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映し鏡  作者: 菊池まりな
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映し鏡

祖母の家の庭にある古井戸は、子供の頃から近づいてはいけないと言われていた。


「あの井戸には、昔から良くないものが住んでいるのよ」


祖母はいつもそう言って、私の手を引いて井戸から遠ざけた。しかし、なぜ良くないのか、何が住んでいるのかは決して話してくれなかった。


祖母が亡くなり、家を整理していたとき、好奇心に負けて井戸を覗き込んだ。石の井戸枠は苔むして、ひび割れが走っている。深い闇の中に、わずかに水面が光っていた。


何気なく小石を落とすと、しばらくして「ぽちゃん」という水音が響いた。思ったより深くはないようだった。音は井戸の壁に反響して、まるで地の底から響いてくるようだった。


懐中電灯で照らすと、水面に私の顔が映った。しかし、その表情は私の表情とは違っていた。映った私は、口を大きく開けて何かを叫んでいた。目は見開かれ、まるで何かに怯えているようだった。


私が眉をひそめると、映った私も眉をひそめる。私が手を振ると、映った私も手を振る。しかし、その口だけは動き続けている。まるで必死に何かを訴えているように。


「逃げろ」


そう言っているように見えた。


よく見ると、水面の私の後ろに、もう一人の人影があった。薄れた紺色の着物を着た女性が、私の肩に手を置いている。顔は暗くて見えないが、異様に長い髪が水面に広がっていた。


私は慌てて振り返った。しかし、後ろには誰もいない。夕暮れの庭には、虫の声だけが響いている。


再び井戸を覗くと、水面の私の表情がさらに恐怖に歪んでいた。そして女性の顔が、ゆっくりとこちらを向いた。


それは祖母の顔だった。しかし、生前の優しい表情ではない。目は深い空洞で、そこから黒い液体がとめどなく流れ出ていた。口は不自然に大きく開き、やはり黒い水が滝のように流れ落ちている。


「来ては、だめ…」


祖母の口が動いた。声は聞こえないが、唇の動きでそう言っているのが分かった。


「なぜ、来たの…」


水面の祖母が、悲しそうに首を振る。


「ずっと、守って、いたのに…」


私は慌てて井戸から離れようとした。しかし、足が動かない。見下ろすと、井戸の底から幾本もの細長い手が伸びて、私の両足首をしっかりと掴んでいた。手は青白く、指は異様に長い。爪は黒く鋭く伸びていた。


私は必死に手を振りほどこうとしたが、力は強く、むしろ井戸の中に引きずり込まれそうになる。


「助けて!」


私は叫んだ。しかし、誰も来ない。


水面を見ると、映った私が今度ははっきりと叫んでいるのが見えた。


「助けて!誰か!」


そして気づいた。私はもう声を出していない。口を開けても、音が出ない。


水面の私だけが、必死に助けを求めて叫び続けている。まるで、私の魂だけが井戸の中に引き込まれてしまったかのように。


手の力はますます強くなり、私の身体は井戸の縁に引きずられる。石の井戸枠に腹を打ち付けられ、息が詰まる。


水面の祖母が、再び口を動かした。


「一緒に、いましょう…」


「寂しかった…」


「ずっと、待って、いたの…」


私の身体は半分以上井戸の中に落ちかけていた。冷たい石壁が頬に触れ、井戸の底からは腐敗した匂いが立ち上ってくる。


最後の力を振り絞って井戸枠にしがみつこうとしたとき、手首に何かが巻き付いた。見ると、祖母がいつもしていた数珠だった。生前、私にくれようとして「まだ早い」と言っていた数珠。


数珠が光ると、底からの手の力が緩んだ。私は必死に這い上がり、井戸から離れた。


振り返ると、井戸の水面は静まり返っていた。祖母の姿も、私の顔も映っていない。ただ、深い闇があるだけだった。


数珠を見ると、一つの珠が黒く変色していた。まるで誰かの涙を吸い込んだように。


翌日、井戸にコンクリートの蓋をした。しかし、夜になると井戸の方から水音が聞こえる。そして時々、かすかに聞こえる声がある。


「なぜ、蓋を…」


「また、一人に…」


今でも水面のある場所―風呂場の鏡や、雨上がりの水たまり―を見るたびに、あの映った私の叫ぶ顔を思い出す。そして、その後ろに立つ祖母の悲しげな顔を。


井戸の水面に映る私は、今も必死に叫び続けているかもしれない。きっと、次に井戸の蓋を開ける人に警告しているのだろう。


「来ては、だめ」と。





これらの物語はすべてフィクションです。


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