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夢の中のチェロ

作者: さくらぎ舞
掲載日:2025/08/05

夢の中で、チェロは鳴らなかったーー。


真昼のスーパー。

野菜の霧吹きが涼しげに立ちのぼり、冷房の風が首筋にあたる。

歩いているのか、ただ浮かんでいるのか。

理由もなく、豆腐の棚を三度、通り過ぎた。

カゴの中には、まだ何も入っていない。

買うものなんて、ほんとはない。

ただ家が暑すぎて、戻るのが怖いだけだった。


シャッターを閉めた部屋は蒸し風呂みたいで、

扇風機を回しても空気が生ぬるく渦を巻くだけ。

クーラーをつければいい。でも、電気代が頭をよぎる。

夜になれば風が入るから……そう言い聞かせて、日中はこうして時間を潰している。


チェロのことを考えるのは、決まってこういうときだ。

昔、寄付した楽器。高校の音楽室の隅に、まだあるだろうか。

今でも誰かの手で鳴っていたらいい、と思った。

思おうとした。


帰り道、団地の階段を上る途中で、ふいに胸がざわついた。

昔聴いたマーラーのメロディが、脳の奥で鳴っていた。

どうして、今?

足を止めて空を見た。

夏の雲が、重たそうにゆっくり流れていた。


夜になって、ようやく部屋に風が入った。

冷たい麦茶を飲みながら、スマホでYouTubeを開く。

ラフマニノフのピアノ協奏曲。

音が流れた瞬間、涙がすっとこぼれた。

誰にも見られていないのに、慌ててぬぐった。


その夜、夢を見た。


夢の中、私は若かった。

細い肩にチェロをかかえ、ゆっくりと弓を動かしていた。

音が鳴った。

あの、懐かしい、低くて深い音。

震えるような、抱きしめられるような。

でも、途中で音が止まった。

弓が動かない。腕が、指が、固まっていた。


気づくと、私は白髪まじりの老人になっていた。

埃をかぶったチェロが、壁にもたれている。

その自分が、こちらを見ていた。

泣きながら、自分の首を絞めていた。

何も言わなかったけれど、全部、わかった。


目が覚めたとき、汗でシーツが湿っていた。

寝汗なのか、夢の中の涙なのか。

起き上がって、何もつけていないテレビの黒い画面をぼんやり見ていた。


「やっぱり……本気じゃなかったんだよね」

そう言葉にしてみた。

声が、やけに軽かった。


お金は、いつもそこにある。

払えないわけじゃない。

でも、「もったいない」と思う。

何度も何度も、「もったいない」が私を止める。

本当は、それを言い訳にしてるんだろうな。


夢の中の自分が、そんなこと、とうに見抜いていた。

思い出すと、ふっと笑いが漏れた。

誰もいない部屋で、一人きりで笑う。

変な人みたい。でも、なんだか救われた気もした。


多分、私はこのままチェロを弾かずに、人生を終えるんだと思う。

それが、私の選んだ道なんだと、ようやく思えるようになった。


家は暑くて、体も重くて、

スーパーの涼しさにしがみつくような毎日でも。

YouTubeの音楽に癒されて、

静かに涙を流して、

また笑って、

それでも生きている。


いつかまた夢の中で、

チェロの音が鳴る日が来たらいい。

今度こそ、最後まで弾けたらいい。


たぶん私、死んでからチェロを奏でるんだと思う。


それで、いいんだと思う。

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