破.〈森の民〉
老人はまず家に戻った。それから事情を駆け足で説明すると、「現場に泊まり込みをする」と言って家を後にした。あわてて妻が追う。あとから息子も駆けつけた。結局のところ、かれは妻や息子の手を借りなければ現場にも行けない弱い身にすぎなかった。
「もう齢なんだからさ」と息子が言った。かれの名前はヨランドと言った。父と同じ石工ギルドで、現場で働く身だった。「いい加減にしてくれよ。現場はうまく回ってる。そうじゃなかったのか」
「そうも言ってられんのだ。あと……半年だ。麦の収穫が来るまでに、完成させねばならぬのだよ」
「なんだって」と息子は目を見開いた。
事情をかいつまんで聞かされた息子は、しかし頭を抱えた。
「なんてことだ……ようやくちょうどいい石材と、教導会の聖画師の絵具の材料が揃ったと思ったら」
「すまないと思っている。だがこれ以外にやりようがないのだ」
「それはおやじだけの話だよ」
「そんなことはない。これは意味のある建築だ。たましいのこもった芸術なんだ。たとえ領主のその場しのぎの世迷言から始まり、我が父がその片棒を担ったとしてもだ──」
息子は老人を見た。そのまなざしには、どこかかなしいものを見る輝きがあった。
「わかったよ。なんとか考えてみるから」
かれは立ち上がった。そして現場の昼休憩に合わせ、各部の仕切り役のみを集める合図の鉦を鳴らした。
そして親子は、その場に集まった仕切り役のものたちにだけ、内情を話した。
「そんな無茶だ」と仕切り役のひとりがこぼした。
ほかのものも文句を垂れる。
「もともと、そうじゃなくても教導会からの追加の注文が多かったんだ。やれ聖画を壁に示せだの、天井画を足せだの、柱の装飾が気に入らないからって石から切り出し直したことだってある。部屋を増やしたり減らしたりすることだってザラだし、いまでもなんのためにあるのかわからない地下倉庫を造らされているじゃないか」
「その件についてはわたしが、なんとか司教さまを通じて掛け合ってみる」
老人が言う。しかし追い打ちは続いた。
「第一、人手が足りねえですぜ。一年かかる仕事を半年で終わらせるんだったら、少なくとも倍の人数は要りますぁ」
「そうだ、そうだ」
いやちがう──と老人は思った。実際に処理すべき仕事には段取りがあり、その優先順位で進めないと完成しないものがある。
例えば、天井を作るにはまず壁が出来上がってなければならない。石造りの建造物は、石自体がとても重たい。そのため壁と梁の構造をうまく作り込み、石の自重によって、同時にほかの石の落下を防ぐような仕掛けにしている。大聖堂の建築がアーチ状の天蓋を持つのはそのためだった。これを作るためにも段取りが必要だし、天井がなければ聖画絵師や彫刻師による作業を進めることができない。その仕事の順序を考えなければ、いくら作業量を考えたところで人の当て方をまちがえるのは必然なのだ。
石工ギルドの構成員のうち、実作業を行う石切や組み立て師は、単純な力仕事だ。しかしいまこの場にいる仕切り役は、だれがいつ、どのように動くべきかを計算し、考える必要があった。そのためギルドのうち上位に立つものはみなそれなりの算術と考える技術というものを身に付けていた。もっともそれは教導会が支援する大学都市における〈修養の学芸〉からは程遠い、実学と呼ぶべきものにすぎないのだったが──
「計画は見直しをしなければなりますまい。しかしもうひとつの件はどうします? 〈森の民〉の件だ」
「いま現場にいるかれらの人数は?」
「さあ……だいたい二十人くらいはいると思いますぜ。なんやかんや、木材を選んだり、絵具の材料探しを手伝ってもらったりしてるわけだし」
「いちおう、〈森の民〉にも仕切り役がいるだろう。かれの名前は?」
「アタゴオル」
老人と仕切り役たちは、その後のことを日中掛けて大幅に再検討した。
