53.異なる変貌
光の化身となったライターズは、概念の侵食に抗うように、憎しみの固定領域を形成する。その信念は波紋のように広がり、繊維獣の巨大な機械体を飲み込んでいった。
赤子が泣き叫ぶような金属音。
繊維獣の金属の体がきしみ、表面がどろどろに黒く溶け始める。
ゴゴゴ……ゴーン……
繊維獣がゆっくりと傾き、轟音とともに道頓堀の川へと崩れ落ちた。激しく水しぶきが上がり、その衝撃波が街を揺らす。だが、すぐに静寂が訪れた。
そして、エデンの園は枯れ果てていく。
楽園のように生い茂っていた緑は次第に色を失い、木々がしおれ、花々が灰のように崩れ落ちる。道頓堀川の水面には泡が立ち上り、街全体が元の姿を取り戻し始める。瓦礫が転がる光景すら、奇妙なほど安堵を誘うものだった。
やがて、グラウンド・メタの影響は完全に消え去り、戦場には勝利の歓声が響き渡った。
「本当に終わったのかな……? 繊維獣の死体は見当たらないけど……」
スフェアリーが慎重な声で呟く。
「いつものことさ。奴らの死体が消えるのは初めてじゃない。あとは世界政府が回収するだろう」
ソーラルはアブレイズクロックの画面を操作しながら、冷静に答える。
「俺の解析じゃ詳細はわからないけど、暗黒物質はゼロ。不可測定の値になってる」
「その通りです!」
通信が入り、クォーツリナの顔がホログラムに映る。
「ライターズ、お疲れ様でした。今回のミッションも見事にクリアですね。ライトノレゾナンスの扱いもずいぶん慣れてきたみたいです。ソーラルくんの言う通り、暗黒物質と暗黒エネルギーの測定値は閾値以下。これは、繊維獣の完全消滅を示す重要な兆候よ」
スフェアリーは手をかざし、パルテノナ・フォスの周囲に漂う光の粒を眺める。
「あれ……? いつもより光が密集してる」
「そうだ!」
ラックーサが目を輝かせる。
「繊維獣が近くにいると、光の流れが変化することがある。羅針盤みたいにね。この現象は『レムナントの導き』って呼ばれてるの。繊維獣が侵食した概念が修復されるとき、光の粒が特定の方向へ引かれるのよ」
「なるほど。つまり、奴らが消滅すると、その残滓は光を求めるってことか……」
ソーラルは腕を組み、静かに考え込んだ。
すると、突如として新たなホログラムが映し出される。
「興味深いでしょう? また詳しく話しましょう。ひとまず、お疲れ様です。私たちもすぐにそちらへ向かいます」
クォーツリナが通信を切ると、戦場には不気味な静けさが戻った。まだ避難指示が解除されていないため、街には人の気配がない。
「……光宮小野寐に帰ろう」
クセソーティアソが呟いた。
「そうだな。俺たちの翼は、あいつらの力を借りなきゃないんだっけな」
ソーラルが空を仰ぎ、空中を巡回するナノマシンをエンジン剣で指し示しながら苦笑する。
オンソロージーの群れが大阪中央区の空を旋回し、瞬時移動を繰り返したかと思うと、突如として高度を上げていく。数秒後、快適な音速で飛行する金属のカプセルが視界に再び入った。
「あれは……カプサね。誰かを運んでるみたい」
ラックーサが目を細める。
カプセルの扉が開き、SUB幕僚長クォーツリナ、LDC隊長アダマンティヌース、そして水森が続々と降り立った。
「カプサだと本当にすぐだな!」
おどけたソーラルに、皆が和やかに笑った。
「皆、疲れているだろう。これから私たちは戦後調査に入る。乗って、光宮小野寐ステーションへ戻ろう」
アダマンティヌースは黒いトレンチコートを肩にかけ、筋肉質の腕を組んで言う。
「改めて、素晴らしい勝利でした。この戦いは、ライターズの絆の勝利よ。人間の憎しみが、時に力になることもあるのね」
