18.逆説の世界
窄むような鳴き声をあげながら繊維獣のフィラメントは脱力すると、空中を泳ぎ、そのまま墜落する。低空に浮遊した怪物はごうごう地鳴りを轟かせながら、新・新電気街中央通りの地面に落下する。
黒いブラックホールに隠されていた後体部もずるりと地面に滑り落ちた。ぽっかりと空いたブラックホールは霧とともに蒸散し始める。
改めて見てもどれほど巨大な生き物なのだろうか。
光沢ある金属の鱗は肉眼で判別できないほど細かくびっしりと表面を覆い、瀕死の動物のようにピクピクと痙攣する様も無機物とは思えず、気味が悪い。
そんな怪物の様子を見て、SUB部隊の兵士達は驚喜の歓声を上げる。クセソーティアソも空中に浮かぶラックーサを、喜色満面で見上げた。
(伝えなくちゃ、どれほど君が凄かったかって!)
ほんの僅か前、出会った瞬間の震えが止まらない繊細な少女は全くの別人のようだった。
外見の成長は心の成長をも表している。今のラックーサの面持ちには己の限界、己の能力を探求し、現実と紐づけた自信が溢れていた。
「君はやっぱりすごいね! あのポーズ、カッコよかったよ! こう、機械をぽおんって投げつけて」
少年は笑いながら、ぎこちないジェスチャーで興奮を伝える。ところが、ラックーサは微笑むどころか、完全に彼を無視。
「……危ない!」と険しい顔で目を見開いた。
「だめ、駄目ええ!皆、今すぐ離れてください」と落下した繊維獣を指し、甲高い声で叫んだ。
この空間はおかしい。
物事の順調が正しくない。繊維獣が壊れていない。むしろ何キロ範囲の全ての生命体を分子レベルに溶かすほどの反撃を繰り出すところなのだ。
「そんな……とどめを指したはずじゃなかったのか? 」
信じられない、と地上兵達の顔が歪む。その瞬間だった。
全ての音が無に帰した。天蓋を食う燐光は眩しい。
ほんの数秒で、秋葉原の中央通りのビルのガラスが粉々に弾け飛んだ。
兵士達は、手で顔を庇い死を覚悟した。しかし、そのとき電光が眩さを失うのを感じ、誰もが空を見上げる。天球に掛ける 女神が降臨した。
ラックーサは凛々しく魔槍を翳し、繊維獣の残骸に向い、光線を放出する。
「反射心累光!!!」
己の中に詠唱が変換する。
「「蜷局逆燐ハート!!!」
(これは元々の私の攻撃名なの? 心の声はこう叫んでいるけど、口が勝手に動いている)
薄く透き通る、幾何学対称性な電磁波の盾が、皆の頭上に広がる。光の傘のように優しく皆を包み込む。まだ安心はできなかった。よく目を凝らせば、逆鱗の目の彼女のさらに上に下方に全力で胴体を押しかけているあの怪物はいる。
しかし、すでにラックーサにとって、予測済みだ。
キャタピラーのように繊維を回転させながら、秋葉原の新・新電気街を押し潰す気だ。
髪の毛一筋ほどの隔たりだが、今、ラックーサと繊維獣の間で概念が衝突している。人類史によって、順位が正しい世界と正しくない世界、二つの相異なる世界が存在しているのだ。ライターズの光線もその不安定さを反映してしまう。
光源は守る光の傘と、攻撃する先鋒に交互に変質している。
その脆い天秤の上に、繊維獣の落下が塞がれているのだ。
「皆早く、光の円蓋の下に避難しよう、もし、まだ運び込まれていない一般人がいたら早く!」
クセソーティアソは兵士に正確な指示を出しながら、パニックに落ちないように集中しようとしている。は仲間のライターズの隣まで飛び上がると、「君、大丈夫? 」と冷静に尋ねた。
ラックーサは片手で魔槍を差しながら「うん、このポンコツ金属クラゲに負けてられないよね」と微笑みながら頷く。
「強がらないでよ、今日は君の戦いだってわかってるけど、さすがに消耗してるだろう。俺も戦うよ。できることがあれば、言って」
「うん、ありがとう。じゃあ私がこいつにトドメをさす間に、皆を守って欲しいの」
「あれ、君ってさっきみたいに言いたいこと言えないタイプかと思ってた」
「もおお、今この状況で冗談なんて言わないで、クセソーティアソ君」
少女は拗ねたようにそっと唇を尖らせた。
「はは、こういう時こそ明るくしないと……。でもどうやって止めを刺すつもり? いまの概念の侵食はごちゃごちゃすぎて、正直よくわからない」
「そうね……順位を汚染しているけど、同時に繊維獣は弱まっているのは事実なの。 概念の侵食フィールドが弛めば、周囲の世界と同様の物理学となる。不安定だけど。的確な隙間を狙うと逆効果になっちゃうの」
少女の言葉が緊張感を帯びる。
「本当に君一人に任せて大丈夫? 」
「うん、私ね……カオスってこんなに美しいと思わなかったの、美しいものは、私が得意なものだから、大丈夫よ」
ラックーサは静かな自信に溢れた微笑みをふわりと浮かべた。
「もう時間がない、サインを出したらお願い」
繊維獣による上空からの追突に、幾何学的模様の光の傘にひびが入り始める。
上空三五〇mほどの高さ秋葉原の一番高いビルより更に高い位置から、繊維獣は先程よりは力無い縺れた繊維を伸ばし、己に向かって突き立てた。哀愁に満ちた叫び声、痙攣のような不気味な蠢き、貫かれた傷から漆黒の液体が漏れ溢れている。まさか自害しようとしているのか。
(待って、ありえない、そもそも自害する瞬間に、私に被害が出るはず……、地上に被害出るのか、守護は強化するのか……そもそも自滅に至らないはず……この怪物は思いままに物事の順位の概念を操っている。一時的に己の周囲に概念の侵食を止めていて……周囲の空間は正常化している。だけどなぜ……)
点と点が繋がったラックーサの顔が青ざめる。
(瀕死状態になってから、順位の概念の侵食を再開してまた落下したいんだ……この宇宙人は狂っている……もうイグナイト東京都や関東地方は、全滅しちゃう。それに自分だってどれだけ痛いだろう、自虐にも程があるよ……)
繊維獣が苦しみにのたうち、薄気味悪いダンスでもしているように空中に漂い、そのまま一直線に落下しようとする。
「とにかく時間がない、止めなくちゃ!」