誓い
四日目の午後、桐生からメッセージが届いた。
〈面白い資料を見つけた。今夜、通話〉
定刻の二十一時、ビデオ通話の画面に桐生が現れた。背景はどこかの古い書庫らしく、背後一面に黄ばんだ背表紙が並んでいる。机の上には厚い和綴じ本が開かれ、その上に桐生の細い指が置かれていた。
「民俗学ってのは、時々とんでもない贈り物をくれるのよ」桐生は少し芝居がかった調子で言い、ページをゆっくりとめくった。「これはある村の記録。江戸の中期、干ばつが続いた年に書かれたもの」
画面越しに見える文字は達筆すぎて読めない。桐生がそれを現代語に置き換える。
「村の川に堰を作るため、人柱を立てることになった。選ばれたのは若い娘で、名は残っていない。祭の日、白い着物に紅の帯。花嫁支度で川べりに立ち、村人に見送られて水に沈められた」
息をひとつ置き、桐生は口元だけで笑う。
「ここからが面白い。娘は沈む前にこう言ったそうよ――『水を飲むすべての者を殺す』」
ぞわりと、背中の皮膚が縮む。
「この村は今は地図から消えている。でもね、周囲の村では、その年から“不思議な溺死”が増えたという記録がある。川で、井戸で、時には桶の水に顔を突っ込んだまま死んでいた者もいた」
桐生の指がページの一角を叩く。「飲み水に触れると死ぬ――正確には、どこか別の場所の誰かが死ぬ。直接的な因果は証明できないけど、“呪い”としては筋が通ってる」
「……世界規模で?」わたしは思わず訊ねた。
「当時は村と村の間が世界の全て。でもね、川の水は海に流れ、雨になってまた降る。水は地球を巡る。もしその時に放たれた“何か”が水そのものに混じったなら……」
桐生の声は甘く響くが、その下に粘つくような冷たさがある。
「時代も国も関係ない。呪いは、地球の血流に乗って生き続ける」
桐生がページを閉じた瞬間、画面が揺らいだ。ノイズが走り、映像が歪む。回線の不具合だと思ったが、桐生は何も言わない。代わりに、画面の奥で水音がした。静かな、しかし耳にまとわりつくような水の落ちる音。
「……聞こえる?」
「はい」
「資料に、この部分が挟まってたの。挿絵、ってほどじゃないけど」
桐生が机の脇から紙を持ち上げる。墨で描かれた粗い絵。波紋の中に、女の顔が浮かんでいる。笑っているのか泣いているのか、判別できない。ただ、視線だけは確実にこちらを捕らえていた。
絵を見た途端、部屋の明かりが一瞬暗くなった。視界が揺れ、机が遠のく。桐生の声が細くなり、代わりに耳の奥で水の音が広がる。暗闇が視界を縁から削り取り、わたしは立っているのか座っているのかも分からなくなる。
――冷たい。
次の瞬間、わたしは膝まで水に浸かっていた。見上げると、鉛色の空。足元の水はゆっくりと深くなり、腰、胸、首と迫ってくる。向かいに白い着物の女が立っている。顔は陰になり、口元だけがわずかに見えた。
――飲め。
声は水の中から響いた。女は一歩、また一歩と近づき、わたしの肩に冷たい手を置く。水面が波打ち、口元まで迫る。反射的に息を止めた瞬間、視界が弾ける。
気がつくと、部屋の椅子に座っていた。机の上にはスマホ。画面越しの桐生が眉をひそめてこちらを見ている。
「……今、一瞬、いなくなったみたいに見えた」
息が荒いのを自覚する。両手は冷え切っていた。
「それが“向こう”よ」桐生が低く言う。「呪いは、見る者を引き込む。条件が揃えば、もっと深くまで行ける。――例えば、真水を飲んだ直後とか」
飲むな。城戸や相良の声が頭をかすめる。わたしは頷いたが、その瞬間、スマホの通知音が鳴った。相良からだ。
〈今夜、近隣で水難事故。被害者は二十歳の女性。転落前にペットボトルの水を飲んでいた証言あり〉
ペットボトルの水。二十歳。偶然かもしれない。だが、胸の奥で何かが笑った気がした。それは桐生の背後の闇に溶けていき、やがて水音だけを残した。