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24時間限定のわたし

作者: 稲神蘭

あらすじ

目を覚ますたび、昨日が消えている女子高生・月島凛。

彼女に残されているのは、机の上のノートに書かれた「自分」の情報だけ。

友達や家族と過ごす日々の中で、凛は記憶を持たない孤独と向き合いながら、毎日を「初めてのわたし」として生きる。

誰にも届かない、誰にも覚えられない小さな存在証明――

これは、儚くも切ない少女の「いつもの日常」を描いた物語

――白い。


目を開けると、真っ先に飛び込んできたのは、ぼんやりとした白だった。

天井なのか、壁なのか、見分けがつかない。光がぼやけて視界に溶ける。


(……ここ、どこだろう。)


瞳をぱちぱちと瞬かせる。

まぶたの裏に黒い影がちらつくたび、怖くなる。

静寂が耳を締めつけ、心臓が小さく跳ねる音が鮮明に聞こえる。


視線をゆっくり左右に動かす。

薄いカーテンが窓際に揺れている。

机がひとつ、ベッドの横に寄せて置かれている。

知らない部屋。

知らない匂い。

知らない空気。


(…わたしって誰)


言葉にならない声が喉の奥でこぼれる。

声を出したくても、口の動かし方すら思い出せない。

息が詰まりそうだ。


身体を起こそうとすると、鈍い痛みが背中に走る。

その瞬間、ふっと視界の端に何かが見えた。


机の上に、灰色のノートが一冊。

おそるおそる手を伸ばす。

指先が震えて、ページをつまむのもやっとだった。


表紙には何も書かれていない。

それなのに、なぜだろう。

このノートを開けなければならない、と本能が告げている。


ゆっくりと表紙をめくると、最初のページに大きな文字があった。



【名前:月島つきしま りん

【年齢:17歳(高校2年生)】



知らない名前。

知らない年齢。

なのに、何かが胸の奥をちくりと刺すような感覚。


読み進める。



【⬇今日やること!】

・顔を洗う

・制服に着替える

・朝ごはんを食べる

・友達が迎えに来るので一緒に学校へ行く




喉の奥が渇いて、ごくりと唾を飲む音がやけに大きく響いた。

震える手で次のページをめくると、びっしりと文字が詰まっていた。



〇月×日

おはよう、凛。きっと今、君は混乱しているよね。

ここは君の家だよ。安心して。

君は「24時間しか記憶が持たない」病気を持ってるんだ。

だから毎朝このノートを読んで、一日を思い出してるんだよ。



ページをめくるたびに、昨日、さらにその前の日の出来事が詰まっている。

何百という文字の波が目を押し流す。

意味はあるのに、頭の中に映像が浮かばない。

「わたし」と呼ばれる存在が、他人のように感じる。


(わたしは「凛」なんだ……。)


胸の奥にかすかな痛みが広がった。

わずかな痛みに気づいた瞬間、涙が止まらなくなった。


嗚咽が喉を震わせる。

声を出して泣いているのに、その理由がわからない。

わからないのに、身体が震える。


――顔を洗わなきゃ。


ノートの指示に従おうと、足を床に下ろす。

立ち上がると、ふらついて壁に手をついた。

ふと目を上げると、鏡があった。


そこには、黒髪の女の子がいた。

髪が少し乱れて、目の下にわずかなくまがある。

その瞳は、不安に揺れていた。


(これが……わたし……?)


