13話
「……で、この化合物同士は、組成式が同じであるにもかかわらず、反応や状態変化で示す性質が全く異なる。これを、構造異性体と言う。」
金曜日の六限。
学校名物、生徒を眠りにつかせる天才の化学教師。
その短調なトーンと硬い言葉選びで学生を巧みに寝つかせる
手腕から、学内でラリホーとあだ名をつけられている。
それがよりにもよって、疲れが溜まった金曜の、昼下がりの六限にあるものだから、集中が続くはずもなく、
学級にはおもたげな、眠たげな雰囲気が漂っていた。
仙龍も、雅歌も、安積香も、そして涙川も、
それぞれの姿勢でうつらうつらとしている様子が見える。
いや、雅歌はがっつり寝ている。
僕も例外に漏れずうとうとしてしまっていたが、
ひとまずはギリギリのところで意識を保っていた。
ちなみに視界の端には、なおもキリッとした姿勢を
保って教師の話を聞いている蓼久保の姿が映っていた。
奴は人間じゃないのかもしれない。
ヴーー
いきなり、僕のポケットに入れていた
スマートフォンが通知を受信したのか、
僕の上腿にバイブレーションが響いた。
休み時間中にに電源を切るのを忘れていた。
まあ特にこの学内で携帯に関する校則はないのだけれど、
僕は集中が阻害されるので出来るだけ切るようにしていた。
まあこんな状況じゃあ集中もへったくれもないのだが。
流石に授業中に携帯を見るのはマナー違反かと思い無視しようとすると、
ヴーー ヴーー
今度は連続でメッセージが来たようだ。
流石に鬱陶しくなってきたので、ホーム画面で送信主だけ
確認して電源を切ろうと携帯を取り出す。
電源を切ろうとサイドボタンに触れた途端、送り主の
名前を見て手が止まる。
メッセージの送り主は母さんだった。
>>明後日、施設へおばあちゃんのお見舞いに行きます。
夏の顔も見せておきたいし、明日には帰ってきてね。
>>それと、おじいちゃんへのお土産とかも、東京で何か
適当に買っておいて。
>>明日の電車の時間も送っておいてね。
「帰ってきてね。」か。
「帰って来られる?」ではなく。
まぁいいけど。
流石に授業中なのでその場では返信せずそのまま
電源を切ろうと思ったが、
キーンコーンカーンコーン……
とちょうど鐘が鳴ったので諦めた。
「ああ、では鐘が鳴ったので今日はここまでにする。構造異性体の分野は入試の有機化学の領分でも極めて重大な部分を占めるので、参考書などでもよく演習をして置くように。」
「きりーつ、きぉつけーれー。」
日直が腑抜けた声で号令をかけると、寝ていた人間も
我を取り戻し、慌てて起き上がる。
「すー………。」
「いーつまで寝てんのよっ!」
教師が出ていってもなお目を覚さない雅歌の頭に安積香の
化学の教科書が落とされる。
ただでさえ化学の教科書分厚いのに。
「もがっ!?」
言葉にならない声をあげた雅歌の声で、起き抜けのクラス
に笑いが起こった。
そのあと、今週は土曜の授業がないので一週間最後の
ホームルームで締め括られ、解散となった。
文化祭が近づいてきているので、クラスのところどころで
出店に向けた計画づくりや、小物づくりが始まっている
光景が見受けられる。
「仙龍は今日も稽古?」
「うん。まぁ休みなんてほとんどないよ。」
「大変だなあ。」
「今は部活が全てだからね。」
仙龍が苦笑しながら答える。
「ちょっと、そこのお二人さん。」
「……はい?」
これは珍しい。蓼久保が話しかけてきた。
「今文化祭の出店に関して、分担を始めたとこでね。」
「どうもそうらしいね。」
「僕も協力したいけど部活が……。」
「部活もあるだろうが、ゼロってわけにはいかないだろう。
僕だって弓道部があるし、他の人も大多数が部活と両立してるんだから。」
「ちょっ、お前……。」
公平性を重んじる蓼久保が確かに言いそうなことだが、
普段から疲れ切っている仙龍を知っている僕からしたら
少し不躾な物言いな気がして、一言突っ込もうとするが、
完全な正論を前にして、言い返す言葉が見つからず
二の句を継げなくなってしまう。
必死で取り繕う言葉を探していると、
「およ、どうしたの。何の話?」
いつのまに近付いてきていた涙川が参加してきた。
