースの川面。
「だからこそ、君は君の分を切り離せ。回路から抜けても、世界は世界で回る。だが、君の耳は君のものだ」
夜。自宅に戻り、冷蔵庫を開ける。ペットボトルの水が一本。ラベルの青が、冷たい色を誇張する。
手は伸びない。伸ばせない。
ティーポットに湯を注ぎ、紅茶を淹れる。蒸気が白く立ち上がる。湯気は、形のある安心だ。
――ぽたり。
背中の方で音がした。振り向く。台所の床に丸い水の斑点が一つ。天井は乾いている。壁も、窓枠も。床にもう一つ、斑点が増える。間隔は等しい。
玄関の方を見る。玄関マットの角が、わずかに濃く湿っている。外は雨ではない。
濡れた足跡は、二歩分だけ続き、廊下の真ん中で途切れていた。
立ち尽くす。鼓動が耳に上がってくる。紅茶の表面に、薄い輪が広がっては消える。
「錯覚だ」わたしは声に出した。音にすることで、輪郭を与え、世界に固定する。
その瞬間、輪は消えた。床の斑点も、乾いていく。乾く速度は自然で、科学的で、安心に似ていた。
スマホが震える。城戸からの共有地図。世界の赤点が、ゆっくり点灯し、ゆっくり消える。
今日も、いくつか。
明日も、いくつか。
ベッドの縁に腰かけ、手術の同意書のコピーをもう一度読む。活字は、昼よりも重い。
耳の奥の空洞に、冷たい風が渡る感覚が、ほんのわずかにある。
明日、術前検査の最終確認。血液、心電図、同意の再説明。
「大丈夫」声に出す。
声は、夜の部屋の中で輪郭を持たず、空気に吸い込まれる。
――見てる。
それは音ではなく、意味の塊だ。意味が皮膚の裏に貼りつき、寝返りを打つたびに形を変える。
わたしは照明を落とし、録音アプリが起動していないことを確認し、スマホを伏せた。
暗闇の中で、耳の内側の扉は、少しだけ、固くなっていた。
眠りの縁で、病院の白い廊下を歩く自分を見た。床の中央に、短く濡れた足跡が二歩だけ残っている。わたしの靴は乾いている。
振り向くと、曲がり角の向こうで、白いワンピースの裾が――水の抵抗を受けるみたいに――遅れて揺れ、消えた。
目を開ける。部屋は静かだ。窓の外で、遠い車のタイヤが濡れていない道路を滑っていく。
喉の渇きは、ない。
紅茶は冷め、表面に薄い膜が張っている。
わたしは、明日の朝には病院へ行く。予定通りに、手術の準備をする。
グラスを伏せ、蛇口に背を向けた。
扉の向こうに、白い光の廊下が延びている。光は乾いている。
そこに、橋を架ける。現実へ戻るために。
――それでも、世界は水で満ちている。
その事実だけが、眠りの底で、ゆっくりと重く沈んでいった。