その隣で、クォーツリナが優しく微笑んだ。
「己を知り、他者を助ける。その教えを、私たちは体現したのかもしれません」
彼女は地面に視線を落とし、ふと眉をひそめた。
「……ところで、この砂利、普通じゃないわね」
クォーツリナはしゃがみこみ、注意深く地面を指でなぞる。
「粒同士が融合しようとしている……? レムナントの導き、つまり概念侵食は場所によっては残存する改変概念を生じさせることがあります。もしかして……再発する可能性があるかもしれません」
「ってことは……また生き返る可能性があるってことですか?」
不安そうに辺りを見渡すスフェアリーを押し除けて、ソーラルが身を乗り出した。
「あの、繊維獣の死体って、いつもどこへ行くんですか?」
「……それは――」
クォーツリナが少し顔をしかめながら答えようとした、その刹那だった。
遠くから響く、嗚咽。
戦場に漂う静寂を引き裂くように、震える声が耳を刺した。
ただの泣き声ではない。誰もが知る、聞き馴染みのある声――。
ライターズは顔を見合わせる。胸の奥に冷たいものが落ちるような嫌な予感を覚えながら、慎重に音のする方へと足を向けた。
水森が、道頓堀の川の前で立ち尽くしていた。
伏せた顔から感情の欠片すら読み取れない。まるで、魂が抜け落ちてしまったかのように、ただそこに立ち尽くしていた。隣にはラックーサがいる。
「どうしました、水森補佐! ....繊維獣ですか !?」
クセソーティアソが鋭く呼びかけ、パルテノナ・フォスを構える。警戒を強め、次の瞬間に備えようとした――その時だった。
異変を認識した。
ラックーサの腕。
水森の指が、まるで鉤爪のように変形し、その手首を折れんばかりの力で捉えていた。
「……ッ!?」
彼女の瞳は恐怖に染まり、体は震えている。変身は解け、無防備な子供の姿のまま、ただ息を詰まらせていた。
「何だ……何が起きてる……?」
ネオンライトの戦士たちは、足元が揺らぐような不安に襲われる。それを振り払おうと、一歩前に踏み出そうとした、その瞬間――。
「動くな」
落雷のように響く、金属を引きずるような異質な声。
水森が顔を上げた。
そこにあったのは――人間の瞳ではなかった。
その目には、純粋な憎しみと、抑えきれぬ嫌悪の炎が、ぎらぎらと燃え盛っていた。
「……この人は誰だ?」
クセソーティアソは、自分の目の前にいる"水森"を理解できなかった。
普段の、あの不器用で子供っぽく、母性溢れる彼女とは、まるで別人だった。ライターズの戦士たちは、全身を駆け抜ける悪寒に思わず一歩後ずさる。
「動くな」
再び鋭く低い声が響く。
「人類ども……一ミリでもその汚らわしい肉体を動かせば、ここは虐殺の現場になる。この人間の血を見たくないなら、大人しく従え」
水森――否、その怪物は、鋭い鉤爪のような指でラックーサを乱暴に引き倒した。ラックーサは顔を歪めながらも、信じたくないように目を瞠っている。
「憎しみの侵食は解除されたはず……ねえ、何が起こっているの……まさか、概念の修繕の反動……?」
スフェアリーの声は震えていた。 クセソーティアソは、剣を握りしめながら一歩踏み出す。
「み、水森補佐、何が起きているのかは分かりませんが、まずは話しましょう。あなたにはきっと、そうする理由があるはずです。俺たちは敵じゃない。できることなら、何だってします……」
しかし、その言葉は届かなかった。 水森は狂気に満ちた笑みを浮かべると、ゆっくりと目を見開いた。
「はは……笑止千万だ」
その声音は、静かな怒りに震えている。
「できることだと? 貴様らは何もわかっていない。繊維獣にコントロールされている……? 違う、違うんだよ……! お前たち人類は、私のすべてを奪った。偽善、偽善、偽善!!」