指先で頬に触れる。

鏡の中の「わたし」も同じように頬に触れる。

その仕草を見て、ほんの少しだけ、自分の存在を実感する。


洗面所の蛇口をひねり、冷たい水が流れ出す。

顔を洗うと、少しだけ意識がはっきりする。

呼吸が整い、心臓の鼓動が落ち着く。


――制服に着替える。


ノートの文字が脳裏に浮かぶ。

部屋の隅にかかった制服を取って、袖を通す。

リボンを結ぶ手つきがぎこちない。

毎日これをやっているはずなのに、手が覚えていない。


スカートの裾を整え、深呼吸。

再びノートを手に取り、確認する。


・朝ごはんを食べる


リビングに向かう足取りは重い。

廊下に漂う香り。

知らない匂いだけど、どこか懐かしいような気がする。


扉を開けると、キッチンに立つ女性がこちらを振り返った。


「おはよう、凛」


優しい声。

けれど、わたしにはこの人が誰かわからない。


「……おはようございます」


思わず敬語が出る。

女性は微笑んで首を振った。


「敬語じゃなくていいのよ。……お母さんよ」


ノートに「お母さん」と書いてあった。

けれど、それ以上の記憶はない。

この人がどんな人で、どんな思い出を共有してきたのか――それが思い出せない。


食卓には温かい味噌汁、焼き鮭、卵焼き。

湯気がゆらゆらと立ちのぼる。


箸を持つ手が震える。

一口目を口に運ぶと、じわっと舌に広がる塩気とだしの味。

「おいしい」と言いたいのに、声にならない。


「どう? 味は……」


女性――お母さんが、不安そうに見つめる。

わたしはおそるおそる頷いた。

その瞬間、お母さんの目が細くなり、口元がほころぶ。

その笑顔に、胸の奥が熱くなる。


でも、その熱が何なのか、わからない。


(わたし……この人を、知ってるのかな。)


頭の中に霧がかかったようで、何も思い出せない。

それでも、お母さんの笑顔だけは温かかった。


食べ終わるころ、玄関のチャイムが鳴った。

お母さんが立ち上がり、廊下へ向かう。


「凛ちゃーん! 行くよー!」


にぎやかな声。

制服姿の女の子が玄関から顔をのぞかせる。


ノートに「友達:真帆」と書いてあった。

明るい笑顔が、春の陽射しのように眩しい。


「おっはよ! 今日も元気そうだねー!」


わたしはぎこちなく笑った。

真帆は、そんなわたしを見ても少しも動じず、むしろいつも以上に楽しそうに手を振った。


「さー、今日は体育祭の応援の準備だよ! 昨日言ったよね、覚えてる?」


……昨日のことは、覚えていない。


「……うん。ありがとう」


それが精一杯の返事だった。

真帆はわたしの腕を取って、軽く引っ張った。


「大丈夫大丈夫、任せて! 全部教えてあげるから!」


廊下に差し込む朝の光が、わたしと真帆を包む。

ノートを鞄にしまうとき、ページの端がひらりと揺れた。


「…よ、よろしくね」


そう小さく呟くと、真帆はわたしを見つめ、にっこり笑った。


「まっかせなさい!」




次の日の朝――


白い天井が見えた。

静かすぎるほどの静寂が、耳にまとわりつく。

寝汗で背中が張りついていて、体を動かすたびに小さな音がする。


(……ここは、どこだろう。)


何度も問いかける。

声にはならない。

頭の中で、繰り返し、繰り返し。


自分の心の奥底にあるはずの「何か」を探そうとするけど、そこは空洞みたいに冷たい。

息を吐き出すと、胸の奥で引っかかるような痛みが走る。


「っ……」


喉の奥に小さく声が漏れる。


(わたしは……誰?)


足元の机の上に置かれたノートに気づく。

無意識に手を伸ばす。

震える指先で表紙を開く。



名前:月島 凛

年齢:17歳(高校2年生)

⬇今日やること!

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


初めて見る文字だ。

でもどこか懐かしさを感じてしまう。


次のページには「きのうのわたし」からのメッセージ。



【おはよう、凛。きっとまた混乱してるよね。

でも、大丈夫。今日も君は君だよ。

一歩ずつでいいから。ノートを読んで、顔を洗って、お母さんに会いに行こう。】



ページに目を走らせると、頭の中が少しずつ整理されていく。

けれど、感情の芯は冷たいままだ。


「……わたし……」


か細い声が喉から出る。

その声は自分のものに聞こえないほど弱々しかった。


ノートの指示に従うしかない。

それ以外の選択肢を知らないから。


ベッドを降り、足元を見つめる。

冷たいフローリングの感触。

床の木目をなぞるように見つめると、まるで異世界に迷い込んだような気がする。


鏡の前に立つ。

鏡に黒髪の女の子がいる。初めて会う誰か。

だけどノートにはわたしだと書いていた。


「……おはよう。」


思わず声に出す。

鏡の中の女の子も、同じように口を動かす。

真似しているだけのようで、それでも唯一の繋がりのように思える。


顔を洗うと、冷たい水が頬を打つ。

細胞の一つひとつが目を覚ますような感覚。

でも、その中に「思い出」は宿らない。


制服に袖を通す。

慣れない動き。

少しだけ緩んだリボンを結び直す。

鏡に映る自分は、どこか遠くの誰かのよう。


廊下を歩き、リビングの扉の前で深呼吸。

ノートに「朝ごはんを食べる」と書いてある。

一つ一つ、命令のように守ることしかできない。


扉を開けると、キッチンに立つお母さんが振り返る。


「おはよう、凛」


(この人は……お母さん……。)


