52.似非の楽園はいらない
「皆、危ない! 手裏剣、Lupus、反射心累光!」
ラックーサの叫びとともに、宙を舞う手裏剣が繊維獣の放った黒い光線を弾き返す。反射した光が夜の空へと霧散し、爆発の衝撃が空気を震わせた。
「きゃあああ! 痛い、何これ!? 引き寄せられる!」
「ラックーサちゃん、離れて! 危ない!」
スフェアリーが手を伸ばすが、二人の身体は鉄と磁石のように吸い寄せられ、激しくぶつかり合った。
「な、なにこれ!? 自力で離れられない……!」
強烈な引力が働き、互いの体の重みで押し潰されそうになる。息が詰まるほどの圧力が二人を襲い、もがけばもがくほど絡みつく不可視の力が増していく。
「おい、どうなってんだ!」
ソーラルが駆け寄りながら剣を構えた。「紫外線の型、陽子風爆破!」 彼が放った光線が繊維獣を直撃する。だが――
「……っ!? 何だ、こいつ……」
異変が起こっていた。
道頓堀川の水面に緑の苔が広がり、半壊した料理店やモールの残骸からは樹々が芽吹き、枝を伸ばしている。湿った地面には鮮やかな花々が次々と咲き誇り、割れたアスファルトは芝生に覆われていく。小鳥がさえずり、リスやネズミが駆け回る。街が、生命に呑み込まれていく――まるで、都市が一瞬にして原始の森へと還るかのように。
「この茂み……防御策として説明できるの? もしかして、森を作ってる? 何これ……」
ラックーサ達は複雑に絡み合ったまま、蠢く虫たちに怖じ気づき、後ずさる。
「ライターズ、魅了されないように気をつけて! 少し離れた方が安全かもしれません。概念侵食フィールドが指数関数的に成長していま――」
そこで、ぷつりとクォーツリナの声が途切れた。 通信が遮断されたのだ。
確かに、楽園の形成スピードは急激に加速している。気づけば、道頓堀全体が鬱蒼とした森林に変わりつつあった。青々と茂る草木の間に差し込む光は優しく、どこか心を落ち着かせる。それどころか――四人は、抗うことすら忘れていた。
「満足」という静的な感情に包まれ、特に行動を起こさなくても「大丈夫」という思考が心に浸透している。助け合い、抗う意欲も、協力して任務を遂行する意欲も感じられない。
いまこの瞬間、ここにある自然の美しさだけを感じて、花の香りをかいだり、川で水浴びをしたり、そんな刹那的な喜びに満たされはじめていた。
戦わなくてもいい。ただ、ここにいればいい。何もせず、ただ、この穏やかな時間に身を委ねていれば――
「……これで、いいんじゃない?」
思考が、緩やかに溶けていく。
(なぜ戦わなければいけないの? なぜ、足りないものを無理に埋めようとしなければならないの?)
(なぜ、届かない未来を追い求めるの? 疲れるだけなのに……必要なんてない。今、この瞬間を、太陽の温もりとともに楽しめばいい)
(ただ、横になって眠ればいい……芝生は柔らかく、小鳥のさえずりは心地いい……ずっと、ずっと眠っていたい……)
「だけど……苦しみや憎しみがなければ、発見も成長もないんじゃないか?」
どこかで、声が聞こえた。
(違う……そんなものは、いらない……)
(ううん。でも、拒絶や欠如があるからこそ、達成感がある……)
(……それでも、疲れる。だったら、眠ればいい……)
クセソーティアソは夢うつつで、しかし自分自身と戦っていた。
(いや、違う!)
胸の奥で、何かが弾ける。 目を覚ませ――これは、偽りの楽園だ。
仲間を守らなければならない。この「偽楽園」から逃れる手段を見つけなければ。
「包まれし闇、漆の霧、心の惑いを包み込み、仲間を守る壁を築け。我が光を以て命じる、紐繕玲光!」
クセソーティアソの詠唱とともに、三人の仲間を包む光の玉が生まれた。眩い輝きが急速に広がり、スフェアに覆われた範囲では、楽園が死滅していく。
鮮やかな植物は枯れ、鳥は羽ばたく間もなく朽ち果て、地面を駆けていた小動物たちも白骨と化す。
「あ……私……どうしていたの?」
「皆、見て! 楽園が縮んでる! 繊維獣も、弱ってるみたい!」
先ほどまであんなにも魅力的だったはずの世界が、まるで幻だったかのように消えていくのを見て、スフェアリーは息を呑んだ。
――やはり、これは"偽り"だったのだ。
それなのに、なぜだろう。喉の奥がひりつくように苦しい。
「私は……」
自分でも気づかぬうちに、口をついて出た言葉。
「私は……自己中心的だった。他人を思い通りに操ることしか考えてなかった」
戎橋に生まれた未開拓の森が、激しく撹乱される。枝がボキリと折れ、川の魚が次々と浮かび上がる。生命の楽園が崩壊し、新たに生まれた生態系が消え去っていく。
楽園の残滓が、風に流されて消えていく。
それはまるで、彼女が今まで築いてきた"偽りの世界"のようだった。
「間違った方法で、心の虚しさを満たそうとしていたわ」
楽園は、まるで過去の自分そのものだ。
綺麗で、完璧で、理想的なはずなのに、どこか空っぽで、脆くて、長くは続かない。――でも。
「でも――みんなは、そんな私に『本当の受け入れ方』を教えてくれた」
初めは、戸惑いだった。仲間と共に戦うことが、なぜこんなにも不確かで、不安で、苦しいのか分からなかった。どうして彼らは、自分の思い通りにならないのに、こんなにも温かいのか――。
でも、今は分かる。
人は一人では生きられない。誰かを思いやり、支え合うことで、本当の意味で"自分"を受け入れられる。
それを、彼らが教えてくれた。
「だから、もう偽りの楽園には戻らない」
スフェアリーの瞳には、今までにない強い光が宿っていた。寄り添うラックーサも、ふっと息をついた。
過去の自分を振り返るように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「コントロールしたい気持ちにコントロールされてしまった私も、よくわかるわ」
自分の手の届く範囲で、すべてを支配しなければ気が済まなかった。計画通りでないと不安になり、思い通りに動かないものを恐れた。でも――
「完璧でしか動けない、私も心の囚人だったのよ」
支配するつもりが、支配されていた。理想に縛られ、自由を失い、不安の中で生きてきた。
「……でもやはり、完璧って綺麗な幻にすぎない……」
淡く笑う。理想を求めること自体は悪くない。けれど、そこに執着していては、何も掴めない。
仲間たちを見れば、それがよくわかる。 不完全だからこそ、彼らと過ごす時間は輝いていた。
「うん、そうだよな」
ソーラルが剣を握りしめながら、繊維獣を見据える。
「それに憎しみだって、人間に必要な感情だ。愛や友情と同じように、俺たちを前に進ませる原動力なんだよ!」
彼は大きく息を吸い込むと、ニヤリと笑った。
「楽園? 目障りだな。そんなもんで俺たちは満足しねぇよ」
繊維獣の体が震えた。ジャングルのように生い茂っていた道頓堀の森までも、ついに崩壊を始める。
「さあ、終わらせようぜ。俺たちの――この偽りの楽園との決着を!」