彼女の声が次第に荒くなる。
「父は殺され、私は貴様らの下劣な体に化けるために五〇年の拷問を受けた。愛する人も、目の前で惨たらしく殺された……! それでも、お前たちは"正義"を語るのか? 皮肉にも程がある……!! ウバ様の計画なんて、もうどうでもいい……だが、貴様らが犯した罪の対価は、ここで払ってもらう!」
水森――いや、アマンティーの絶望の底から這い出るような叫びが、道頓堀の水面を震わせた。
「……ッ!」
ラックーサの小さな体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
「ち、違う、違う! 水森補佐は、そんなことをする人じゃない! 彼女は優しくて、不器用で……いつも俺たちを応援してくれていたんだ! だから、こんなの……嘘だろ……!」
クセソーティアソは必死に叫ぶ。そうであってほしいと乞い願うような悲鳴だった。 しかし――。
「私は水森友子じゃない」
アマンティーは、冷たく言い放った。
「それは、お前たちの社会に潜入するための、ただのくだらない偽名だ」
彼女は再び川を見つめる。その瞳には、深い悲しみが宿っていた。
「……貴様らの偽善のために、彼は犠牲になった。憎しみが大切だ? 笑わせるな……!」
言葉を発するたびに、彼女の体に異変が生じる。 皮膚が灰色に染まり、体が金属の光沢を帯びていく。
「人類は、己と肌の色の近い同族だけを偽りの優しさで守る……その裏で、他の生命を踏みにじり、文明を進化させてきた。この惑星の悲鳴は、お前たちの傲慢でかき消されているのだ!!」
彼女は怒りに震え、全身から怒気が噴き出すように叫んだ。その体はついに人間味を失い始め、額からは金属のスパイクが突き出し、指は伸縮性のあるワイヤーに変わっていく。
「見ろ……! 貴様らの足元で無数の虫が踏み潰され、命を散らしている! 彼らには生きる価値がないのか? 小さいから? 弱いから? ならば、私たちがお前たちを駆逐しても構わないな……!はっ....はははっ.....!!」
狂気に満ちた笑い声が響く。 次の瞬間――彼女の身体が変貌を遂げた。
「ッ……!?」
量子基盤変換術の効果を無効にした体内から、星のエネルギーが奔流のように解き放たれ、身体はぐじゅぐじゅと膨張する。引き裂かれた皮膚の下から星雲や水素、渦巻銀河、液体金属が漏れ出す。 引き裂かれた皮膚の下から星雲や水素、渦巻銀河、液体金属が漏れ出す。新たに生まれた表皮には金属元素の鱗が透き通り、胴体にはスフェアのエンジンが脈動する。
半機械化したその姿には不気味な繊維が蠢き、手足は鋭利なワイヤーへと進化し、クラゲのようにバランスを保っている。
新たに生まれたその姿は、もはや"水森友子"ではなかった。
「……完全に、繊維獣になった……!」
クセソーティアソが息を呑む。
いまや彼女の身長は一〇〇メートルを超える高さに達し、その圧倒的なエネルギーが乱流を生み、瓦礫を吹き飛ばしていく。
「離れろ!」
クォーツリナとアダマンティヌースが、ソーラルとスフェアリーを引き上げ、距離を取る。しかし――。
「ラックーサ!!」
クセソーティアソの叫びが響く。
最もアマンティーに近かったラックーサだけが、救済の術もなく視界から滑り落ちていった。
(畜生……! 絶対にラックーサを置いていかない……耐えてくれ!)
クセソーティアソの胸が張り裂けそうになる。しかし、今は感情を処理している場合ではない。生き延びなければ、すべてが終わる。
そして、繊維獣と化したアマンティーが、鼓膜を引き裂くような咆哮を上げた。




