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8話

進路希望の紙には

「東京大学 理科Ⅰ類」

とだけ書いておいた。もちろん、現状では届かない領域だろうが、特に他に行きたいところもないので、書く分には咎められないだろう。


「そんじゃー回収するぞー。後ろから回してくれ。

あんまり人の志望校じろじろ見るなよー。って言ってるそばから霜村ぁ。おい霜村。黙って回さんかい。」


やはり集中力のない雅歌が周囲に


「どこ書いた?」

「いいねー!」

「まじで?」


と話しかけ始め、酒井が窘める。


「杏来ちゃんどーこ行くの?」

「何であんたに教える必要があんのよ。」

「良いじゃん聞いたって。」

「なんかムカつくから嫌。」

「えぇ……。」

「じゃああんたはどこ行きたいのよ。」

「俺…は……恥ずかしいから秘密。」

「あんたねぇ!」


(仲の良いことで。)

茶飯事と化しているやりとりを見ていると、あれはあれで良い関係なんじゃないかと思う。

安積香がツンデレなのか普通に疎ましいのかは定かではないが、お互いのことが心にあるというだけで、

人間満ち足りたりするものだ。


酒井が全員分の進路希望用紙用紙を解答したところでロングホームルームは終わり、その日は解散となった。


「まあ担任としてはね、このクラスから旧帝とかね、早慶に進んでくれる人がいたら俺も同僚に自慢できるわけよ。」


一応2、3年はクラス替えがないので、来年の受験の時もこの面子と担任は変わらないことになる。

……でもあんた体育教師だろ。


酒井が出て行った後に、帰る前に手洗いに行こうとして、ちょうど酒井を追うようにして教室を出た。その時、


「おっっと、しまった。」


バザバサッと音を立てて、酒井がまとめてあった用紙を取り落とした。


「僕も拾いますよ。」

「おぅ、すまんな。さんきゅ。」


ちょうど通りがけだったので、そのまま腰を下ろし、広がった紙を集める。すると、ふと先ほどの会話にあった雅歌の名前が書かれた用紙が目に入る。


「東京藝術大学 器楽」

まさか。そうきたか。

と、さすがに少し面食らって手が止まってしまう。

でも同時に、どこか腑に落ちたような部分もあった。

何をやらせてもできてしまうセンス。

軽い言動やおちゃらけた表情。

そしてその中に確かに潜む品性と教養。

そこで突然、以前に彼の周囲の人間が、彼の母親がピアニストで、父親も音楽関係の仕事をしているとか言っていたのを思い出した。

当時は特に気に留めていない情報だったので、ほとんど忘れてかけていたが。

やはりそこを目指すということは、それだけの努力はしているんだろう。部活に入っていないということは、

家に帰ってからそれなりの稽古もしているんだろう。


(やっぱり誰でも頑張ってるんだなあ)

その瞬間ふと、普段のあの雅歌の奔放さが

彼の天性の強さに思えてきて、

ある種の敬意を持って感じられ、

同時に、雰囲気や言動の一側面でまたしても

人を評価してしまった自分への嫌悪と、

自分以外の人は、やはりもっと一生懸命に生きてるんだろうかという悲しみが心の中でささやかにゆらめく。


(まぁ、そんなものか)


とりあえずそう言い逃れしておいて、回収作業に戻る。


残り一つを拾おうとしたとき、またしても手が止まった。

いや、思考が止まった、という方が的確かもしれない。

そこに書いてあったもの、

というよりそこに何も書からていなかったことが、

僕をの間混乱させた。


「2年D組 涙川となり 第一志望校: 」


「特にない」とか「未定」ではなく、何の変哲もない空白。

さすがにその場で酒井に

「先生、涙川さんは空白ですけどこれで良いんですか?」

と言うような無粋なことは聞けず、ただ酒井に手渡した。


「よっしゃ、ありがとな!籠。」

「いえ、さようなら。」

「はいさよなら。」


挨拶もそこそこに、そのままトイレに行って帰路につく。



帰り道でも、電車の中で考えがまとまらなくて落ち着かなかった。

あの紙を酒井は確認したんだろうか。じゃあ何で書き直させなかった?そもそも何で白紙なんだ?名前は書いてあったのに。


あの空欄からは、ただ面倒とか未定とかいう理由よりも、

明確な感情―それが何かは説明には至らないが―を感じ取れた。


「私はここに何も書くことがない。書くことができない。」


そういうメッセージを、僕は一つの解釈として得た。


結局、癖というのもあるが色々想像してしまって、

その夜もまた寝つきの悪い不快な睡眠をとることになったの

だった。

夏草は勉強が嫌いなわけではありません。

むしろ知見が広がって世界が広がるのを好む方です。

でも彼は、頑張り方を忘れてしまったのです。

上の向き方を忘れてしまっただけなのです、、、。

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