地図の赤点
翌日の正午、城戸から「可視化した」とメッセージが来た。
〈十五時、うちの拠点に来られる?〉
桐生も相良も既読をつけ、短く了解の反応。地図の赤点――昨夜の通話でその言葉を聞いたとき、頭の奥が微かに重くなった。点は、地図の上ではただの彩色だ。けれど、実体のある死だと想像するほど、色は濃くなる。
指定された住所は、駅から少し離れた雑居ビルの五階だった。エレベーターを出ると、廊下の突き当たりに無地のドア。表札はない。インターホンを押すと、すぐに錠が外れた。
中は意外なほど簡素だった。壁一面に黒いラック、サーバ機の低い唸り。奥のテーブルにはモニタが三台並び、城戸が椅子に浅く腰掛けている。桐生は既に来ていて、紙ファイルを膝にのせ、指先でリズムを刻んでいた。相良は窓際に立ち、外の空気を確かめるようにカーテンを少しだけ開いた。
「座って」城戸は第一声から本題に入る。「世界地図。過去一週間の“水辺での突然の死亡”事案。各国メディア、自治体の発表、救助隊のログ、SNSの動画。二十四時間以内の事後報告は精度が荒いが、全体の分布には偏りが出る」
モニタに白い世界地図が広がる。大陸の輪郭が骨のように乾いて見える。
城戸がショートカットを打つ。地図上に、赤い点がひとつ、灯った。続けて、またひとつ。点は間隔を詰めはじめ、画面はすぐに疎密のある星図に変わる。東南アジアの河川流域は密度が濃く、欧州の運河地帯、北米の湖畔、アフリカの大河沿いにも、点は規則もなく散る。海上の点は少ない。ほとんどが陸の“水際”で止まっている。
「これが実数?」と問うと、城戸は短く首を振った。
「拾えているのは氷山の一角。だが、偏りは見てのとおり“文化圏”ではなく“水系”に寄る。つまり、宗教・生活習慣の別より、地形が支配している。――当たり前だ。水は地形の言語で流れる」
「そして、この一週間に“水城さんが真水を口にした時間帯”をオーバーレイする」
地図に薄い円形のハイライトが現れた。日本時間で数本の帯。城戸がスクロールバーを動かすと、赤点の出方が、帯の中でわずかに、しかし確実に濃くなる。
「有意差がある。統計的に偶然と言い切れない程度に。君は発火点の一つになり得る。だが――」
城戸はカーソルをさらに滑らせる。「君が水を断っていた二日間。点は減らない。“定常運転”のまま」
桐生がモニタの縁に指をそっと置き、視線だけを滑らせた。「器ではなく“回路”。君は回路の一部。回路は一つではない」
「昨日の朝に送った現場、覚えているか?」相良が口を開く。「最初の用水路の近くで、夜明け前にもう一件。今朝になって判明したのは、その前夜、被害者がコンビニで“水”を買っていた監視映像だ。ラベルの色、間違いなく水。レシートの印字も残ってる」
「それが“鍵”だという証拠にはならない」城戸の口調は冷静だ。「だが、我々が注目すべき“傾向”ではある」
画面の赤点は、呼吸する生き物の皮膚のように、ふくらみ、やせ、またふくらんだ。わたしは喉の奥で唾を動かしたが、飲み込まなかった。
「統計は、結論ではない」と城戸。「だが、地勢学的に言えば、これは“感染”に近い拡散パターンを持つ。媒介が空気ならもっと広がる速度は不規則になるが、これは“流路”に沿っている。水路。排水網。地下水。……君たちの言う“呪い”という語を使うなら、これは“循環”。」
“循環”という言葉が、やけに重く耳に残った。血の循環。水の循環。呪いの循環。
城戸は地図を閉じ、別の画面に切り替えた。表計算のセルが並ぶ。時刻、緯度経度、媒体、証言の断片。
「現場で“飲水直後”の証言があるものに限定した場合でも、サンプルは少ない。だが、ゼロではない。コップの水、蛇口、ペットボトル。稀に、雨」
