16話
「あずき……。」
「……ンナッ…。」
暖かい縁側で寝転がるあずきの側で、うつ伏せに肘を立てて
尻尾で半分隠れた彼女の顔を覗き込む。
寝ている時に呼びかけると、大体こんな感じの
短い鳴き声を返してくれる。
夢なのか、現なのかもわからないけれど。
あずきはゴロゴロと喉を鳴らしている。
猫の喉鳴らしは、嬉しい時や心地良い時にするものと言われているが、僕にとっても種の精神安定剤のようなものだ。
この音には人を幸せにする力がある。異論は……認めん。
猫独特の柔らかい身体で、蛇が鳥栖を巻くような寝相の
側に、僕も包むようにして添う。
あずきは薄目を開けてこちらを見ている。
昼間ゆえに細く絞られた瞳孔が僕の瞳を向いているのが
わかった。僕がその眉間のあたりを親指でなぞると、
また目を閉じて眠ってしまった。
(この子の心臓は、あと幾つ脈打つんだろう。)
一般に哺乳類が打てる心臓の回数は20億と少し、
と言われている。
僕は目を閉じ、あずきのお腹に軽く耳を当て、
その鼓動に耳を傾ける。
(速いなあ。)
ああ、速い。胸に手を当て、僕自身の心臓の鼓動を感じる。
僕も、君も、残り時間はもう決まってる。
人は寿命が減ってから、そのありがたみに気づくとは
よく言うけれど。
最初から有限であるというだけで、それだけで虚しくて、
儚くて、そしてだからこそ美しいんだと思う。
もしそうでなければ、「神が創った」この命も、この世界も……余りにもちゃちだ。
奇跡のように、彗星のように現れた人間の知性が、ただの命の輪廻の結果の一つに過ぎず、僕が僕である意味も、圧倒的な夕暮れも、咲いて枯れる花もただの過程だというのなら。
僕らの苦悩は、全くの無駄ということになる。
まあその解決策として人は宗教や道徳を編み出すのだが。
でも僕には、形を持った神も、割り切って道徳を受け入れる
寛容も、勇気もない。
だからきっと、僕には、「人間の屑」の僕には、
僕自身や君の死が、もっと身近なんだと思う。
「あずき……。」
「……………。」
「あずきはあとどれくらい生きられるの?」
「……………ンナッ。」
「あずきがいなくなったら、僕は何を愛するんだろうねぇ。」
「……………。」
「………猫の命は短いね。」
「……………。」
「…僕は、愛してると言いながら…そのくせ一緒に死んであげられない。…失格だね、僕は。」
「……………。」
「ごめん…。ごめんよ。」
「……ニャーォ。」
ぽた、ぽたと涙をこぼし始める僕の頬に、
あずきの尻尾が触れた。たまたまだとは思うが、
目を開いて、優しく(眠いだけかもしれないが)僕を
見つめながら「いいよ。」と言われている気がした。
例え僕に神がいないくても、この美しさだけは否定しちゃいけない。この温もりだけは論述したくない。そう思った。
翌日、僕ば母と車に乗って、祖母のいる施設に訪れた。
実家のある山間からは少し離れた街の住宅街の中に
その施設はあり、一見すれば少し飾り立てられたマンションか、あるいは病棟に見えなくもなかった。
受付を済ませ、エレベーターで居住スペースのある二階へと
登っていく。
「おばあちゃんのいるところは、たしか菊の203号室だったわね。」
菊、というのは施設内の居住区域の区分の名称らしい。
いかにも、高齢者施設のネーミングっぽくて不覚にも
苦笑してしまう。
エレベーターが開いたその時、僕は咄嗟に口元を押さえた。
異様な臭いが、漂っていたからだ。
それはなんとも形容し難いもので、空気を入れ替えずに何年と人を押し込めたような(実際そうなのだろう)重さと、
微かな吐瀉物の要素、そしてそれを覆い隠すような
消毒用アルコールの臭いが混ざったような、嫌な甘さ。
そして…これはひどく不謹慎な言い方になることは
承知の上だが…そう…死臭。
そう表現するのが最もしっかりと来る、そんな臭いだった。
「……すごい、臭いだ。」
「まぁね、仕方ないでしょ。そういうところだもの。
あとみっともないから鼻と口塞ぐのやめなさい。」
……確かにそうだ。僕は手をゆっくりと離し、できるだけ浅い呼吸をする。
(…慣れるまでに少しかかりそうだ。)
少し歩いて203と書かれた扉の前につき、
重めのスライドドアを開ける。
そこには最後に見た時よりもずっと痩せ、正気も衰え、上半身だけ起こしたベッドの上で、ぼーっと、空を見つめる祖母の姿があった。
「おばあちゃん、来たよー。ほら、夏もいるよ。」
「久しぶり。」
僕が判るかはさておき、とにかく声をかけてみる。
「…あ…あぁ……。」
祖母は眠たげな目を少しだけ見開いて僕の顎の辺りから、
そして目が合うまで、観察するように見回す。
記憶のどこかに、引っかかるのか。言葉を思い出そうとする
子供のように、少し苦しそうに声を出そうとするが、
結局見つからないようで、また目を伏せてしまった。
「おばあちゃん、わからない?夏よ。夏草。」
「刻子さん、あなたの孫ですよ。」
「なんでそんな他人行儀なのよ……。」
「いやなんとなく…。」
ふざけ半分ではあるが、なんとなく、今僕が目の前のベッドの上の人を、祖母として扱うのが少し憚られた。
理由は、上手く説明できない。
「おばあちゃん……随分痩せちゃったのねえ。」
母は施設に借りた濡れタオルで、祖母の顔の周りについた
カスや目ヤニなどを拭き取っている。
施設の人によると、まだ食事は自力で摂るらしい。
それならば当分は大丈夫そうか。
………大丈夫?