ノートの言葉をなぞるように思い出す。

けれど「思い出す」というより、文章を暗記する感覚に近い。


「おはようございます……」


また敬語。

お母さんは少し笑って、「敬語じゃなくていいのよ」と言う。


同じ会話を、わたしは毎日しているらしい。

だけど、毎朝が初めてな私にとっては何も分からない。


食卓に座り、箸を持つ。

お母さんがそっと見守る視線。

その優しさに、少しだけ胸が温かくなる。


味噌汁の湯気が目にしみる。

それを合図に、箸を動かす。

「おいしい」と言葉にするタイミングを測るようにして、そっと頷く。


「おいしい?」


お母さんが小さく問いかける。

わたしは、こくんと頷く。


(お母さんにとってはこれが何度目の「おいしい」なんだろう。)


そんな問いを自分に投げかけながら、朝食を食べ終える。


やがて玄関のチャイムが鳴る。

お母さんが立ち上がり、ドアを開ける。


「凛ちゃーん! 今日も行くよー!」


明るい声。

制服姿の女の子が笑顔で立っていた。


「真帆……?」


声に出して呼ぶと、真帆は嬉しそうに目を輝かせる。


「おぉ!そうそう、覚えてた! えらいえらい!」


覚えていたわけじゃない。

ノートに書いてあっただけ。

でも、それを言うと真帆が悲しむ気がして、言葉を飲み込む。


真帆はわたしの手を取る。

そのぬくもりも、どこか懐かしい気がする。

けれど、この懐かしさもどこから来るのか、わたしにはわからない。


「さぁ、今日は体育祭の練習だよ! 昨日は応援旗を描いたんだよ! 覚えてる?」


「……ごめん。わからない……」


「うん、知ってるよ。大丈夫!」


真帆は無邪気に笑う。

だけど、その笑顔の奥に、どこか無理をしている影が見える気がした。


学校へ向かう道すがら、真帆は一生懸命、昨日のことを話してくれる。

「昨日はね、〇〇先輩がすごい面白いこと言ってさ!」「帰りにコンビニ寄ったんだよ!」

言葉の端々に、わたしを置いていかないようにする優しさが滲む。


わたしは頷くだけ。

景色は新しいようで、どこか既視感がある。

でも、その「どこか」を特定できない。


学校に着くと、クラスメイトが「おはよう」と声をかけてくる。

その声も、笑顔も、全部「知らない人」だ。

だけど、その空気はわたしが「ここにいていい」と言っているようだった。


真帆が席につき、わたしの鞄を机に置いてくれる。

今日も頑張ろうね!といって体を乗り出してくる


わたしは、その声を聞きながら、ノートを鞄の中でそっと撫でる。


(わたしは、ここにいていいんだよね。)


それを確かめるように、鞄の中のノートに触れるたび、心が少しだけ落ち着く。

けれど、明日になれば――


「凛、絵がうまいって有名なんだよ!」


「そうなの?」


「そうだよ! 昨日もね、みんなびっくりしてたんだよ!」


昨日…それは私には分からない記憶


「そっか……ありがとう。」


真帆の笑顔に救われる。

この笑顔を見られるだけで、わたしは今日も「わたし」でいてもいいと言ってくれてる気がする。


(……でも、わたしは明日、この気持ちすら忘れる。)


それが怖い。

怖くて、心が小さく震える。


昼休み、屋上に座る。

真帆が隣で弁当を広げる。

風が吹き、髪が揺れる。


「凛、覚えてる? ここ、よく来てるんだよ」


「……覚えてない。」


「そっか。でも、毎回ここでお弁当食べると『風が気持ちいいね』って言うんだよ、凛は。」


わたしは、目を閉じて風を感じる。

頬を撫でる春の風。

どこまでも優しいのに、その優しさが切なくなる。


(わたしは、本当にここに生きているのかな。)