「雨?」わたしは思わず復唱する。
「軒下で雨を舐めた子どもが、その後に側溝に落ちた事例。因果で結びつけられるものではない。ただし、“記述として残る”」
城戸は淡々と語り、桐生はそれを“物語”へと寄せる。
「“最初の誓い”は、たぶんとても単純だったのよ」桐生は机の上で指を絡めた。「『水を飲むすべての者を殺す』。単純であるほど、呪いは配列を崩さない。地球規模の水の循環に接続してしまえば、あとは流れに任せるだけ。器は、回路のスイッチ。スイッチは一つではない。――ねえ結衣、二十歳の誕生日から、だったわよね?」
「……はい」
「この“目覚め”も古い伝承と合う。成人の閾値。子から大人へ移る、その“通過儀礼”。祝いと、死の等価交換。呪いは、そういう節目に種を撒く」
喉の奥に熱がこもる。麦茶の紙パックがカバンの中に重みを主張している。飲みたい。だが、ここで飲めば、画面のどこかの点がまた濃くなる。
「――質問、いいですか」やっとの思いで声を出す。「この地図の中で、わたしが“飲んだとき”だけ光る赤点は、具体的にどこかの誰かに対応しているんですか」
城戸は一拍置き、真正面から頷いた。「推測になるが、“近似的に”そうだ。時間帯に合わせて密度が上がった地域を追うと、発生が集中した水系が見える。特定の川、特定の井戸。その中の“誰か一人”とは言えないが、“どこか一つの出来事”とは結びつきやすい」
「選ぶのは、誰?」
沈黙。
「向こう」相良が簡潔に言った。「こちらではない。こちらが選べるなら、呪いは成立しない」
桐生がファイルをめくる。紙の擦れる音が妙に湿っている。
「“選ばれた側”の表情の記述が、いくつか残っているの。笑う顔。怒る顔。泣く顔。――でも一番多いのは、“知っている顔”。鏡のように、覗き込む者に似てくる。そう書く記録が多い」
鏡。わたしは反射的に洗面台の鏡を思い出し、胸の奥に冷たい指を差し込まれたような感覚をおぼえた。
「写真の“上書き”の件」城戸が話を戻す。「昨夜、相良の端末に起きた現象。元データは消失したが、ログ上は“正常更新”。つまり、“外からの侵入”ではない。“内側での自己変質”に近い。観測された怪異を、観測装置ごと均す――」
「蓋をする」桐生が言葉を継ぐ。「見られた分だけ、埋め戻す」
拠点の空気は乾いているのに、肺は妙に重かった。換気扇の風が天井の隅を撫で、サーバのファンの音が一定の拍で空気を震わせる。モニタの奥で赤点がまたひとつ灯る。画面の外側、わたしの世界のどこかで、誰かが水の縁に足を滑らせた音が、確かに“した”ように感じた。
「医学の線も、否定はしない」城戸が言う。「耳の構造、圧変化、骨伝導。実際、該当症例はある。手術で軽快した例も。――だが、医学で片付けられるなら、地図はこんな風には点らない」
「それでも、君は“治療”を選んでいい」相良の声は現実に足がついている。「生きるために、できることは全部やる。俺たちの仕事は“どちらでもない”ところに橋を架けることだ」
桐生が笑う。「橋は、たいてい水の上に架かる」
その瞬間、フロア全体の照明が一段、薄くなった。モニタは生きているが、蛍光灯が短く瞬き、戻る。城戸が天井を一瞥し、電源系統の数値を見て首を傾げた。「瞬断。外の系統だ」
――水音が、した。
耳の奥ではない。部屋のどこか。わたしは反射的に視線を巡らせ、窓の下の簡易シンクで滴が落ちるのを見た。蛇口は閉まっている。だが、ステンレスの皿の上に、透明な珠が一つあって、重力に従って縁に滑る。
「……今、水、使ってます?」
「使ってない」城戸は即答し、シンクに近づく。相良が蛇口をひねってみる。乾いた金属の擦れる音だけで、水は出ない。管の奥に水がないときの音だ。
