16. ハートのイクイリブリアム
(私も……混沌の中で咲き誇りたい。荒蕪地に咲く花のように)
完璧さに囚われ、周囲と同じであろうとしていた花は、本来の美しさを隠していた。しかし、風に揺れる不規則な姿こそが、大地に新たな命を吹き込む力を持つ。欠点こそが成長の糧となり、走り出す原動力となる。
汚れさえも快活なダンス、舞い上がる埃。過渡期は喜びに満ちた、自分を潤す肥沃な大地。
ラックーサは、決意の輝きを宿す眼差しで、クセソーティアソを見上げる。
その澄み切った瞳には、彼女の内なる強さと平静さが映し出されていた。
「クセソー君、私、やるべきことわかりました」
少年は頷いて少女を地面に降ろす。
今こそ彼女の戦いが始まるのだ。
心の変容を気づいたオンソロージーは再び彼女の足元にたどり着き、空へ向かう階段を作り出す。ラックーサはオンソロージーSを胸に抱きしめると、力強い一歩を踏み出した。
一段一段変形する階段を、自由な風を身に感じながら駆け登る。
今まで彼女にとっての人生は、数学の難易度の高い問題に過ぎなかった。
「そう、私の掌にあるのは計算のみ」
計算さえできれば全てを掌握できる。それが彼女の安心感であり、万能感だった。しかし、その窮屈な枠から一歩踏み出したら、途端に何もわからなくなる。慌てふためき、無気力に陥る。それは彼女が必死に隠していた脆弱性だった。
―――でももう全部必要ない。
化学的思考が得意な彼女は、緻密な計算や論理的な推論、美しい均衡と調和を愛していた。しかしそれだけに執着するのは勿体無い。
今はカオスの美しさが彼女を惹きつけ、予測不能なこの世の流麗さに心が躍る。予測不可能な世界で、先の見えない道の旅を楽しみたい。多少汚れても、それで良かったと思えるようになりたい。
【これはあなたのLonging】と心の奥深くに静かに響く声があった。
「そう今こそ……間違っても私の考えを確かめたい!」
過去には失敗もあった。それはあまりにも急激な変化を求めすぎたためかもしれない。しかし、冷静に計算し、段取りを練れば、自分自身の人生を根本から変えることができる。
【これはあなたのCapability】と声が続ける。
戦士の心の変化と、それに伴う危機を感知したのか、繊維獣の覚醒度が上がっている。
金属めいた絶叫が街の建物を揺るがす。
胴体が半分埋まったブラックホールから、創り出したばかりの腹部と臀部を取り出そうとしている。後体部をずるりと露わにした怪物は、体表でうねる繊維を一瞬で伸ばして攻撃してきた。金属の鞭が空気を切る。
「お願い、守って!」
心で伝えると、空の階段を象っていたナノマシンの数台が足元から抜け出して盾に変換する。
ラックーサを庇うように、幾何学的な対称性を持つ模様が盾の表面に浮かび上がり、そこに絡み合う繊維獣の鞭が猛然と打ち付けられる。火花が舞い散ったが、盾はびくともしない。彼女は今、難攻不落の砦だ。
ラックーサが全力で目指しているのは、概念の侵食が進んでいる繊維獣のブラックホールだ。
光磁遮道の競技場に向かう、あのときと同じ、いやそれ以上の緊張感を感じていた。
光磁遮道が好きなのに、不安定な光を放つラディアントオーアに頼りたくなかった。予測できない光と人間が怖い。予測できないから裏切られる、いつの間にか嫌なことに巻き込まれる。
でも、予測できないからこそ新しい驚きと喜びもある。知らないからこそ発見が待っている。
もしかしてラディアントオーアを乗せたら、今まで知らない戦い方を身につけることができるのかもしれない。
もしかして敬遠していた人々とも話してみれば、嫌なことなど言われず、逆に良い友達になれるかもしれない。
彼女は、不安定なバランスの上に置かれたガラスの花瓶のようだった。粉々になるのではないか、という気掛かりから何も生みだすことができなかった。
(私、もっと優れた選手になりたい。もっと友達を作りたい。自分の得意分野をもっと皆に役立てたい!)