そんな問いが、頭の奥に沈む。

だけど、言葉にはしない。


「凛、これからもずっと一緒にいようね」


「……うん。」


言葉を交わすたびに、心が少しずつ溶けていくような感覚。

わたしは、何度目かもわからない「今日」を、こうして過ごしている。


けれど、夜が来ればまた――



夜――

わたしはベッドに横になっている。

天井の白さを見上げながら、呼吸を整える。


机の上に置いたノートが、部屋の中で一番「確かなもの」に見える。

ノートを開くと、「今日のわたし」から「明日のわたし」へのメッセージが書かれている。



【おやすみ。

また明日も、新しい一日を生きてください。

君は、君であればそれでいいよ。】



文字をなぞる指先が少しずつ冷たくなる。

だけど、この文字がすべてを繋ぎとめてくれている気がする。


目を閉じると、すぐに意識が暗闇に落ちていく。

「明日」という感覚があるようで、どこか遠い世界の話のようでもある。


――


朝。


目を開けると、白い天井がある。

硬い空気が胸に刺さるようで、わたしは小さく息を呑む。


頭の中は空白だ。

なにも思い出せない。

思い出そうとしても、そもそも「思い出す」という行為がうまくできない。


ベッドから降り、机に置かれたノートを見つける。

表紙をそっと撫でると、自分の指先の感触だけが唯一の「証拠」のようだ。


ノートを開く。



名前:月島 凛

年齢:17歳(高校2年生)

今日やること



その言葉は、わたしにとって完全に「初めて」の情報だ。

ページをめくると「昨日のわたし」と名乗る人物からの文章がある。

けれど、「昨日」という言葉は、わたしにとって意味を持たない。

「昨日」とは何か――感覚として理解できない。


そこに書かれた文を読んでも、まるで誰かの物語を読んでいるようだ。

わたし自身が書いた?

そんな感覚はどこにもない。


わたしは、その文章を「知る」しかできない。

「覚えている」という状態にはならない。



【今日も新しいわたしへ。

大丈夫だよ。

真帆が迎えに来るから、制服を着て、顔を洗って、リビングで朝ごはんを食べてね。】



その指示に従うしかない。

だって、それ以外の選択肢は知らない。


(制服……?)


クローゼットを開けると、制服が掛かっている。

袖を通し、リボンを結ぶ。

動作はぎこちなく、体だけがどこか勝手に覚えているように動く。

でも、その「覚え」がどこから来るのかはわからない。


洗面所に立つ。

鏡の中の女の子がわたしを見返す。

それが「わたし」だと理解するしかない。

何度も「おはよう」と言ってみる。

その声も、やはり「初めて」聞く音のようだ。


リビングに行くと、女性が立っている。

ノートには「お母さん」と書かれている。

わたしはその言葉を信じるしかない。


「おはよう、凛」


「……おはようございます。」


女性が笑う。

「敬語じゃなくていいのよ」と言うけれど、わたしにはどう返せばいいのかもわからない。


朝ごはんを食べる。

味の感覚も、「初めて」だ。

その「初めて」が、何度目の「初めて」なのか、わたしにはわからない。


やがて玄関のチャイムが鳴る。


「凛ちゃーん! 今日も一緒に行こう!」


制服姿の女の子が立っている。

ノートには「真帆」と書かれている。


(……真帆。)


その名前は、頭の中にある「文字」としての存在でしかない。

記憶としての「真帆」は、どこにもいない。


「おはよう!」


「……おはよう。」


真帆は笑顔で手を引く。

「昨日も楽しかったよね!」と言うけれど、わたしには「昨日」が何かすらわからない。


学校へ行く道。

道の景色はまぶしくて、息が詰まりそうになる。

どこを見ても、すべてが「初めて」のように目に飛び込んでくる。


教室に着くと、クラスメイトたちが声をかける。


「おはよう、凛!」


「今日もよろしくね!」


わたしは、言われるがままに笑顔を作る。

でも、その笑顔が「昨日」から続いているのかどうかはわからない。

わたしの中には、何も残っていない。


昼休み、真帆が「屋上に行こう」と言う。

屋上で風に当たると、体が少しだけ軽くなる。


「凛、ここはずっとお気に入りの場所なんだよ。覚えてる?」


「……わからない。」


真帆の笑顔が揺れる。

それでも、「大丈夫」と言ってくれる。


「また好きになればいいよ!」


わたしは、真帆の言葉にうなずくしかない。

何度も、何度も、この「うなずき」を繰り返してきたのだろうか。

でも、それすらもわたしにはわからない。


夕方、美術室へ行くと、未完成の油絵がある。

ノートには「続きを描いて」とある。

わたしは筆を取り、静かに線を引く。

絵の中の景色は、見覚えがあるような気がするけれど、どこから来るのかはわからない。


(……これは、誰が描いたんだろう。)


