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夢の中のチェロ

作者: さくらぎ舞

夢の中で、チェロは鳴らなかったーー。


真昼のスーパー。

野菜の霧吹きが涼しげに立ちのぼり、冷房の風が首筋にあたる。

歩いているのか、ただ浮かんでいるのか。

理由もなく、豆腐の棚を三度、通り過ぎた。

カゴの中には、まだ何も入っていない。

買うものなんて、ほんとはない。

ただ家が暑すぎて、戻るのが怖いだけだった。


シャッターを閉めた部屋は蒸し風呂みたいで、

扇風機を回しても空気が生ぬるく渦を巻くだけ。

クーラーをつければいい。でも、電気代が頭をよぎる。

夜になれば風が入るから……そう言い聞かせて、日中はこうして時間を潰している。


チェロのことを考えるのは、決まってこういうときだ。

昔、寄付した楽器。高校の音楽室の隅に、まだあるだろうか。

今でも誰かの手で鳴っていたらいい、と思った。

思おうとした。


帰り道、団地の階段を上る途中で、ふいに胸がざわついた。

昔聴いたマーラーのメロディが、脳の奥で鳴っていた。

どうして、今?

足を止めて空を見た。

夏の雲が、重たそうにゆっくり流れていた。


夜になって、ようやく部屋に風が入った。

冷たい麦茶を飲みながら、スマホでYouTubeを開く。

ラフマニノフのピアノ協奏曲。

音が流れた瞬間、涙がすっとこぼれた。

誰にも見られていないのに、慌ててぬぐった。


その夜、夢を見た。


夢の中、私は若かった。

細い肩にチェロをかかえ、ゆっくりと弓を動かしていた。

音が鳴った。

あの、懐かしい、低くて深い音。

震えるような、抱きしめられるような。

でも、途中で音が止まった。

弓が動かない。腕が、指が、固まっていた。


気づくと、私は白髪まじりの老人になっていた。

埃をかぶったチェロが、壁にもたれている。

その自分が、こちらを見ていた。

泣きながら、自分の首を絞めていた。

何も言わなかったけれど、全部、わかった。


目が覚めたとき、汗でシーツが湿っていた。

寝汗なのか、夢の中の涙なのか。

起き上がって、何もつけていないテレビの黒い画面をぼんやり見ていた。


「やっぱり……本気じゃなかったんだよね」

そう言葉にしてみた。

声が、やけに軽かった。


お金は、いつもそこにある。

払えないわけじゃない。

でも、「もったいない」と思う。

何度も何度も、「もったいない」が私を止める。

本当は、それを言い訳にしてるんだろうな。


夢の中の自分が、そんなこと、とうに見抜いていた。

思い出すと、ふっと笑いが漏れた。

誰もいない部屋で、一人きりで笑う。

変な人みたい。でも、なんだか救われた気もした。


多分、私はこのままチェロを弾かずに、人生を終えるんだと思う。

それが、私の選んだ道なんだと、ようやく思えるようになった。


家は暑くて、体も重くて、

スーパーの涼しさにしがみつくような毎日でも。

YouTubeの音楽に癒されて、

静かに涙を流して、

また笑って、

それでも生きている。


いつかまた夢の中で、

チェロの音が鳴る日が来たらいい。

今度こそ、最後まで弾けたらいい。


たぶん私、死んでからチェロを奏でるんだと思う。


それで、いいんだと思う。

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