【これはあなたのReason】
励ますような内なる声を合図に、強く踏切って天に舞い上がる。
身体も石も驚くほど軽くなっている。空中で上品なカブリオールを披露する。そのまま、繊維獣の頭部に届くよう、縦にジャンプを繰り返す。
飛び跳ねるたびに、心までもが高揚する。
今までずっと何もかもを他人のせいにしていた。親が嫌いだった。どれだけ新しい場所に馴染んで好きになっても、すぐに引っ越しが続き、築き上げた安定はすぐに剥ぎ取られた。
先生のせいにもした。理解してくれない、友人になってくれない周囲の人間のせいにした。
でも、今は見える。
(他人ができる、できないという話じゃないんだ、私自身がやりたいことだ)
どうせわかってくれないだろうと諦めるのを辞める。新しい友達、仲間に素顔を見せる。自分が選んだやり方で光磁遮道のトップになってみせる。
【これはあなたのDedication】
声が彼女の頭に反響する。
その瞬間、ずっと抱え込んでいたオンソロージーSが宙に浮かび上がった。鉄のように錆色の岩肌にぴしりとヒビが入る。
ずっと閉じこもってきた殻を破りたいという彼女の望みを叶えるように、息吹く芽が種子の被殻を破るように、亀裂の裂け目から黄橙色の輝きが溢れ出る。音を立てて爆散した隕石の中から、電球型蛍光灯のファノースが現れる。
発光体はラックーサのみぞおちの高さへふわりと落ちてくる。
熱い血液が身体中を駆け巡るのをたしかに感じる。きめ細かな肌は発光している。不思議なほど心は凪いでいた。
紅く染まった空の下で不自然な身震いしている繊維獣はもう目前へと迫っている。
雑音だらけ、予測する余裕もない。
今までの彼女にとって、一日の過ごし方は儀式のように流れた。食事、歩くペース、動作の全ては制御範囲ではなければ彼女は嫌な気分になる。
ペンの位置の少し下ずれ、服の皺、ちっぽけなことでも対称性の破れは彼女にとって最大の罪だった。
しかし本当は、全て予知できるわけでもない、全て己の思う通り制することができない、でも今まで気づかなかったが、今既に掌中にあるもので充分なのかもしれない。
(少し適当でも良いかもしれない)
花がほころぶような微笑みをうかべながら、彼女はファノースにそっと手をのばす。螺旋状の白熱灯は新しい自分にぴったりだと思えた。
ファノースを宝物のように胸に抱きしめたまま、恐ろしい咆哮を響かせる繊維獣を見据える。心から込み上げる言葉を叫んだ。
「Believe My light!!」
ファノースから無限に思える程の、光の縒糸が放出される。
燃えるように溶けている服は、彼女の体の豊かな曲線美を描き出す。胸はふっくらと盛り上がり、丸みを帯びた腰には仄かな艶めかしさが宿る。
白磁の肌は月に暮らす姫のようだ。光の糸はラックーサの身を包み込み、美しいプラチナの鎧となって輝き、その背には紫の翼が幻想的にふわりと広がった。スカートは鳥籠のような構造に組まれ、格子の隙間から細長い美脚が垣間見える。しなやかな手足が交互に舞い踊ると、そこに白い磁器の籠手と具足が浮かび上がった。
赤紫と鮮やかな黄の輝く線で、籠手と具足が溶接され、兜に一角獣の角が生える。
完全なる対称性。
髪の毛は鮮やかなコーラル色に染まる。髪の下部は翼と同じ紫の後光を放つ。
胸元で祈るように組んだ手を空に伸ばすと、そこから放たれた光が魔槍の形に具現化した。パルテノナ・フォスだ。溶岩のように熱い紫色の蛍光灯電球が、かちりと魔槍の先端に嵌め込まれる。
「貴方の敗北は計算ずみだわ」
自信に満ちた微笑みを浮かべ、少女は戦の女神のように戦場に舞い降りる。