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喫茶“リモージュ”を出ると、駅前の空気は湿っていた。舗道の隙間から上がる夜の熱が、靴底に鈍くまとわりつく。城戸が歩きながら簡潔に段取りを示す。

 「まず、記録を取る。君の生活から“水”を完全に排除して、一週間。飲食、歯磨き、うがい、薬の服用――全部。代替は俺たちが用意する。その間、世界の水難事故の発生時刻を収集・プロットする。相互に相関が出るか見たい」

 桐生は横から、軽い調子で補足する。「それと、古文書庫。水に関わる“呪い”の系統を洗う。人柱伝承、溺死譚、井戸の祟り。土地に結びつく話は多いけど、君のケースは“土地に縛られない”匂いがするから」

 相良がポケットから名刺大のカードを一枚出して、わたしに渡した。QRコードと、最小限の連絡先。「何か起きたら、時間問わずここに。出られなきゃ折り返す」


 何か起きる――その言葉が、喉の裏でかすかに引っかかった。何も起きないでいてほしい。けれど、何も起きなければ、この三人に会った意味が霧に溶ける。願いと現実のあいだで舌が迷子になり、唾を飲み込むふりをして麦茶を少し口に含んだ。


 ***


 最初の二日間は、淡々と過ぎた。城戸が送ってくるフォームに、わたしは時刻と摂取物を細かく記録する。

 〈08:11 麦茶200ml〉

 〈12:43 アイスティー(氷あり)〉

 〈19:05 味噌汁(豆腐・わかめ)〉

 歯磨きのうがいは、薄めたマウスウォッシュ。つい手が蛇口に伸びそうになる瞬間を、指先の痛みで覚える。成功体験を積み上げれば、身体は新しい規則を信じる――城戸の言葉を念仏みたいに繰り返した。夜、録音アプリは起動しない。部屋の照明は安定し、窓の外の電車は定刻で走る。異常がないこと自体が不安になるのは、健康な証拠だろうか。


 三日目の午後、相良から電話が鳴った。

 「今晩、ひとつ現場に行く。うちの近県だ。来られるか?」

 「……現場?」

 「昨日の深夜、女性が用水路で転落。目撃はない。警察は滑落で処理しそうだが、現場を見ておきたい。無理なら俺だけで行く」

 壁時計は十七時を回っていた。講義は終わっている。夕飯の支度は、麦茶とコンビニの総菜で足りる。恐怖と好奇心の天秤は、わずかに後者へ傾いていた。

 「行きます」


 待ち合わせは駅前のタクシー乗り場。相良は薄いグレーのジャケットに、汚れてもいいようなスニーカーを履いていた。「長靴は車に積んだ。君は濡れない場所で見ていればいい。足場が悪い」

 後部座席に乗り込むと、運転席の背に貼られた地図に、細い青い線がいくつも走っている。相良は運転しながら、住職の話だ、自治会の古老だ、と、現場に向かう前に当たった連絡の断片を口にした。

 「この地区、昔は溜池が多かった。埋めて宅地にしても、地下水脈は残る。水はね、地図を信用しない」

 「……埋めても、そこに在り続けるんですね」

 「そう。人の都合では消えない。だから、“祟り”なんて言葉が残る」


 夕暮れの用水路は、町外れの畑の間をまっすぐに走っていた。コンクリートの側壁に浅い水が流れ、足場の悪い護岸には足跡がまだ新しい。相良は堤の上から写真を撮り、しゃがみこんで草の絡まる境目を指先で分ける。

 「落ちたのはこっち側。靴底の土の付き方で分かる。抵抗した跡は薄い。運が悪かった、で説明できる」

 「でも、あなたは納得してない」

 相良はレンズを覗いたまま口の端だけで笑った。「納得ってのは、記者がいちばん最後にする仕事だ」


 日が沈むと、用水路の水面は鉛色に鈍った。遠くの住宅街から犬の吠える声、畑からは姿の見えない虫の音、道の向こうにはコンビニの白い光。相良は撮影を続け、何度かフラッシュを焚いた。光の反射が目に残像を残す。その瞬間、水面の一部がわずかに盛り上がったように見えた。


