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30話 獏の忘れ物

夢を見ることはしばしばある。

いや、正確には夢を覚えていることがあるという方が正しいらしい。


脳の記憶を整理する機能が、覚醒している時に溜め込んだ膨大な情報を秩序の内に折り畳む際のいわば副作用のような物であるとか。


それはともかくとして僕が見た一連の景色とは、

それはそれは解釈のむつかしく、悪趣味なものであった。



まず僕は一人で広い平原の一本道に立っていた。

脈絡はない。だって泡沫の夢なのだから。

それはコンクリートなどで舗装されているものではなく、

生い茂る緑の短草の中にさりげなく、指し示すように、

光が海原を分けてゆくように地平の果てへと伸びる古典的な道であった。


(ここは……。)


僕はこの、土の匂いさえ仄めかすような燻んだ色の風景をなぜか知っているような気がしてならなかった。

昔同じような景色をどこかで見たのだろうか。

写真や、あるいはまた昔の夢の中で。


ざり、と足音がした。

僕のものではい。…背後からしたもの。

音の大きさからして、背後と言ってもすぐ後ろという距離ではないだろう。

ざり、とまた一歩。

ぞくり、と不快な何かが僕の血に混ざって全身に回る。


普通、足音だけで何かがわかることなんてないんだろうが、

少なくともそれは僕にとって、いささかの安堵を与えるものではなかった。


振り返ってみようとしても、僕の首は、幾つもあるはずの骨が全てくっついてしまったかのように動かない。

振り向けない。振り向きたくない。


それは見てはならない何かであると、

僕は感覚のうちに察した。


(これは、追われているのだろうか。)


じわじわと、恐怖が胸の内を占めてゆく。

……逃げなければ。

姿もわからぬ彼は、一歩一歩、同じ速さで近づいてくる。

追いつかれたら何があるのか、そもそも追われているのかもわからない状況。

とにかく歩を進めなければ、と無意識のうちに思わされた僕は、右の脚に力を込める。

脹脛に力を込める。足の指に力を込める。

………あれ。


(歩くのって、どうするんだっけ。)


どうしても足が動かない。

もう既に、かなり近くまで迫ってきている。


(怖い、怖い。逃げたい。動け、頼むから。)


なす術もない無力感と恐怖で、

何もかもぐちゃぐちゃになってゆく。

そして恐怖が最高に達したその時、

僕の足は動き出していた。


ただ進む速さは自分では決められないようだ。

僕はゆっくりとした速度で道を辿っていく。

得体の知れない恐怖に怯えたまま。

彼の足音が、ずっと、ずっと聞こえたまま。




また気がつくと、

今度は打って変わって僕は真っ白な空間の中を歩いていた。

前も後ろも、右も左も、上も下も、

全てが儚い白さで包まれていた。


遠くの白い壁は、漆喰のような固い実体を持っているようにも、霧が漂っているだけのようにも見える。

僕と壁との空間は、有限であるようにも感じられるし、

無限だと言われても納得してしまいそうなほど神秘に包まれていた。

………あれだ。

ちょうどネイピア数の定義を目の当たりにした時の納得感を伴う不満に近い。


歩いても歩いても、同じ景色ばかりが繰り返される。

それでも、夢の中の僕の身体は、行くべき方向を知っているかのように迷いなくとある方向に進んでゆく。


やがて白くぼやけた視界に、今度は実体のあるこれまた白く、直方体のようなオブジェクトが現れた。

大きさは縦に3メートル足らずと言ったところか。

細長く天を指すそれの頭の方は、短い直方体をもう一つ重ねたような左右対称性の形をしている。

極めて有名なシルエット。


(……十字架。)


そうだ。これは十字架に似ている。

あのゴルゴタの丘の十字架に。


僕の身体は歩みを止めず、

ずんずんと十字架に近づいてゆく。

僕の朦朧とした意識は半ばそれを見守っているだけであったが、近づいてゆく最中十字架の裏から何かが気配を放っているのを感じ取った。


あの裏に誰かがいる。

誰かが、磔にされている。


躊躇うことなく十字架のそばまできた僕の身体が、

いざその気配の正体を覗き込もうというところで、

突如として体の支配権が僕に返ってきた。


ここから先は自分で選べ、ということか。


もう力のない体の一部は見えていて、誰かが磔に遭っているのは疑いようのないことだった。

少しの間、僕は自問して見てしまうべきか悩んだけれど、

やはり好奇心が勝って、意を決して覗き込む。



よく覚えている。

右脇から、僕は確かにその右脇から君を覗き込んだ。

その時僕が目にした人の顔は―。

_____________________________________________


また、場面が変わった。

今度は、全く知らない、どこかのマンションの一室だった。

内装はこれと言って変わった様子はない。

そこまで広くない一室に、台所と四人サイズの机、リビングにはクリーム色のソファと丸テーブル。

僕は身の丈ほどのベランダにつながるガラスドアへ近づき、

ベージュの地のカーテンをそっと掴んで開く。


多分時刻は昼過ぎ。

窓にはめらめらと燃え盛る青い夏の色が映える。

目に映る全ての色が鮮明だった。

蝉の音がうるさい。音が蓮口から流れてくるみたいだ。

…あれ、おかしいな。

もうこの頃はすっかり蝉の時期は過ぎた筈なのに。


ちりーん……


風鈴の音がぽつん、と立つ。


「やあ。」


普段の僕なら酷くびっくりして、声の一つでも挙げそうなものだが、何故かその時僕は突然の声に対して何ら感情の機微はなかった。


声の方を振り向くと、その人は机の向こう側に座って頬杖を突いていた。

不思議にも、見えている筈の顔が良く認識できない。

思い出そうとしても、記憶の中でそこだけぼやけてしまう。


「こんにちは。」


挨拶を返してみる。


「はい、こんにちは。」


この声。どこか知っているようで知らない。

誰かに似ているようで、その誰かもわからない。


「ところで君は、自分を愛せるかい?」

「いいえ。」


嘘は吐きたくない、と思った。

短くそれだけ告げる。


「そっか。じゃあ、君はいつか誰かを愛せると思うかい?」

「それは……わかりません。」

「……そう。」


その人はしょうがないなあというようにふっと笑う。


「もう、時間もないから一つだけ。」

「?」

「あの子を、お願いね。」

「………え。」


_____________________________________________


どういう事ですか。

と、問いかけようとする。

既にそこは、現の世界の僕の部屋だった。


(涙……?)


頬が塩水に濡れて乾いている。

また、冷たい夢のうちに、抑えきれない感情たちが朝露を降ろしていたようだ。



文化祭が明けて休日を挟んだ登校日。

涙川となりは、学校に来なかった。

次の日も。その次の日も。

個人的に物語上大事だなーと思ったところには、タイトルをつける、、、かも知れません。つけないかも知れません。

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