12話
「……。」
驚きで僕が絶句していると、
「驚かせちゃった?ごめんね。」
「いや……。」
そりゃ驚くわ。
そもそも人生で女子から話しかけられることさえ
ほとんどなかったのに、ここのところは、
この白い少女に幾度も囁かれるのだから、
堪ったものじゃない。免疫不全だ。
「ね、いつもここには早くから来てるの?」
「まぁ、美術の時はね。」
「作業か何かしてるのかな。」
「ん。いや、何となく、人が少ない時間帯で静かなのが
好きで……。」
言葉を発するほどしどろもどろになってしまう。
一人で静かにいるのが好きだなんて他人に言ってたら、
ちょっと僕が青臭いみたいじゃないか。
「ふーん……。そう言えばさ、美術は今日から卒業制作だって言ってたよね、夏休み中にテーマ考えてこいって。」
あれ?話逸らされた?
「うん。そうだよ。な、涙川さん…は何か決めたの?」
そういえば夏休みが明けてから直接涙川を呼んでいないことに気づき、少し詰まってしまう。
「私、はね…んー、まだ、ちょっと決まってない…かな。」
今度は涙川の方がへどもどしている。
「夏草君は?」
逃げるように話題を切り替えられる。
「僕は一応決まってる。」
「何描くの?」
「……鯨。」
「くじら?」
「海の中で……陽光が届くか届かないかの…多分水深150m
くらいで悠々と泳いで、それで…それで僕を見つめてる。
そんな絵を描きたい。」
「……どうしてその絵を描きたいと思ったの?」
そう尋ねる涙川の声と顔は、何だか優しさを纏っていた。
てっきり僕は、心の底から滲み出た僕の世界を聞いて、
茶化されたり、理解されずに会話が終わるものかと思っていたが、意外にも涙川はただ、静かにそう尋ねただけだった。
「少し不快な自分語りを挟むけど、それでも聞きたい?」
「うん、聞きたい。」
そう素直に即答されて、僕の心の鉄条網の隙間から、
いつになく言葉がすらすらと、抜けていってしまった。
「小さい頃から、あんまり人と話す方じゃなくて…。」
「うん。」
「もちろん、その時は人が嫌いとかじゃなくて、むしろみんなと仲良くしたかったんだけど、何だか、馴染めなくて。」
「うん。」
「僕が輪の中にいなくても、世界は成立していて。きっとこの先、僕がいてもいなくても……誰かが心の中に僕を思い浮かべることは………ないんだろうな。そう思って、気づいたら僕は……僕の世界に独りで座り込んでた。」
「そっか…。……じゃあ、寂しかったんだね。」
(……まずい。)
喋りすぎだ。また独りよがりだ。
また、距離感を間違えて嫌われてしまう。
でも、涙川の聞き上手なのか、言葉が。思考が止まらない。
止まって、くれない。
「寂しかったっていうのはきっと、僕には少し傲慢な感想なんだよ。僕はいじめられたわけじゃ……ないから。
僕が面倒になって…勝手に諦めてるだけで。ちょっとだけ、ほんの少しだけ生きるのが下手だっただけなんだと思う。」
「…そっか。じゃあ、なんでくじらなの?」
「それは…さっき僕の世界に独りって言った……よね。」
「うん。」
「だから、僕の中で、僕のそばにいたのは、他の誰かというより……例えば、踏まれてから立ち直る雑草や…家々の塀に隠れた花や、帰り道に出会う猫とか…だったんだ。」
「ふふっ、メルヘンみたいだね。」
「それで、誰も見たことがない絶界の神秘に、想像を膨らませるのが好きだった。」
「ふーん…例えば?」
「たとえば…星が見えたら、どれくらい遠くにあるんだろう、とか。今見えてる光が過去のものなら、今宇宙はどんな姿をしているんだろう、とか。あとは……海の中。ザトウクジラになって、こもった音と、冷たい水の世界を泳ぐ。そんな想像をよくしてた。」
「じゃあ、その絵のくじらは、夏草君なの?」
「ううん。僕じゃ、ない。鯨は鯨だよ。僕は、鯨の世界に憧れてるだけの、人間。呪われたいのちの一つに過ぎない、ただの人間。それでも、どうしても綺麗なものが見たくて海に潜って、苦しくて、苦しくて。そして死の間際に一瞬だけ目に映る、触れることのない鯨の姿。それが、僕の絵のテーマ。」
キーンコーンカーンコーン………
言い終わった時、ちょうど予鈴のチャイムが鳴り響いた。
これからぼちぼち生徒が集まってきて、ようやく授業が始まる。
(ああ……結局、言い切ってしまったな。)
やってしまった。折角話を聞いてくれて、僕にも関わろうとしてくれたのに。僕だったら他人のこんな話は半分も聞いていられない。
嫌だ。話しててこんなに安らいでいられたのは、
仙龍以来だったのに。
嫌だ。また人が離れていく。
言葉を終える少し前から僕は俯いていて、
暫しの沈黙を保っている涙川の顔を見ていなかった。
今、彼女はどんな顔をしているんだろう。
怖い。僕の、最も恐れる人間の表情が脳裏に過る。
“無関心。”
物心がついてから、幾度も目にしたあの表情。
特に異性だからか、女子に印象強いあの表情は、若干
トラウマになっている。あの顔を見たら、それで終わり。
そのあとは自然に、話しかけられることもなくなっていく。
僕はゆっくりと顔を上げる。そして恐る恐る、まるで赦しを請う子供の様に、涙川の顔を覗く。
そこには、怯えと恥で消え入りそうな僕の心に、
そっと触れる様な、優しい微笑みが待ち構えていた。
「やっと、こっちみた。」
「え…。」
「夏草君。途中から俯いちゃって、目を合わせてくれないんだもん。お腹でも痛いのかと思った。」
「あ……。ごめん。」
「ううん。大丈夫だよ。それより、夏草君の話、面白かった。また聞かせて。」
「あの……。」
「ん?」
「…嫌じゃ、なかった?」
意外な質問だったのか、少しきょとん、としてから
ふっと笑って、
「…うん。嫌じゃ、なかったよ。」
「となりちゃーん。卒業制作用のキャンバス先生が全員下に取りに来いだってー!」
「わかったー。じゃ、また後でね。」
涙川が人差し指で僕の肩を一つ突いて、美術教室を出て行った。
僕は、他人こんな受け入れ方をされたのが初めてだった。
混乱と同時に、いつも冷め切ってどす黒い腹の底から、
何かあついものが伝わってきて、胸までいっぱいになる様だった。
(少し苦しい。でも……暖かい。)
知らない温もりが僕を支配してゆく。
さっきの彼女の微笑みが、何度も頭の中で繰り返される。
僕は多分、まだこの気持ちの名前を知らない。
もしかしたら。
涙川が教えてくれるのかも知れない。
いつか彼女が”友達”になるのかも知れない。
だけどそこにはまだ、僕と、あの子の、
高いこころのかべが、ある。
夏草物心つくの早過ぎ定期