巡る水
雨の午後。
川沿いの遊歩道は、薄灰色の雲に覆われた空の下で、じっとりとした湿気に満たされていた。
桐生紬は一本のビニール傘を差し、ゆっくりと歩いている。雨は霧のように細かく、視界全体を淡く曇らせ、傘の外では絶え間ない水音が重層的に響いていた。
川面は濁りを含んだ緑褐色で、わずかな波紋が広がるたび、対岸の建物の輪郭がゆがむ。水位はふだんよりも高く、岸辺ぎりぎりまで迫っていた。
足元の雑草は腰のあたりまで伸び、雨粒を含んで重く垂れている。桐生が通ると、草の葉先から水滴がぽたりと落ち、スニーカーの甲を濡らした。
河原には釣り竿を手にした男が数人、黙り込んだまま水面をのぞき込んでいる。傘を差す者は少なく、濡れた髪が首筋に張り付いていた。
その様子を桐生はしばらく無言で眺めると、ふと視線を空に向けた。厚い雲は層を成し、隙間から光をこぼすことなく、川と街を同じ色に染めている。
そして、桐生は傘の先から滴る雨を見つめながら、ゆっくりと歩き去った。
あの日以来、城戸、桐生、相良とは連絡を取っていない。
事件は終わり、それぞれの生活に戻った。あれほど耳にこびりついていた悲鳴も、手術後はきれいに消えた。
全ては病気が原因だった。それが結論であり、救いのはずだった。
なのに、梅雨の湿った空気に包まれていると、あの日々の感触が皮膚の裏側にじわりと蘇る。
アスファルトには水の膜が張り、車のタイヤが切り裂く音が、遠く近くから重なって聞こえる。
ベランダの手すりからは、途切れることのない雫が落ち、一定の間隔でぽたり、ぽたりと室内まで響く。
湿気を吸った空気は重く、呼吸のたびに肺の奥まで水分が染み込んでくるようだった。
喉が、乾いていた。
その感覚は、唐突に、しかし確実に全身を支配した。
気づけば私は立ち上がり、無意識にキッチンへ向かっていた。
蛇口をひねると、透明な水が勢いよくコップを満たし、縁に沿って表面張力の薄い膜が盛り上がった。
照明の光が水面に反射し、きらりと揺れる。
そのきらめきの奥で、わずかに何かが蠢いたように見えたが、瞬きをしたときには消えていた。
一口。
冷たさが舌から喉へ、喉から胸の奥へとすべり落ちる。
同時に、耳の奥で小さな水音が膨らみ始めた。最初は雨だまりに落ちる雫のような微音。
それが、すぐに、誰かが息を詰まらせた時の、湿った呼気に変わる。
二口目。
水音は悲鳴に変わる。押し殺した叫びと、水面を叩く音が重なり、耳の内側を叩き続ける。
視界の端――キッチンの入り口のあたりに、黒髪の女が立っていた。
髪は濡れて肩に張り付き、顔は青白く、唇がわずかに開いている。
瞬きをした瞬間、姿は消え、床には点々と水滴だけが残り、玄関の方へ続いていた。
三口目。
音は形を失い、鼓膜を圧迫するただの力となって襲いかかる。
それでも私は淡々と飲み込む。
それが意図なのか無意識なのか、自分でもわからない。
ただ、水が喉を通るたび、耳の奥の声が確実に増えていくのだけは感じていた。
テレビをつける。
アナウンサーの声が、冷たいニュースを運んでくる。
「……南米の村で女性が川に転落し、行方不明に――」
画面には濁った川面、雨に煙る岸辺、傘を差して立つ人々。
映像の奥からも、水の匂いが立ちのぼってくるようだった。
私はコップを持ち上げ、再び口をつけた。
唇が水に触れると同時に、外の雨脚がさらに強まり、排水溝を流れる水音が部屋の奥まで押し寄せてくる。
無意識のはずの動きが、妙に滑らかで、迷いがない。
口元の端が、わずかに吊り上がった。
その笑みは鏡で見た自分の顔とも、他人の顔ともつかず、湿った部屋の空気をさらに冷たくする。
耳の奥で悲鳴が増幅し、それが雨音と混じり、ひとつの不気味な旋律となって私の内側を満たしていった。
その瞬間、自分が何をしているのかを理解しているのかどうか――それすら、もはやどうでもよかった。
水は、確かにまだ巡っている。
そして私は、静かにその一部になっていった。