絵を完成させるたびに、わたしはわたしの存在を確かめているような気がする。

だけど、その「気がする」も、根拠のないものだ。


帰り道、真帆とコンビニに寄る。

「スイーツ買って帰ろうよ!」

笑顔で差し出されたカゴに、わたしはそっとスイーツを入れる。


家に戻ると、「おかえり」と声がかかる。

わたしは「ただいま」と返す。

ただそれだけの会話で、わたしの存在が一瞬つながる気がする。


夜、ノートを開き、今日のことを書く。


【今日もありがとう。

明日も君は新しい君でいいよ。

どうか怖がらないで。】


書き終えると、また「何もない」空白が胸に広がる。

わたしは、わたしを知ることができない。

「昨日」がどこにあったのかも、どう生きてきたのかも、すべては霧の中。


ノートだけが、わたしのすべてだ。


――


朝。


また白い天井を見つめる。


(…どこだろう)


何もわからない。

ただ、机の上のノートが目に映る。

それだけが、わたしの世界のすべて。


朝。


目を開けると、白い天井が静かに広がっている。

何もわからない。

何も思い出せない。


体を起こすと、胸の奥が重く沈む。

机の上のノートを見つけると、手が自然と伸びる。

そこに書かれた「わたし」の名前と年齢だけが、わたしを形作る。



名前:月島凛

年齢:17歳(高校2年生)

今日やること



文字を追う視線は冷たく、何度読んでも温かさは感じられない。

「過去」と呼ばれるものがあると知っていても、それが何なのか、心には届かない。


制服に着替え、鏡の中の女の子と目が合う。

「おはよう」と口にしても、返事は鏡の中に消えていく。

その顔に宿る表情は、ただの絵のようで、わたしのものだと信じるしかない。


リビングに行くと、お母さんが笑顔を見せる。

「おはよう」と声をかけられ、「おはよう」と返す。

返事の音は空気の中に溶けるだけで、意味は見つからない。


玄関のチャイムが鳴く。

「凛ちゃーん! 行くよ!」

ノートに書いてあった制服姿の真帆?が立っている。

その顔も、名前も、ノートに書かれていた文字でしか理解できない。


「昨日も楽しかったね!」

わたしには「昨日」が何か、わからない。

ただ頷く。

それだけが残された動作。


学校でたくさんの声が降り注ぐ。

笑顔を向けられ、わたしも口角を上げる。

その笑いには、土台がない。

支えるものがなく、ただ形だけが残される。


屋上で真帆と並ぶと、風が冷たく肌を刺す。

「ここ、凛が好きな場所なんだよ。」

その言葉に「そうなんだ」と返す。

言葉が終わるたびに、胸の奥に小さな亀裂が走る。


美術室。

未完成の絵が机に置かれている。

筆を取ると、手だけが勝手に動く。

絵の中に描かれた景色は、どこか知らない遠い場所のようで、遠く霞んでいる。


(これは……わたしが描いたの? 誰かが描いたの?)


帰り道、真帆が隣にいても、わたしの足元には深い空洞が広がる。

「コンビニ寄ろう!」

スイーツを手にする真帆を見つめながら、自分が透明になっていく感覚に囚われる。


家に戻ると、「おかえり」と声が届く。

「ただいま」と返すその音は、どこにも届かない気がする。


夜。

ノートを開き、わたしの指先が震える。



今日もありがとう。

明日、目が覚めたときにこの言葉を信じてくれるといいな。

今日のわたしは、ここにいたよ。

君が誰にも知られないとしても、ここにいたことだけは真実だよ。



文字を書き終えると、喉の奥に重いものが詰まる。

部屋の中の空気は冷たく静かで、わたしの声は溶けてしまいそうだ。


眠りに落ちる直前、目の奥が熱くなる。

それでも涙は落ちない。

悲しみは、涙になる前に霧のように消えていく。


布団の中で、わたしは小さくつぶやく。


(おやすみ……わたし。)


――


朝。


白い天井。

初めて見る場所だ


(……ここは、どこ?)


体を起こすと、机の上のノートが視界に入る。

それだけが、わたしと世界を繋ぐ細い糸。


ノートに書かれた文字を追う。

毎朝、わたしは「ここはどこ?」と問う。

それは、わたしがわたしでいるための儀式みたいだ。

でも、答えはいつもノートの中にしかない。

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