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氷水の罠

 昼下がりの駅前は、夏の熱の膜でおおわれていた。アスファルトの照り返しが足首にまとわりつき、横断歩道の白線の上を歩くだけで、靴の底がやわらかくなるような錯覚に陥る。人の往来はまばらで、風は透明なだけで冷たさを持っていない。わたしは無意識に、日陰を選びながらビルのアーケードの下へ逃げ込んだ。


 ――今日は大丈夫だろう。

 そう思った。根拠はない。ただ、朝から続いていた細い頭痛が、昼前を境にぴたりと消えたのだ。耳の奥の空洞が、いつもより乾いて軽い。あの、何かに見張られているような気配が、いくら耳を澄ませても拾えない。

 油断、という言葉の輪郭は知っている。だが、その輪郭は、昼の光の下では紙のように薄い。


 二階の踊り場に、小さなカフェの看板が出ていた。白いチョークでその日のランチが書かれている。パスタと、キッシュと、サラダ。写真では、皿の周りに氷の入ったグラスが並べられ、光をはね返していた。わたしの指は、躊躇いと渇きの中間にある手触りで、手すりに触れた。階段を上がる。踊り場の隅の観葉植物は水気が多く、葉脈に沿って艶が走っている。表面張力の糸のようなものが、葉先にたまり、垂れずに耐えている。


 ドアを押すと、穏やかな冷気が頬にまとわりついた。店内は半分ほどの入りで、奥の壁沿いの席だけ空いている。木目のテーブルは薄く磨かれ、窓際に並ぶグラスの口には均一な影が落ちていた。わたしはメニューを見ずに、席に腰を下ろした。水のことは、言う。ちゃんと言う。そう自分に言い聞かせ、呼び鈴を押す。

 店員が「いらっしゃいませ」と笑顔で近づき、その笑顔のまま、なめらかな動作でテーブルにトレイを置いた。ステンレスの皿、紙ナプキン、スプーンとフォーク、そして――音を先に連れてくるようにして、透明なグラスが滑り込んだ。


 氷が三つ、底に敷き詰められている。グラスの表面に細かい汗が浮き、滴がつう、と縁を伝って落ちた。

 「お冷、お持ちしました」

 「――」

 わたしは口を開いた。開いて、閉じた。声帯が紙やすりみたいに荒れて、声の輪郭が立ち上がってこない。店員は微笑を崩さないまま、注文を取りに来ますと軽く会釈し、カウンターへ戻っていく。わたしは、グラスから目を離すことができなかった。


 カラン、と氷が鳴る。

 その音が、まるで部屋の中心から出ているように大きい。店内のBGMが、急に布の裏側へ押し込まれたように遠のく。隣の席の会話は、唇の動きだけが見える無音映画に変わる。時刻は真昼だが、視界の周辺が薄い陰で縁取られ、テーブルの木目だけが異様に鮮やかに立ち上がる。

 氷の角に、黒い点がある。気泡にしては色が重く、刺のある黒だ。

 じっと見ていると、その黒が――わたしのまばたきに合わせて、かすかに瞬いた。


 喉は渇いていない。むしろ唾液がたまって、飲み込むのに苦労するほどだ。舌の奥が、じんわりと疼く。

 ――飲め。

 耳の斜め後ろ、髪の根元の皮膚の下を、小さな口が移動するみたいにして囁いた。

 いいえ、と口の中で言う。喉仏が固く上下する。両手を膝の上で握る。握ったはずの指が、そのままテーブルのふちに置かれている。わたしの意思より先に、身体が短い動作の列を選び取っていく。

 指先がグラスに触れる。冷たさが皮膚の表層だけでなく、骨の芯まで突き抜けて、掌の中に透明な刃を立てる。持ち上げる。

 「やめて」

 声にならない声が、口腔の天井に吸い込まれ、消えた。


 氷が唇に当たる。

 次の瞬間、世界の方が口を開いた。

 ごくり――と、喉が自動的に仕事をする。飲み込みたくない。けれど、飲み込まれている。食道の内側を水が擦り、胃の入口に小さな鐘の舌をぶつけていく。

 耳の奥で、鋼板が裂ける音がした。


 甲高い悲鳴。

 人間の声帯には出せない角度で、喉を引っ張られたみたいな悲鳴が、骨伝導で脳に直接流れ込む。こめかみの内側で音の棘が増殖し、頭蓋の内壁をひとつずつ押し広げる。視界は白く弾け、すぐに暗くなり、また白い。光と闇が早すぎるシャッターで交互に落ち、わたしはテーブルの端を掴んだ。グラスがカランと転がり、氷が跳ねる。水が甲の上に散り、冷たさより先に“重さ”が皮膚を引いた。


 そこに、いた。

 二つ隣の席に、女が立っている。

 白か、灰か、色の定義を拒む布。たぶんワンピース。濡れて肌に貼りつき、脇の下の色が濃く変わっている。長い黒髪は束になって垂れ、毛先から黒い水が落ちるたびに、床に丸い斑点が増えていく。

 顔は、見えない。髪が覆い、額から顎へかけての地形を徹底的に隠している。だが、見えないことでかえって、“何か”がそこに潜んでいるのが分かる。皮膚が先に理解して、視覚が遅れて頷く。