 「……今、なにか」

 「魚はいない」相良は即答した。用水路は浅すぎる。風もない。波紋はすぐに消え、視界には何も残らない。

 「念のため、動画も回す。音も取る」

 スマホを三脚に固定し、相良は二分だけ録画した。水面はただ流れ、暮れなずむ空はさらに暗くなる。録画を止めた相良は、「戻るか」と車に向かった。


 帰りの車内、相良は撮ったばかりの写真をざっと確認する癖があるらしく、指先で次々とスワイプしていく。コンクリートの壁、草の黒い群れ、波紋のない水面。わたしは助手席の窓に顔を寄せ、暗い田んぼの向こうの街灯を見ていた。

 「――あれ?」

 相良の声が、ほんの少しだけ硬くなった。振り向く。

 車内灯の下、スマホの画面に、見覚えのないものが写っていた。明らかに一枚だけ、色調が違う。水面の中央が、円形に白く浮き上がり、その中に、人の顔の“輪郭”があった。表情は判然としない。髪が水の色に溶け、輪郭が周囲の闇を食むように広がっていく。

 わたしの喉が、痛いほど乾いた。

 「連写の一枚だ。撮った覚えはある。……だが、こんな風には写らない」相良はフリックして直前の一枚、直後の一枚を表示する。どちらもただの水面だ。

「拡大する」

 指で広げると、白い輪郭の内部に、さらに細い筋が走っているのが見えた。眉のような、口のような、形をとりかけて崩れる線。「この顔……」言いかけて、言葉を飲み込む。どこかで見たと断言できるほど明瞭ではない。ただ、“知っている種類の女の顔”だった。


 その時、画面がふっと暗くなった。相良が電源ボタンを押したわけではない。自動スリープにしては早すぎる。もう一度点けようとする間に、スマホが勝手に再起動を始めた。

 「電池はある。挙動がおかしいな」

 起動画面。ロゴ。ホーム。相良が写真アプリを開く。写真は一覧に並んでいる。――はずだった。

 「……消えてる?」

 いや、完全に消えたわけではない。サムネイルには確かに画像がある。だが、どれも、同じだ。

 水。

 青とも灰ともつかぬ、平たい色の水面が、画面いっぱいに広がっている。角度も、反射も、すべてが“均質な水”。先ほどまでのコンクリートの壁も、草も、面影すらない。相良が別のアプリで確認しても、結果は同じだった。

 「書き換え、られた?」

 「ローカルに保存して、クラウドと同期……のはずだが」相良は短く舌打ちする。城戸に連絡を入れる。「今送った。ログを見る。――ああ、すぐ見るそうだ」


 着信音が鳴る前に、城戸からメッセージが返ってきた。

 〈サムネイルはある。メタデータ照合。撮影時刻は整合。だがデータ本体が差し替わってる。元ファイルは消失〉

 〈クラウド履歴は“正常な更新”。侵入痕は不明〉

 〈水の画像はノイズパターンが“同一”。生成物と推測〉


 生成物――人工的に作られた画だ、と城戸は言いたいのだ。誰が、何のために。相良は運転に集中しながら、ぼそりと言った。

 「写真に“写る”ことなんて、いくらでもある。だが、写ったあとに“上書き”されるのは、新しいね」

 「上書き……」

 「“見られたくなかった”誰かが、画面の上に水を流していった、みたいな」

 冗談半分の調子だったが、笑えない。わたしは思いがけず両手を組み、爪が指に食い込むのを感じる。痛みが現実の輪郭を戻す。


 駅に着くと、空気が固くなった。夜の湿り気の向こうで、遠雷がくぐもって鳴る。別れ際、相良はもう一度言った。「何があっても、水は飲むな」

 「はい」

 帰り道、コンビニの前を通る。冷蔵ケースの透明な扉の向こうで、ペットボトルが整列している。光がプラスチックの表面で細く跳ね、ラベルの青と白が目に刺さる。扉に手が伸びる前に、わたしは視線を外し、麦茶の棚から紙パックを取った。


 部屋に戻ると、まず録音アプリの履歴を確認した。新しいファイルはない。ほっとした反動で、肩から力が抜ける。シャワーを浴び、髪を拭きながら、洗面台の蛇口の銀色を見ないようにする。鏡の隅で、濡れた自分の顔がふたつに見えた。タオルで水気を押さえ、明かりをひとつ、またひとつ消す。ベッドに横になると、天井の暗がりに四角い影が重なり、すぐにほどけた。