無数の議論を交わした結果、やはり当初の計画に必要と考えられたものの多くは棄却しなければならないのは必然だった。教導会側の都合や、領主の無気力を鑑みて、これらの不要項目はさっさと報告するに越したことはないと一致団結する。不平不満を言いながらも、みな名誉市民ヘラルドの一世一代の入魂の姿勢に心を打たれていた。男が人生を賭して打ち立てるのだ。その人生を無為にするわけにはいかねえよ、とひと肌脱ぐ職人魂をつつかれたかたちとなっていた。
報告は息子の手から、急ぎの使者を通じて運ばれた。その傍らで老人は〈森の民〉の仕切り役であるアタゴオルを探し求めた。
かれは〈記憶堂〉の建設現場から少々離れた井戸の広場にいた。
「やあ、アタゴオル」と老人は杖をつきながら話しかけた。息子がいないなか、歩き続けるためには杖を用いるしかなかったのだ。「少し隣りで休んでもかまわないかね」
アタゴオルは〈森の民〉に独特の尖った耳をひくつかせた。日焼けした肌に、黒い瞳が老人をまなざす。まなじりに深く入った壮年のしるしが、まるで〈叙事詩圏〉の臣民を蔑むか、疑うかする目つきに見えなくもなかった。かれは黙ったまま場所を空けた。老人はゆっくりと腰掛ける。
「いい天気だなァ」
「……おれに用があるんだろう?」
「そう急くでない。老人はな、本題に入るために何通りも遠回りせにゃならんのだ」
しばらくの沈黙があった。
「アタゴオル」と老人はようやく口を開いた。「〈記憶堂〉の建設について、きみはどう思っているかね」
「どう、というのは?」
「きみはこれを完成させることに意味はあると思っているのかね?」
アタゴオルは黒い瞳をふたたび老人に向けた。
「意味?」
「そう意味だ」
「不思議なことを聞く。あなたがたはこうしたことに意味があると思って取り組んでいたのかね」
「……どういうことだね」
「われわれにとっては、あれはしょせん石と木にしか過ぎない。どれだけ手の込んだ細工を施そうとも、どれだけ手間を掛けて高く積み上げようとも、それは石と木だ。いずれ自然に帰るべきものだろう。そんなものになぜ意味を求めるのか」
「それは……」
老人は言葉に詰まった。そもそもの考え方が違うのだ。だが、共通点があるのではないかと思いを巡らす。
「きみたちの部族のなかにも、精霊があるだろう」
「ああ」
「われわれはそうしたものを神と呼んでいる。こういうことは不敬な言い方になるが──きみたちも精霊を祀るとき、木を彫り、火を焚き、祭壇に贄を捧げる。そういうものと同じくらい大切なことだと思ってくれないだろうか」
「ヘラルド。それはちがう。われわれの精霊はあくまで精霊なのであって、彫り物をした木はあくまで木なのだ。精霊はめぐり、木はやがて無くなるだろう。あなたがたのように人の骨や遺髪、石と木をいつまでも遺してありがたがる風習は存在しない」
「だが、きみたちは仲間の死には、強い怒りを示す」
「当たり前だ。同胞の死に涙を流さないものがどこにいるというのだ」
まったくわからない──と老人は思った。かれらが考えていること。かれらが憤っていること。そしてかれらが心の底から大切にしたいもの。そのすべてがわからぬまま、すれ違い、争いの火種だけがくすぶっている。
それすらも確かめる術がない。老人は焦りがあった。
「アタゴオル」
「なんだ」
「きみたち〈森の民〉が、わたしたちによからぬことを企んでいると言ううわさを聞いたが、それはほんとうなのだろうか」
「なぜおれに訊く?」
「…………」
「仮におれが、〝ない〟と言ったところであなたがたはそれを信じるか?」
「…………」
「仮におれが〝ある〟と言ってみたら、あなたがたは信じるかもしれないがな」
アタゴオルは立ち上がった。
「しょせん、その程度のことなのだ。市民ヘラルドよ。だからわれわれのあいだで話し合うと言うことに、さほど意味はないのだ」
「ではどうすればいい。わたしはこの事業をやり遂げたいだけなのだ」
老人の泣き言にも、アタゴオルは決して応じない。ただ淡々と答えた。
「どうもすることではない。しかるべきところに落ち着くまでだ」
老人はただ打ちひしがれていた。その後、息子がやってきて、建設計画の変更が許可された旨が通達されたのだった。