28.信濃国の善光寺
文章の流れを整理し、よりスムーズにしました。
どれほど強靭な脚力を持っていようとも、無限に走り続けることはできない。
疲労困憊のソーラルは、ついに倒木に躓き、地面に転がった。
背後では、繊維獣本体と猛攻を続ける動物たちが迫ってくる。逃げ場を失い、絶望がソーラルの全身を包み込んだ。
「このままじゃ逃げ切れねえ……どうすれば……!」
力なく腕が落ちる。その拍子に、オンソロージーSがごろりと地面に転がった。
――その瞬間、突如として燐光が灯る。
オンソロージーが震え始めた。まるで意思を持つかのように、立体パズルのように変形し始める。パーツが次々と組み合わさり、見る間に巨大化していく。
そして――それは、いつの間にか空飛ぶ船の形を象っていた。
「……へ? これってワゴンライト? いや違うかな、こんな小さなエンジンは俺が知っている熱力学の範疇外だ……」
驚きのあまり、工学専門の少年の瞳が輝く。が、今はそんな場合ではない。
ソーラルは残りの力を振り絞り、頭上に浮かぶ船のドアへ飛びついた。転がり込むや否や、エンジンが轟音とともに爆ぜ、船は弾丸のように飛び立つ。
逆風が刃のように襲いかかる。鋭い気流が皮膚を裂き、小さな切り傷をいくつも刻む。
どこへ向かうのか、まったく分からない。
逃げ延びた安堵に浸る間もなく、突然、船が急ブレーキをかけた。
勢いよく仰向けに倒れたソーラルは、透明な天蓋越しに空を見上げる。
そこには、電磁波がぶつかり合うような、明確な隔たりの線が肉眼で視認でき、ここが残りの世界と隔離されていることが理解できた。――グラウンド・メタ。
つまり、概念の侵食を止めない限り、このエリアを離れることはできないのだ。
「……戦うしかないか」
アブレイズクロックの位置情報によれば、ここは元長野市、善光寺境内。およそ140kmも移動していた。
なぜ船はここに導いたのか――答えは分からないが、確実に侵食された概念と関係しているはずだ。
カプサ合金の庇から飛び降りた瞬間、追ってきた繊維獣が寺へと雪崩れ込んできた。
黒い光線が雨のように降り注ぎ、植栽が焦土と化す。
一刻も早く、侵食された概念の正体を突き止めなければならない。
だが、それだけでは終わらなかった。
繊維獣だけでなく、森の動物たちまで追ってきていた。
以前なら調教できたはずの熊、猿、コヨーテたち。だが今は繊維獣に操られているのか、憑依されたように暴れ回り、敵味方関係なく襲いかかっている。
「……もう、わけがわかんねえ!」
攻撃されている概念も分からず、この重い石が足を引っ張るばかり。
ナノマシンがピーピーと音を立て、本堂の中へ促す。
半壊した堂内に足を踏み入れる。白檀と線香の香りがわずかに残り、黴や腐った欅や檜の匂いと混ざり合い、時の流れと神秘さを感じさせる。
思わず手を合わせようとした、その瞬間だった。
――地鳴り。
素足に、木材の軋みが伝わる。
どがしゃあ!と天井が割れ、金の灯籠を弾き飛ばしながら、黒い繊維が侵入してきた。
「ぶ、ぶったまげた……!」
盲目の深海魚のように、繊維獣が触手を伸ばし、内部を探る。
ソーラルはナノマシンに導かれ、内陣へと駆け込んだ。
一般人にとっては神の領域を犯す冒涜だ。だが、躊躇している余裕はない。
「……お邪魔します」
一応、敬意だけは払った。
そこに鎮座するのは、日本最古の仏像とされる一光三尊阿弥陀如来。
金色の仏像は、高さ40cm。
しかし、無数の錆が刻まれ、原型すら危うい。
――ビービーッ!
ナノマシンがやかましく警告音を鳴らしながら、仏像を指し示す。
「……何かあるのか?」
疑問を抱きながら、隣にある解説図に目を走らせる。
「阿弥陀・観音・勢至の三尊が、一面の舟形光背を背負う三体の形式……」
三尊は中央の阿弥陀如来(45cm)、両脇の観音・勢至(30cm)という配置。
「なるほど……けど、これが何のヒントになるってんだ?」
歴史の勉強にはなるが、今の状況を打破する情報は何一つない。
苛立ちを覚え、オンソロージーに視線を投げる。
その時――
「……あれ?」
少年は、目尻で捉えた"矛盾"に気づいた。
掲示されている写真と、実際の配置が違う。
本来なら、中央に大きな仏像、左右に小さな仏像が並ぶはず。だが、今はすべて同じ高さに揃っている――。
「……単に置き方を変えたのか?」
考察する暇もなく、ドォン!という轟音とともに柱が吹き飛び、繊維獣の頭部が内陣へ侵入する。
蟻の複眼じみた眼球がぎょろぎょろと動き、虚無へ誘う漆黒の光沢が不気味に輝く。
めり……と更に頭部をねじ込むと、天井が揺れ、瓦礫がバラバラと崩れ落ちる。
「袋小路だ……嵌められた!」
ソーラルは焦りながらも、オンソロージーに導かれ、内陣と外陣の境目へと戻る。
ナノマシンが何かを伝えようと、細かく上下に飛び回る。
「……何だ?」
足元に視線を落としたその瞬間、段差の存在に気づいた。
そこには、「お戒壇めぐり」と書かれた地下通路の入り口があった。
(ここを抜ければ、本堂の外へ出られる……!)
だが、光源がない。背負ったリュックを探るが、鉱石はすべて使い切っていた。
真っ暗な空間を、灯りもなく進まなければならない。
背後の爆発音はいよいよ差し迫ってくる。もはや、前に進むしか道はなかった。