その隣には少し一歩引くように百山が控えている。
なんか手に巻尺持ってるけど。なんだあれ。
「いや、彼らと文化祭の準備の割り振りについて話しててね。荒幡君が部活を理由に少し消極的なんだ。」
「だからお前…!」
「ふーん……そうなんだ。じゃあ、朝凛くんは、荒幡君が
普段どのくらい部活してるのか知ってるの?」
話を聞いた涙川が少し目を細めてから、さも純粋な様
を気取るような表情で、蓼久保に問う。
「いや、それは……。」
「人によって、何に重きを置くかって。きっと、ずいぶん差があるんじゃないかな。そりゃもちろん、みんな部活があるかもだけどさ……あ、私は帰宅部だけどね?だから一個の定規で他の子の行動を評価しちゃうのは、お互いに良くないんじゃないかな?って、
……帰宅部の私が言えたことじゃないか……へへ…。」
「そう……か。それは確かに当たり前か。」
本当に、言っていることそのものはありきたりだ。
小学校の道徳で先生が教えるように。
でも彼女の声には、相手の気持ちに直接届くような、
ぬるりとした力強さがあった。
不思議とも言える涙川の語調に完全に呑まれ、
蓼久保が考え込むように一瞬俯き、そして仙龍に向き直る。
「荒幡君、すまなかった。さっきのは失礼な物言いだった。」
「いや、全然大丈夫だよ。むしろ手伝えない自分が悪いから。部活終わった後とかはできるだけ手伝うしさ。」
仙龍は本当に気にしていないようだ。
まぁこんなことで腹を立てるような子じゃないしな。
「いや本当に悪かった、それで、籠君と荒幡君に折り合って
聞きたいんだが、明日明後日の土日は学校に来られるかい?」
「……何で?」
「その、文化祭まで1ヶ月を切ったからね。本格的に準備を始めたいんだが、しっかりと作業できるのは土日だから、
明日明後日はできるだけ多くの人に来てもらって、今後の
分担とかを割り振って行動できるようにしたいんだ。」
「そ。だから私も明日は学校に来て纚世ちゃんのお手伝いするんだ〜。」
「手伝い?」
百山が主体で何かやるのか。もっと団体行動に消極的な印象だったが。
「纚世ちゃん服飾部で、衣装とかも作れるんだって。だから私とか杏来ちゃんとか何人かで手伝うの。ね。」
「あ、あの……はい……私が……衣装作るんですけど……
二人の…サイズを測らせていただければと……。」
「へ?」「え?」
僕と仙龍が同時に反応する。
「サイズって…?。」
「もちろん、店の衣装のだよ。あれ?聞いてなかった?
二人も接客、やるんだよ?」
「???」
「そ……っか…?…まあ、あの………がんばるます。」
どうしよう。混乱で仙龍こわれちゃった。
僕等は二人とも初対面の人とうまく会話できる自信がないので、きっと同じ緊張感を共有している。
「ん。わかった。じゃあ採寸は後で。」
それについて考えるのはあとにしよう。
「話が逸れてしまったけど、それで明日は?」
おっと忘れていた。
「悪いんだけど、明日明後日はちょっと実家に帰らないといけなくて。」
「実家?それは親の実家ということかい?」
「いや、普通に家に帰る。」
「え。あの、ちなみにどちらへ……。」
「湯檜曽。群馬の。」
「?……まぁ、それならしょうがないか……?…じゃあ、連絡事項は、LINEで送って置くようにするよ。」
「わかった。」
事情を知らない蓼久保と、ついでに百山も釈然としない
表情を浮かべている。
「それで、荒幡君は?」
「……。」
仙龍が気まずそうに目を泳がせる。
「……どうしたんだい。」
「いや、あの…ちょっと部活っていうか……練習試合っていうか……。」
「そりゃ無理だよね、ちなみに日曜は?」
今度は涙川が聞く。
「いや、どっちも一日…部活…です。」
「……。」
「……。」
「……。」
「そんなに忙しいのか。剣道部。」
「なんか……ごめんね。」
「いや全然、あ、もう自分稽古行かなきゃなんで。」
「あ、うん、いってらっしゃーい。頑張ってね。」
なぜか申し訳ない雰囲気になり、できるだけ仙龍に
仕事を課すのはやめてあげようと、蓼久保が決心した
文化祭まで約一ヶ月のある日だった。
微妙なとこで終わってすみません。
明日も投稿できると思います。、