9. 湖辺での歓迎
活動停止。怪物は繊維を胴体に折り畳み、ひくひくと引き攣る。萎びた蜘蛛のような有様だった。
(本当に死んでいるのかな)
恐る恐る一歩踏み出すと、突然、足元がゆるむ感触が伝わった。ぬかるみはどんどん広がり、砂の中から純粋な水が染み出し、やがて噴き上がった。噴水が広がり、四面は水に覆われる。
「海が戻ってくるぞ、水だあ! ははは」
ミイラ化した魚が蘇生する。空を見上げれば、急激な水分の増加に耐えられなかった雲から、雨が降り出す。
クセソーティアソは空を仰ぎ、乾いた身体が雨に打たれる感覚を堪能する。水分はどんどんと増え、やがて砂漠は蒼然たる海となる。
「すごい!」
無邪気に叫びをあげながら、少年は波にさらわれる。渦巻く水が元々の水位まで戻ると、凪のように軽くたゆたう。命の喜びが文字通り全身に染み渡る。
思う存分水を堪能し周りを観察すると、少し遠いが、四面に陸が見えた。これは海ではなく、湖だったのだ。
「とりあえず状況を把握しなくちゃいけないよな。陸まで泳ごうか」
考えてみればイグナイト東京のど真ん中から、水の概念が存在しない世界の砂漠までテレポートし、何の情報もない。地球の現状はどうなっただろうか。間違いなく、あの怪物の襲来は世界中へ緊急放送されただろう。陸に上がれば関係者が待ち受けているに違いない。
「そういえば、新・新電気街で出会ったあの変わった女性は無事かな……。まあ彼女はしぶとそうだったから大丈夫だろ」
クセソーティアソはゆったりと泳ぎはじめた。あれほどの戦闘の後でも体は不思議と軽い。鎧も重みを感じないばかりか、水を完全に防いでくれている。
(あれ、あの石はどこに行っちゃったのかな)
その呼びかけが聞こえたかのように、オンソロージーSは頭をかすめ、何かを落下させた。
「あれ、あの電球だ!」
頭上を穏やかにふわふわと漂うと、そのまま首にするりと収まった。左右から光の鎖が生成され、ネックレスのように後ろで繋がる。
「はは、これでもう手で持ち運ばなくてすむんだな」
と微笑むと、思う存分両手で交互に水をかく。しかし、遠くに見える陸はさっぱり近づかない。休憩を取りながらもアブレイズクロックの力を借りたい気持ちが湧いてくる。ただ、どれだけ世界政府に供給された光源ストレージだとしても光は有限だ。
「……この電球ってそのまま光源になってたりしないかな」
思いつくままに少年は手で電球を持つと、鎖が消える。アブレイズクロックに近づけると、ランプが光り、たしかに光源の移動ができている。
「すごい、光源で体力や身体能力を向上させれば、陸までなんてすぐだ! それに鎧も水が染みないし、全然重くないや」
残りの十kmも楽々と泳ぎ切り、無事着陸することができた。泳ぎに集中していたため気づかなかったが、湖辺には人々が集まっていた。口々に歓声と拍手が上がる。SUBの制服を着た隊員が駆け寄り、敬礼と共に分厚いタオルを渡してくれた。そして、
「変身できるんだね、元ライターズ候補。ちょっとムカつくけど、すごいよ!」
突然、聞き覚えのある甲高い声がした。振り返らなくても、秋葉原の謎の女が、笑顔で拍手して立っているのが分かった。
「あなたも、無事で何より」 と社交辞令を返す。
「自己紹介が遅れてごめんね、クセソー君」
「そんな風に呼んでいいって言ったっけ?」
醒めた顔で応えるが、
「ははは、かわいい子にあだ名で呼ばれて嬉しくない男子がいるわけないでしょ」
とまったく響いていない。
「とにかく、私は補佐兼SUB軍のスペシャルアドバイザー、水森友子です! 今日から起床から就寝までスケジュール管理をさせてもらいます。これからはビシバシ指導するから、今までのようなやんちゃはお仕置きだよ」
彼女は耳に唇を寄せ「ちなみに友ちゃんでもいいよ」と、いたずらっぽく小声で付け加えた。ふふふと意味ありげに微笑む。
少年は正しい返答を選ぶのに、今までこんなに悩んだことはない。絶句したその時、落ち着いた声が彼に救いの手を差し伸べた。
「クセソーティアソ君、お疲れ様です」
水森補佐の後ろから、凛々しい女性が現れる。
二十代前半だろうか。瑞々しく艶を帯びた肌からして、遺伝子が組み換えられている。宝石のように輝く金のくせ毛は二つに結ばれ、眼鏡の奥で輝くディープピーグリーンとウッドブラウンの瞳は鋭い瞳は、見るからにインテリといった風情だ。すらりとした長身を包むボディスーツは特殊装備で、光源を吸収し体温を調整できるものだ。見るからに重役といった風情で、隣には同じような威厳のある男性がいる。
「今日はあなたがライターズ第一号として輝いた記念すべき日です。きっと質問は山ほどあるでしょうが、もう少し辛抱してね。初めまして、私はSUB幕僚長クォーツリナ石英です。クォーツリナと呼んでください。隣はLDC隊長アダマンティヌース金剛」
LDCは世界政府とSUBに反抗する組織であったはずだが、彼女はまるで仲間のように紹介している。訝しげなクセソーティアソの表情から察したのか、クォーツリナは苦笑を浮かべた。
「ええ、LDCは確かに世界政府とSUBに反旗を翻す組織でしたが、今は共通の目的で協力しています」
横のアダマンティヌースは直立不動していた。アスリートのような逞しい身体は、野性味ある沢山のシルバーアクセサリーで飾られていた。ディープ・ブルーの短髪にオレンジ色が混ざり、彼の凛々しい外見を際立たせている。頑張って社交性を絞り出しているような、不器用そうな微笑みが向けられた。
「クセソーティアソ君、今日は人類が君の勇気ある行動に救われました。今後は共に戦いましょう。アダマンティヌースと呼んでくれ」
クセソーティアソはこれ以上疑問を我慢することはできなかった。
「あの、今の地球の状況を教えてください! 湖に現れた生き物は光を奪った犯人ですか?ここはどこですか?」
クォーツリナは「そうね。気になることを説明した後、もっと安全な場所でゆっくり話しましょう。ここは寒くて危険です。アダマンティヌースと水森補佐が同行します」 と提案した。