 わたしは椅子から立ち上がろうとした。太ももの筋肉が収縮するのに、膝が曲がらない。身体は動かないのに、体温だけが落ちていく。足首に、冷たいものが触れた。


 床の水が広がっていた。ぽたり、ぽたりと新しい滴が落ちるたびに、輪が重なって大きくなり、足元まで届く。靴底が吸い付かれている。視線を戻すと、女の指が持ち上がっていた。

 細い指。異様に長い。関節が微かに逆へ折れている。骨の影が皮膚を内側から突き上げて、継ぎ目の位置が人間のそれと違って見える。

 指先が、ゆっくり、わたしの胸の前で止まる。触れない。空気の層だけが、指先の周囲で硬くなって、そこから冷気が四方へ流れた。

 女は一歩も動いていないのに、距離は縮む。髪の奥で口が開く音が、はっきりと聞こえた。

 ――見てる。

 言葉ではない。音でもない。けれど、意味がはっきり伝達される。こちらが見ているのではない。向こうが、わたしを、見ている。


 空間が傾く。水平が失われ、テーブルの角が刃の役割を獲得し、椅子の背もたれが冷たい背骨のような質感になる。店の奥で誰かが笑い、その笑いが水中で泡になって弾け、消えた。

 女は、笑わない。髪の奥の口は、開いたまま。わたしの喉は、閉じたまま。

 次の瞬間、音が戻った。

 氷がもう一度、カラン、と鳴った。その一音が合図だったように、女の輪郭が、水に吸い込まれる砂の城みたいに、下から崩れ始めた。髪がほどけ、繊維が紐のように解け、細い糸になった断片が床の黒に溶けていく。消える、というより、飲み込まれる。

 そこには、誰もいなかった。

 残っているのは、濡れた足跡。裸足の、踵から指先までの形が、カウンターの奥へと規則正しく並び、スタッフ用ドアの手前で途切れる。店の誰も、見ていない。斑点はゆっくりと乾いて輪郭を失い、床の木目に吸収されていった。


 呼吸を再起動するのに、しばらく時間がかかった。胸郭が硬い箱になって、酸素の入れ方を忘れていた。わたしは会計を済ませ、外へ出た。

 熱の膜が再び肌に貼りつく。けれど背中の中だけは冬の川だ。肩甲骨の間に沈められた石が、骨の重さを増やす。ビルの窓ガラスに、濡れた髪の影が一瞬揺れた。振り向くと、反射の角度だけが残っている。


 家に戻る前に、書店に立ち寄った。紙の匂いは、思考を乾燥させる効果がある。平積みの背を撫で、適当な小説を開く。活字が、一旦は目の中に入る。だが、三行目に差しかかる頃には、文字は黒い水の斑点になり、紙面に広がって互いを呑み始める。閉じた。

 帰ろう。

 エレベーターの階数表示が上へ移動する間、わたしは自分の両手の甲を見ていた。指の間の水気は乾いている。爪の色は正常。皮膚の表面に、氷の角の感触だけが残っている。


 玄関の鍵を回す。ドアの隙間から、湿気が猫のようにするりと足元へ擦り寄ってきた。部屋の空気が、どこか鈍い。

 台所の方で、音がした。

 ぽたり。

 ぽたり。

 蛇口は閉めてある。シンクのステンレスには水滴が規則を持って現れ、落ちる。天井は乾いている。壁も、排気口も。

 シンクの底に、氷が一つ、転がっていた。

 角が少し溶けて、透明な内側に黒い点がある。気泡ではない。芯だ。瞳孔のように、中心に向かって収束している。

 瞬きした。

 氷の中の黒が、一拍遅れて――まばたきをした。


 耳の奥で、また、悲鳴が立った。

 スマホが震える。篠崎からの共有リンクだ。タップする。ニュース動画が再生される。画面の中、外国の川辺。濁った水が鈍色の空を映し、救助隊の男たちがロープを張っている。ストレッチャーの白い布。テロップには〈南アジアの地方都市で女性が川に転落〉と走る。

 城戸のメッセージは、一行だけ。

 〈……今日、飲んだな〉


 喉が空洞になった。否定しかけた言葉は、口の中でほどけた。

 画面の川面が、こちらを見返している。昼の光が乗っているはずなのに、表面は夜の瞼のように重い。水は、形のない眼球だ。

 わたしは、シンクの中の氷を見た。黒が、また小さく瞬いた。


 コップは伏せたまま。蛇口は、乾いている。

 それでも、部屋のどこかで、水の音がやまない。

 ――見てる。

 囁きは、音ではなかった。意味だけが、皮膚から内側へ滑り込む。

 夜になる前に、灯りをすべてつけた。窓の鍵を確かめ、録音アプリが起動していないことを三度確認した。

 それでも、耳の内側の扉は、勝手に開くことがある。今夜も、そうなるのだろう。

 グラスに麦茶を注ぎ、喉の形を思い出すように、一口ずつ飲んだ。


 氷は、シンクの底で静かに小さくなっていった。黒い点は、最後まで中心から動かなかった。


 夜が、部屋の四隅に座り込む。

 冷蔵庫の小さな唸りが、一定の拍で空気を振る。

 わたしは両手を重ねて、指の内側に残っている冷たさを、ゆっくりと擦り消した。


 窓の外の闇のどこかで、サイレンが短く鳴り、すぐ遠ざかった。

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