 夢を見た。浅い用水路の底に横たわっていて、頭上の空が逆さまに波打っている。呼吸は必要ない。胸は上下しない。髪が水草みたいに広がり、頬の上を小さな虫が歩く。誰かが堤から覗き込む気配がする。顔は見えない。わたしは――笑った。水が口の中に入り、舌の上でひやりと広がる。泡が、一つ、二つ、浮かび、弾ける。


 目が覚めたのは、スマホの振動のせいだった。胸の前で握りしめていたらしい指が、汗でぬるついている。画面には城戸からの通知。

 〈映像の解析。音声に微弱な人声。ノイズ処理で拾えた〉

 〈送る〉


 再生する。ざらついた水音。遠い虫の声。二十秒を過ぎたあたりで、確かに何かが混ざる。女性の声――いや、声が崩れた“形跡”。言葉になりかけてほどけた、濡れた子音の連なり。発声ではなく、音の影。

 桐生からもすぐにメッセージが届く。

 〈水辺に出た“顔”の記録、古い民話にいくつもある。だが、あれは“引き寄せる”ための顔。笑っているものが多い。怒っているものは少ない。君が見たのはどっち?〉

 笑っていたか。怒っていたか。……どちらでもない。輪郭が、こちらを“知っている”者の顔をしていた。わたしが答えに迷っているあいだに、桐生のメッセージはもう一通届いた。

 〈水に“塗りつぶされる”写真。これも記録ある。井戸端の娘が婚礼前夜に落ちて死んだ村では、彼女の顔を撮ると、あとで全部“水”になるって。見られた分だけ埋め戻す、って言い回し〉

 埋め戻す――その言葉は滑らかにこちらの喉に張りついた。見られたぶん、埋め戻す。覗き込んだぶん、蓋をする。表面を均す。何事もなかったかのように、ただの水にする。


 通知がもう一件。相良だ。

 〈さっきの現場、夜明け前にもう一件。近くの農道で、若い男性が側溝に転落〉

 〈偶然にしては、近すぎる〉


 ベッドから起き上がり、カーテンを少しだけ開ける。夜はまだ動いている。遠くで救急車のサイレンが、昨夜と同じ距離を保って滑っていく。麦茶を口に含み、ゆっくりと飲み下す。耳の奥は静かだ。


 朝。城戸が共有した地図が、スマホの画面いっぱいに広がる。世界地図。赤い点が、時間順に点り、薄く消える。東南アジア、欧州、北米、アフリカ。わたしが“水を避けた”二日間にも、点はいつも通り点ったし、消えた。

 〈君が水を飲まなくても、世界は“定常運転”〉城戸のコメントは冷ややかに正確だった。

 〈ただし、君が水を飲んだ日には“局所的な密度”が上がる。つまり、発火点になる可能性は高い〉

 発火。水で火を喩えるのは奇妙だが、妙に納得もした。湿った空気の一点に、冷たい火花が走る。その周囲の酸素が一斉に奪われ、誰かの肺が水で満たされる。


 昼、大学の図書館に寄る。桐生の指定で、郷土史の棚を見た。「昔話集」「村落の祭祀」「井戸の怪談」。紙の匂いが眠気を呼ぶ。ページの端に、青いペンでつけられた誰かの印が残っている。

 ――花嫁の面をつけた娘が、婚礼の朝に井戸に落ちた。水面に映る顔は笑って、やがて消えた。写真機で撮ると、夜には白紙になった。村は井戸に蓋をし、地図から井戸の記載を消した。

 笑う顔。蓋。地図から消す。

 わたしは本を閉じ、ガラスの向こうに見える校庭の噴水から視線を外した。まぶしい水柱は、昼の光にしか存在しないものだ。夜は、別の骨格を持つ。


 図書館を出たところで、背中に軽い衝撃を覚えた。振り返ると、後輩の女子が半笑いで立っている。「先輩、すみません、走っててぶつかりました」

 「大丈夫」

 彼女の手にはペットボトルの水。ラベルの青がまぶしい。「よかったらどうぞ」と言われ、反射的に首を振った。「ごめん、今お腹いっぱいで」

 彼女は気にせず駆けていった。ペットボトルの中で、光が細かく砕けた。


 夕方、城戸から「短い打合せ」とメッセージ。ビデオ通話。画面の向こうで、城戸は相変わらず感情の起伏を表に出さない。

 「結論から言う。“写真の上書き”は、人為的なものではない。侵入ログがない。生成された水面は、ノイズ分布が自然界では出にくい一様性を持つ。乱数のようで乱数ではない。――意志のある均質、という矛盾」

