15話
「ただいま。」
昔ながらの横引きの扉をガラガラと開け、
久方振りの生家の敷居を跨ぐ。返事はない。
おそらく母は出かけているのだろう。
父は仕事の拠点が関西だし、兄の秋風は大学を卒業してからは正月くらいに戻ってくる程度で殆ど親と連絡をとっていないらしい。
一応僕自身も兄の連絡先は流石に持っているが、最後のやり取りは今年の正月の帰省の際の「お酒持ってきて」「自分でとりなさい。」で終わっている。これが僕たちの普通なのだ。
どうせ明日には帰るので、土間を上がってすぐのところに
持ってきた荷物を置いて、台所で手を洗う。
そして居間を挟んだ奥の部屋にある仏壇で線香をあげ、
念仏を唱える。別に僕は仏教徒ではないのだが、
顔も知らない先祖を敬う気持ちを表すのに、最もそぐう行動がこれだというのなら、全く躊躇うまい。
「あれ、開いてる。ただいまー。夏、もう来てたの。」
そこまでしたところで丁度玄関の扉が開く音がして、
母が帰ってきたのがわかった。
仏壇に背を向けて、玄関の方まで歩いて出迎える。
「うん。」
「あぁ、おかえり。どう、生活は。」
「まぁ、ぼちぼち。」
母は買ってきた物を置いて整理しながら僕に問いかける。
「ちゃんと勉強は大丈夫なの?」
「まぁ、それなりには。」
大丈夫ってなんだ。何を以て大丈夫というのか。
「そう?ならいいけど。一人暮らしだからって遊び惚けてないでしょうね。」
「そもそも遊ぶような友達がいないよ。」
「あら、そう?他の子と話したりしないの?」
「そりゃ会話はするけども…。」
母はよく、僕が友達ができた、というと決まって「誰?」「なんていう子?」「どんな子?」と聞いてきたものだった。
聞いたところで本人は関わらないのに、友達と遊んだ、というと誰と、どこで、何をしていたのか逐一聞いてきて、面倒になって答えを渋ると機嫌を損ねるのだ。
勿論、子供とコミュニケーションを取ろうという目的なのは成長してから判ったが、多分それだけじゃなかった。
自分の子供が、どんな子と付き合ってどう過ごしているのか把握しないと不安だったんだろう。
それでいて、一度話したことのある級友のことを話題にすると、「それ誰?」と訊いてくるので、本当は僕の交友自体に興味があるわけじゃないんだなあ、と子供ながらに察していた。
自分が血を分けたモノが、自分の知らない世界に住んでるのが怖かったんだろう。確かにそれは得体の知れない恐怖だ。
だからそれについては今更言いたいこともない。
悪意なんてないんだから。
…ただ僕は居心地がよくないだけ。
それ故に、ある程度成長してからは、自分から交友や近況を進んで話すようなことはなくなった。
まあ問い詰められたら答えるが。
「ふーん。まあいいわ。あ、そうだ。明日はおばあちゃんの施設に行くけど、車で30分ちょっとかかるとこにあるからね。」
「随分と遠いね。」
一時間半以上かけて実家に帰ってくる僕がいうのは何だか
こそばゆいものがあるが。
「やっぱりここは田舎だから、そういう施設って殆どないのよ。」
「そうか……。」
「おじいちゃんのところは行った?」
「いや、まだ。」
「そう、まだ畑から帰ってないだろうから、あとで顔見せてきなさいね。」
「わかった。…………そういえば、あずきは?」
あずき、というのはこの辺りに住み着いている雌の猫で、
たしか僕がまだ5才くらいの時、まだ仔猫だったあずきが
道端の草むらからこちらを覗いているのを見つけた僕がおいで、というと側へやってきて、それからはよく懐いた。
親は既にいないようで、ひどく痩せていた。
僕が家に帰ろうとしてもついてきて、母は野良猫に餌をあげてはいけないと言い、動物嫌いの兄も煙たがったが、
結局僕の猛反対に勝る主張の末、
餌だけあげるということで落ち着いた。
思えば、あれが僕にとって最大かつ
最後の反抗だったのかも知れない。
「そういえばこのところ見ないね。もうあの子もおばあちゃんだし、もう寿命かもね。」
「…そう……。」
あの子「も」というのは祖母を示唆して言っているのだろうか。
「……ちょっと探してくる。」
「どこをよ。」
「そこの裏の山くらいまで……。」
「何言ってんの。いないのはもうしょうがないでしょ。」
(まだわかんないだろうが。)
そう言いかけたのをすんでのところで堪える。
「まぁ、家の周りだけちょっと歩いてくるわ。」
「ほんとに行くの?」
「ああ。」
「やめなさいよ、子供じゃないんだから。」
「……。」
(……普段散々子供扱いのくせに。)
随分と調子のいい言葉じゃないか。
思春期らしい心のトゲを感じて、それでもそれらを一本一本折りながら、言葉を選ぶ。
怒らせないように。角を立てないように。
「……そんな遠くまで行かないよ。ちょっと散歩するだけ。
久しぶりの自然の空気だからさ。」
「…そう。」
(まあ、山の方まで行くけどね。)
心の中でそうぼやきつつ、玄関の方へ足を向ける。
今年の夏は帰ってきてないけれど、正月に帰ってきた時は
まだいたはずだ。そのときは流石に高齢なのと、ひどい雪の中にはおいておけないのでその時は家の中に入れていた。
まだ、生きててほしい。
昔、暖かい縁側であずきと心を通わせ合ったときの、あの幼く優しい思い出との別れへの心の準備は、僕にはない。
心なしか少し早まった手で靴紐を結び、玄関に手をかける。
「じゃ、ちょっと行ってくるから。」
「早く帰ってきなさいよ。」
……なぜ早く帰らせたいのか。
先ほどのやり取りでもうムキになっているのか。
探したいという僕の気持ちも、わからないのか。
(…もういい。どうせわからん。)
心のトゲを折るのさえ面倒になってきたので諦め、
扉を開けたその時、開けた扉の隙間から、よく見慣れた
茶色と白の毛玉が転がり込んでくるのが見えた。
「あっ。」
思わず声が漏れる。
「……あずき?」
名前を呼ぶとそれはこちらを見上げて―猫は目が悪いと聞くが、不思議と人の顔をしっかりと判別し、目が合っているように思える―そしてニャーと返事をした。
おかえり、と言っているのか久しぶり、と言っているのか。
それは人間の僕にはわからないが、それでも僕のことは何となく理解している気がした。
安堵と、懐かしさで力が抜けてゆく。
(……よかった。)
あずきは慣れたように玄関を上がってゆく。
きっと縁側に向かうのだろう。
いつもそこで寝るのが好きだったから。
また、二人で日向ぼっこしよう。
丸まる彼女の、そのふわふわな毛を掻い撫でよう。
そう思ってあずきについて行こうとして、気づいた。
あずきの足取りは、とても頼りないものになっていた。
僕の記憶の中の、虫を追いかけて走る彼女の姿は、
もうそこにはない。
ただよてよてと、あるべき場所を探してぎこちなく
足を動かすその姿は、同じ時間を生きた僕たちの
越えられない境界と少ない残り時間を暗示して、
僕の心の水溜が溢れるには余りに十分だった。
扉が横引きの家ってあとどれくらい存在してるんだろ。