何が大丈夫、なんだろう。
ふと、部屋を出て辺りを見回してみる。
部屋を出てすぐそばには、入居者たちが食事をしたり、
集まったりする広めのリビングがあり、何人かがそこで
座ったまま寝たり、外を見つめたり、まだ健康な人達は
思い出話などをして過ごしている。
ここにいる人たちは、走ることも、家事をすることも、長年過ごした家で暮らすことも、もうない。
ただゆっくりと、時間に全てを任せて、生きている。
ここは特養だ。
ここの職員も、もしかしたら彼等の家族でさえ、
勿論長生きを望んではいるだろうが、関心があるのは、
彼等がいつ、死ぬのか。
いつ、「終わる」のか、ということなんだろう。
僕はそれを悪とは思わない。
自然な発想だとさえ、思う。
でもなんだか、虚しいような、悲しいような、
とてつもなくやるせないものに襲われた。
そして、普段の高校の教室の景色が、ひどく
懐かしいように思われて、何故だかはわからないが、
脳裏に涙川の姿が浮かんだ。
あの人は、死についてどう思ってるんだろう。
僕は無性に、人と話したくなった。
それから、しばらく祖母の部屋で様子を見て、
職員の人に近況の報告を受けて、その日の面会は終了となった。
「じゃあ夏、このまま駅でいいのね。」
「うん。」
明日からまた学校もあるので、面会に行ったその足で
熊谷のアパートまで帰ることにしていた。
あずきには挨拶してきたし、荷物も車に積んである。
今から出れば、夜の8時過ぎには着けるはずだ。
駅までの1時間と少し、母から色々聞かれたりして会話は
多かったが、祖母についての話題はほとんど皆無だった。
お互い、どう触れていいのかもわからなかったし、
僕にとっては僕の発言がトリガーになって、母の不安や愚痴が溢れるのも避けたかった。
「じゃあ、夏、またしっかりね。」
「はい。」
それだけを交わして僕は殆ど人のいない電車に乗った。
暗くなり始めた故郷の山々が少しずつ遠のいてゆく。
どこか名残惜しそうに。
或いは僕を責め立てるように。
僕はそれを遮ろうとして、イヤホンを耳につける。
とにかく静かになりたかった。
何故か帰りたい、という気持ちに駆られた。
どこへかは、わからない。
生家から離れてゆくのに、離れてゆくほど寧ろ
安堵感が少しずつ胸から指先へ抜けてゆくようだった。
高崎を降りて乗り換えようとした時、
携帯がポケットの中で震えた。
誰だろう。そう思って画面を覗き込むと
知らないアイコンが表示されていた。
少し不審にも思ったが、LINEで突然知らない人から迷惑メールが来る可能性も低いだろうと思い、そのまま開ける。
そして一瞬硬直した。
メッセージの相手は、涙川だった。
>>なつくさくん、急にごめんね!
これから文化祭でも色々連絡することあると思って、
荒幡君に頼んで連絡先貰いました!よろしくね!
女子に連絡を送られたという衝撃ともう一つ、心に
引っかかった単語があった。
(これから…か。)
これから。今日一日で見た光景と、「これから」という
言葉の間のあまりに大きい落差に頭がふらふらしそうだった。
なんて返すべきかもわからず、とりあえず
>>よろしくお願いします。
とだけ打っておいた。
今日どんな気持ちで眠るのかわからない。
また思考に駆られて眠れないかもしれない。
でも、明日からまた日常が始まる。
僕にしては珍しく、そのことを少し前向きに受け取れた。
ような気がした。
週一で投稿すると内容忘れそうになって、話の筋が変わってないかかなり不安になります、、、。