渇望
誕生日の夜は、思ったより静かだった。メッセージの通知がひとしきり鳴り終え、ゼミのグループからのスタンプが最後にぽつりと落ちる。時計は二十四時をすこし回ったところ。机の上のカップ麺の容器を片づけ、洗面台に向かう。喉が渇いている。甘いものも、炭酸も、今日はもういらない。冷たい水を、ただ一杯だけ。
蛇口をひねると、管の奥で眠っていた気泡が目を覚ます。細い水柱が立ち、安っぽいガラスコップの底を叩く音が、ワンルームの空気を薄く震わせた。窓の外で、遠くの高架を走る電車がひとつ長い息をつく。わたし――水城結衣は、何でもない夜の何でもない動作の延長として、コップを口元へ運んだ。
一口目は、冷たさしかない。二口目で、喉の奥が開くのを感じる。三口目を呑み込んだ瞬間、それは来た。
耳の奥が、きしむ。最初は、たぶん、配管の鳴る音だと思った。高い周波数が膜の上をこする感触。次いで、空気が一枚、部屋から抜け落ちる。冷蔵庫のコンプレッサーが止まり、街のざわめきが遠のき、わたしの鼓動だけがやけに近い位置で響きはじめる。
――やめて。
文字どおり、耳“の奥”で声がした。空気を介さない、鼓膜を通らない声だ。喉の管に氷塊を押し込まれたように体温が下がり、指先から色が消えていく。コップが手を離れ、シンクの中で鈍い音をたてた。声は続く。悲鳴、というより断末魔の、途切れ途切れの切迫。
――たす、け、て、だれか。
胃が反射的に跳ね上がり、わたしは洗面台にしがみついて口を押えた。吐き気は来ない。ただ、耳の奥の暗がりで、女の声が水に泡立ちながら崩れてゆく。水面に浮かんだ小さな泡が、ひとつ、またひとつ、弾けるたびに、誰かの息が消える。
照明が、一瞬、落ちた。部屋全体が写真のネガみたいに色を失い、すぐに戻る。ポケットの中のスマホが震え、勝手に画面が光る。見慣れない赤いマーク――録音アプリが、起動していた。触ってもいないのに、時間のカウントが進んでいる。止めようとしても操作を受けつけない。やっとのことで停止ボタンに触れた瞬間、耳の中の声が切れた。
残響はない。蛇口から落ちる水滴の音が、やけに大げさに床へ落ちていく。わたしは、呼吸の仕方を忘れていたみたいに、胸の奥を探り、空気を少しずつ取り戻す。震える手でスマホを開く。録音された音声ファイルが一本、増えている。再生をタップする。
最初は、低い水音だけだ。遠い洞窟で水が滴る、あの時間のない音。続いて、すすり泣きのような、しかし泣いていない人間の喉がこすれる湿った振動。音の奥行きのどこかで、細く細く削られた女の声が、たしかに言った。
――見てる。
指が、勝手に再生を止めた。手首の内側から血が引く。馬鹿げている。馬鹿げているが、耳の穴から抜けたはずの冷気が、頭蓋の内側にとどまっている。わたしは蛇口を閉め、コップを伏せ、部屋の灯りという灯りを全部つけた。間接照明も、デスクライトも、クローゼットの灯りまで。点いた瞬間に、影が濃くなる気がして、もう一度部屋を見渡す。誰もいない。テレビを入れ、バラエティの音量を上げた。笑い声が、紙のように薄い。夜は、まだ深い。
翌朝、講義に顔を出す気力はなかった。枕元のペットボトル――昨日の昼にコンビニで買ったスポーツドリンクが半分だけ残っている――それをちびちび舐め、喉をだましながら布団の上でニュースアプリを流す。ローカルニュース欄で、タイトルが指に引っかかった。
〈県内の河川で女性が溺死 夜間の散歩中に転落か〉
クリックする。昨夜の二十三時五十二分。場所は車で三時間ほどの郊外。名前は伏せられている。わたしはニュースを閉じた。偶然だ、とすぐに決めた。決めないと、顔の筋肉が持たない。たぶん誰かの酔いだ。足を滑らせたのだ。わたしの部屋の蛇口と、郊外の護岸はつながっていない。論理で抑える声が、心のどこかで膝を抱えて震えている。
昼、大学のカフェテリアで、無意識に「お冷ください」と口にしかけて、慌てて取り消した。代わりにアイスティーを頼む。レジの子が一瞬だけこちらを見る。笑われたかどうか確かめるほど強くもない。テーブルにつき、アイスティーの表面に光が細く立つのを見つめる。氷が溶ければ、水になる。氷は、でも、紅茶の中で紅茶になるのだろうか。くだらない理屈を、いくつも並べる。喉が鳴る。ストローに口をつける。口に入った冷気は、昨日のそれとは違い、耳の奥をたたかなかった。ほっとする。わたしは、午後の講義に出ることにした。
夜。部屋に戻る。冷蔵庫にストックしてあるペットボトルの水が、三本。買ったことを悔やむ。捨てるのは馬鹿げている。けれど、冷蔵庫の冷気に触れているその透明な柱が、今夜は刃物のように見えた。視線を逸らす。棚から紙パックの麦茶を出す。コップに注ぎ、飲む。何も起きない。そうだ、これで良い。わたしはそうやって、一日の終わりをやり過ごした。