それでも、皿の上の珠は、次の珠を待つように、じっと輝いている。
桐生が囁いた。「見てる」
わたしたちは同時に黙った。モニタの赤点が、誰の視線も受けないままに増え、消える。皿の上の珠は、やがて表面張力を破り、端から落ちた。落ちる音は、意外なほど乾いていた。
相良がゆっくりと蛇口の下に指をかざし、「給水自体が止まってる。――外の工事か」と独り言のように言う。
それ以上、何も起きなかった。わたしは無意識に息を吐き、笑ってしまいそうになる自分を押さえた。怖い時、人間は笑いたくなる。笑って、輪郭を戻したくなる。
「今日はここまで」城戸が区切りをつけた。「後ほど、データとグラフを共有する。水は引き続き避けて。明日、別件の現場。相良が行く」
桐生が紙ファイルを閉じる。「結衣、帰りに“お冷ください”って言われても、ちゃんと断るのよ」
「はい」
立ち上がると、サーバの唸りが急に遠のいたように感じる。出口に向かう足取りは軽いのに、背中に何かの目線がまとわりつく。勝手に振り返る。モニタの世界地図は、白いままだった。赤点は、表示を止められ、消えていた。
廊下に出ると、五階の窓はほんの少しだけ曇っていた。手の甲で拭うと、薄い水の膜が広がる。わたしは指先を慌ててズボンにこすりつけた。エレベーターを待つあいだ、遠くで救急車のサイレンが細く伸びていく。どこかで、また一つ、点が灯った。
夜。部屋に戻る。麦茶をグラスに注ぎ、長く息を吐いて、一口。耳の奥は静かだ。
「大丈夫」と声に出す。誰に届けるわけでもなく。
テレビをつける。ニュースは、政治の小競り合いと、スポーツの結果と、天気。海外ニュースの短い枠で、南半球の洪水映像が流れた。人々が腰までの水に浸かって歩き、救助隊がボートを押し、子どもが泣いている。音量を下げる。画面の下に小さくテロップが走る。〈行方不明者 数名〉
グラスの氷が音を立て、ほどけ、液面に輪を作る。輪はゆっくり広がり、何事もなかったかのように平らになった。
寝る前に、録音アプリの権限をもう一度確かめる。オフ。バックグラウンドも切ってある。スマホを伏せ、照明を落とす。闇に目が慣れるまでの短い時間、耳は必死に何かを拾おうとする。拾えない。拾えないのに、拾った気がする。
――見てる。
最初の夜の囁きが、文字ではなく、湿った気配となって胸の奥に残っている。
眠りのふちで、世界地図の赤点が、まぶたの裏に現れた。日本列島の上でひとつ、消える。海を渡って二つ、灯る。大陸の内陸で、川の蛇行に沿って列を作る。赤は、血の色ではない。ただの表示色だ。それでも、人の形をした点に見え始める。
点はやがて、顔になる。輪郭は揺れ、口が開く。音はない。だが喉の動きだけで、言葉が読めた。
――まだ、足りない。
目が覚める。暗闇の中、天井の四角がわずかに白く浮かぶ。枕元のスマホは静かだ。冷蔵庫が一度だけ低く鳴り、止む。
喉が渇いていた。麦茶のグラスは空。キッチンに立つ。紙パックは残り少ない。コップに傾け、最後の一筋を注ぐ。口に含む。冷たさは、ただ冷たく、苦みは、ただ苦い。
蛇口の銀色が視界の端に入る。
わたしは、ゆっくりとコップを伏せた。
窓の外で、救急車の音が、一つ、遠ざかった。次の赤点が、どこに灯るのかを想像しないようにして、目を閉じた。
明日は相良が別の現場に行く。城戸は数字を積み上げ、桐生は言葉を掘り起こす。わたしは飲まない。――それだけが、今できること。
それでも、世界のどこかの水面は、目覚めの気配で肌を震わせている。
“見ている”のは、こちらか、向こうか。
答えは、まだ、水の底で均されている。