 「……均す、ということですか」

 「そう。観測された異常を、元の“水”に戻す意志が働いている。それも、観測者のデバイス上で」

 桐生が画面に割り込んだ。「つまり“見られること”自体が、向こうにとっての“攻撃”なんだと思う。だから蓋をする。笑って、蓋をして、平らにする」

 「笑う、んですか」

 「“見ていた”側の笑い。――こちらを知っている笑い」


 相良が最後に口を開いた。「もう一度、現場に行く。だが次は別の場所だ。君は来なくていい。……水は飲むな」


 通話が切れたあと、部屋は一層広く感じられた。椅子を引く音、紙の擦れる音、冷蔵庫の小さな唸り。そのすべての背景に、薄い水音が塗られている気がする。気のせいだと分かっていても、耳は勝手に拾う。


 夜は、思ったより早く来た。窓の外の空が群青に落ち切る前に、遠い雷鳴がまたひとつ、布を絞るみたいに低く長く鳴った。ベランダの手すりに、最初の雨粒が当たる音がした。わたしはコップに麦茶を注ぎ、一口飲む。苦みが舌に残る。

 ――やめて。

 声は来なかった。耳の奥は空洞のまま。空洞は、時に恐怖より重い。


 寝る前に、念のため録音アプリの設定を見直す。自動起動はオフ、バックグラウンドでの実行も切る。アプリをアンインストールしてしまおうかとさえ思う。だが、証拠は少しでも残さなくてはならない。三人のために、わたし自身のために。


 明かりを落とし、横になる。雨脚は強まらない。一定のやさしいリズム。瞼の裏に、用水路の白い輪郭が浮かぶ。笑っていたか。怒っていたか。――どちらでもない。こちらを“選んだ”者の顔。選ばれたのは、わたしではなかったのかもしれない。わたしの飲む水ではなく、世界のどこかの水。誰かの喉。誰かの足。誰かの呼吸。


 眠りの縁で、スマホがひとりでに光った。心臓が跳ね上がる。画面には通知。ただの天気予報。肩の力が抜ける。笑いそうになる自分を恥じて、布団を引き寄せた。


 暗闇の中で、もう一度だけ、耳を澄ます。

 雨。

 遠い車の音。

 わたしの呼吸。

 ――そして、ごく微かな、紙をこするような乾いた一音。


 飛び起きてスマホを掴む。録音アプリは起動していない。通知もない。部屋は静かだ。洗面台の蛇口は影の中で眠っている。窓を細く開けると、雨の匂いが入ってきて、すぐに消えた。

 気のせいだ、と結論を出すために、わたしは麦茶を一口飲んだ。耳の奥は、からっぽ。

 からっぽであることに、安堵する自分と、がっかりする自分が、同時にいる。


 翌朝、城戸から共有された地図の赤点は、また夜の間にいくつも点って、消えていた。相良からは短いメッセージ。

 〈別の現場。写真、撮れず。住民が“井戸に蓋をした”話〉

 桐生からも。

 〈蓋は、祈りではなく、隠蔽〉


 蓋。隠蔽。均す。笑う。

 単語が集まり、薄い輪郭を成す。水面に浮かぶ顔が、今にもかたちを持ちそうで、わたしは思わずコップを伏せた。麦茶が少しだけ指にかかる。冷たさは、まだただの冷たさだ。


 ――まだ、だ。


 心のどこかで、誰かがそう言った。声ではない。思考とも違う、沈殿物の動き。

 わたしは冷蔵庫を閉め、蛇口に背を向けた。今日も、飲まずにいられる。明日も、できるだけ。

 だが、世界のどこかでは、今日も蓋が上がり、顔が浮かび、写真が水に戻る。


 “見てる”。

 最初の夜、録音の最後にそう囁いた気配は、もうどこにもない。けれど、見られているのはこちらか、向こうか。答えは、まだ水の底で、笑っている。

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