二日目、三日目。生活の端々に、慎重さが染みこんでいく。外食では必ず「お冷はいりません」と先回りして言う。コンビニで飲み物を買う時、習慣で水の冷蔵棚に手が伸びそうになるのを叱る。歯みがきのあと、口をゆすぐのは水ではなく、薄めたマウスウォッシュ。洗面台の蛇口に手を伸ばす時、胸の中で小さな警鐘が鳴る。友達とのランチで「最近、水飲まないの?」と聞かれて、笑ってごまかす。潔癖だと思われてもいい。説明できる言葉を、まだ持っていない。
四日目の夜、雨が降った。ベランダの床に、雨粒が小さな音で跳ねる。窓を半分だけ開けると、湿った空気が部屋に這い込んできた。遠くで救急車のサイレンが一定の間隔で薄れたり濃くなったりする。テレビの音は、さっきから耳に入らない。わたしは窓ガラスについた水滴の筋を指でなぞって、そこでやめた。指先に残った冷たさが、舌の奥の冷たさに連想でつながる。もう寝よう、と思う。照明を落とし、スマホのアラームをセットする。充電ケーブルを差し込み、画面を伏せた。
暗闇に、目がなれていく。ベッドサイドの壁に、窓の格子が四角い影を作る。呼吸の回数を数えはじめたところで、スマホがふいに明滅した。夜光虫みたいに一度だけ点き、すぐに消える。充電の接触が悪いのかと思って手を伸ばしたが、指先にケーブルは確かだ。画面を上向きにする。ロックの壁紙の上に、赤い点。録音アプリだ。寝ぼけた手でスワイプする。アプリの中で、カウントが進んでいる。音は、しない。耳を澄ます。雨だ。雨だけだ。念のため、停止をタップする。新しいファイルが、また一本、増えた。
翌朝、再生した。十秒ほど、白いノイズが続く。風の音と雨の打つ音が混ざり合って、台所の換気扇の羽が遠くで回っているみたいな、あの、決して音楽にはならない音。十一秒を過ぎたあたりで、ノイズに、知らない呼吸が混ざった。わたしの呼吸ではない。速度も、深さも、わたしのものとは違う。耳の奥が勝手に粟立つ。呼吸は、少しずつ近づいてくる。近づいて、止まる。ファイルの終わり際、紙をこするような乾いた一音がして、終わった。笑っている場合じゃない。けれど笑うしかない。理由のないことは、すべて笑い飛ばすしか手がない。
その日の夕方、大学の掲示板に向かう途中、見知らぬ上級生に声をかけられた。「水城さんだよね?」と当たり前のように言われ、返事が遅れる。「えっと、はい」「飲み物、買いに行くけど、何かいる?」と続けられて、わたしはあわてて「麦茶」でお願いしますと言った。上級生は笑って頷き、「水じゃないんだ」と軽く冗談めかして言った。冗談だ。冗談に決まっている。そうでなければ、わたしの生活はもう、ひび割れた陶器のように音を立てて壊れる。
夜。ニュースアプリは、わたしの親指が行き先を知っているみたいに、また地域欄を開く。昨夜の二十三時台。別の県。〈散歩中の高齢女性が用水路に転落〉。その記事を読んだあと、関連に並ぶ海外の短報に指が止まった。〈南アジアで豪雨、冠水した道路で転倒した若い女性が行方不明〉。だれかが水を飲み、だれかが声を聞き、だれかが倒れ、だれかが消える。世界は一行ずつ、静かに水に浸かっていく。
わたしは、スマホをテーブルに伏せた。代わりにノートを開く。紙に文字を書くと、思考は安定する。――真水を飲むと、耳の奥で女の声がする。昨日はアイスティーでは何も起きなかった。氷水は危ない。蛇口はもっと危ない。スマホは勝手に録音をする。雨の夜は呼吸が増える。わたしは、こうして線を引いていく。線と線が交わるところで、なにかが輪郭を持つはずだ。理屈を先に作っておけば、恐ろしいものは、少しは小さくなる。
ページの端に、思いつきで、単語をひとつ書いた。
掲示板。
匿名でいい。わたしと同じような経験をした誰かが、どこかにいるかもしれない。嘘でもいい。嘘の中から拾える真実はある。ホーム画面に戻り、検索バーを開く。指はためらいなく、“真水 飲む 悲鳴”と打つ。関連ワードがいくつか並ぶ。どれも、別の怖い話に通じている。最初のリンクに飛ぶ。古い掲示板のUIが、画面の中でまだ息をしている。投稿ボタンを押す前、わたしは一度だけ台所を振り返った。コップは伏せられたまま。蛇口は乾いている。冷蔵庫の中のペットボトルは三本。世界には、どれくらい水があるのだろう。数を考えるだけで、喉がつまる。
キーボードに、指を置く。わたしは書く。
〈真水を飲むと、耳の奥で女の悲鳴がします。〉
文を投稿する。送信音は鳴らない。ページが更新され、わたしの一行が世界のどこかへ投げ出される。画面の片隅の時計は、二十三時五十二分を示している。昨夜の事故の時刻と、同じだ。偶然だ。偶然に決まっている。
――それでも、わたしは、コップを起こさない。
その夜、録音アプリは起動しなかった。代わりに、知らない相手から一通のメールが届いたのは、翌朝だった。差出人の名前は見たことがない。件名は短い。「それ、解決できます」。本文には、さらに短い一文があった。
“条件があります。まず、水を飲まないで。”
喉が、からからに渇いた。けれど蛇口は、まだ遠い。わたしは麦茶の紙パックを抱えたまま、メールの宛先をもう一度見た。
見覚えのない英数字の列。そこに、世界のどこかの水面が、静かに揺れている気がした。