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序.思わぬ中止

 かつてあるところにひとりの石工がいた。年寄りで、足腰もよくなく、毎朝起きては現場を歩いて見回りに出ていたが、足取りも覚束なくて家族に連れ戻されることもしばしばあった。「むかしはな、となりの村まで歩いて帰ってこれたんだがな」と、老人はため息を吐いていた。かれの面倒をみる家族も、とくに息子にいたっては、「いい迷惑だ」と平気な顔をして口にする始末だった。

 ある朝老人が、長年寄り添った妻の仕事を手伝い、家の土床を(ほうき)で掃いていると、扉に掛けてある真鍮(しんちゅう)のノッカーを(たた)く音がした。だれだろうか。その疑問を胸に扉を開けると修道士が兵士を連れて現れた。


「名誉市民のヘラルドはきみかね」

「はい」と老人は答えた。「とは言ってもむかしの話ですぜ」

「訳あって領主さまが呼んでいる。悪いがすぐにきて欲しい」

「そんなことを言われましても」──と、背後を見やって妻を探す。「女房に事情くらい話しても、差し支えはありますまい」

「よかろう。少し席を借りるぞ」


 兵士たちは立って、修道士だけが座った。その間に老人は妻を呼んだ。


「さて」と修道士は言った。「何を知りたいかね」

「なぜわたしが呼ばれるかです」

「よかろう。簡単にいうと、いまきみが監督をしている〈記憶堂〉の件だ。中止せよ、というのが用件だよ」

「しかしあれは領主さまご自身がお命じになったことではありませなんだか」

「そうだ」

「なぜなのでしょう」

「詳しいことは領主さまご自身に訊くしかあるまい。これでよいかな」


 老人はしぶしぶ立ち上がった。妻の不安な顔に背中を押され、騎獣が()く車に乗った。

 揺られること半刻、郊外の森に近い母屋からさらに進み、領主の館にたどり着く。修道士を傍に兵士に囲まれた老人は、介添を得ながら館内の応接間に通された。


「市民ヘラルド、まいりました」

「おお。よくぞ来られた」


 老人は領主に、交易品の茶を勧められて、二度辞退したものの、結局呑んだ。寒い冬だった。身体が芯から温まる心地だった。


「さて」と領主はおもむろに言った。「どこから話せばよいかな」

「用件は聞きました。〈記憶堂〉の件です。なぜやめねばならないのか、その理由をお聞かせください」

「わかった」


 領主は席を立ち、ゆっくりと部屋を歩いた。窓際に迫って、午前の日を背中に浴びている。その影が入ったところから、領主は老人を見やった。


「きみは〈記憶堂〉の仕事をいつからやり始めたかね」

「わたくしめが十四歳のときでございます。あの頃は見習いでしたから、父からたいへんどやされました」

「監督をし始めたのは?」

「この十年ほど前ですな。やっと父の手を離れ、幾代も人の手を渡ったこの仕事を、もしや落成できるやもと夢見たものです」

「そうだったな」

「そうです。あと一年ほどあれば完成する。そう言ってもいいところまで漕ぎ着けました。それを急に止めるというのは、いかがなことなのでしょう」


 領主の表情は、逆光になって見えなかった。


「きみは〈記憶堂〉がなぜ建てられるのか──それを聞いたことはあるかね」

「いいえ。ただ我が父ゲラルドが始めた事業であったと聞き及ぶのみです」

「そうだろう。もちろんこれはわが祖父が始めた事業に他ならぬ。そしてこの仕事には重大な役目があると、そう信じて疑わずにここまで来たのだ」


 老人は眉をひそめた。


「と、言いますと?」

「これを読むといい」


 領主は歩み寄って、一枚の獣皮紙を拡げた。触った感じでとても古いものであることがわかった。老人は霞む視野で目をこすりながら、一文字一文字ていねいに読む。やがて呆然と口を開き、顔を上げた。


「これは……!」

「そうだ。〈記憶堂〉の計画にはなんの目的もない。ただわが先祖が苦しまぎれに石工ギルドに与えた仕事に過ぎぬ」

貨殖(かしょく)の策にすぎませぬか」


 領主はうなずいた。


「かつてこの辺境は金銀の財貨もなく、作物もないひなびた地だった。聖櫃(せいひつ)城に納める地代も人頭税も払うことがかなわず、領民領主ともにひもじい想いをしたものだった。それをしのぐために苦しまぎれに検討したのがこの施策だ。偽の聖人、〈女神の平和〉にあやかった和平協定、そのしるしとして建造を計画したのがこの〈記憶堂〉なる聖堂建築だった。だから教導会の支援を得て、巡礼が多くやってきた。おかげでわれらが領家は取り潰しを免れたのだよ」

「しかしそうなりますれば、なおのこと完成させねば教導会の名が廃るのではありますまいか」

「ところがそうも言ってられないのだよ」


 突如として、老人をここまで連れてきた修道士が口を開いた。あまりのことだったのでその場にいたことを忘れてしまっていた。かれはずっとここにいて、一部始終を聞いていたのである。

 修道士は自身をナルシルと名乗った。かれは修道士ではあったが同時に教導会の司教の位を得ていた。かれはいまの事情はぜんぶ聞き知っていることを再度口にした。


「パーシバル領家の過去の不正についてはいずれ星室庁による査問が入ることでしょう。しかしそれはわたしの管轄ではございませんので、言及はすまい。肝要なのは次のことです。いま〈記憶堂〉を建てている辺境都市ロカノンの地に、〈森の民〉の謀反が予感されており、非常に危険なのです」


 老人は言われたことについて、理解するのに時間がかかった。


「しかし〈森の民〉は、わが工場(こうば)においても建造の現場にも、少なからず働いております。かれらが謀反を?」

「かれらは過去の遺恨を忘れていない」と修道士ナルシルは首を振った。「まるで平和を(うた)うために建物を造ったとでも言うつもりだろうが、結局のところそうではないのだ。かれらはうすうす気づいている。無為な力仕事をさせられ、森から樹をひたすら切っていくこの暴虐(ぼうぎゃく)を、許しがたいものだとする勢力が徐々に増えているという話だ」

「でも、だとしたらほんとうにわれらのしている仕事は無為なものになります」

「だから、無為なのだよ」


 領主は決して怒鳴らなかった。


「あの〈記憶堂〉の底に埋められた聖人ミスリルの遺骨も、しょせんはどこぞの流民の骨なのだろうよ。こんなことが世間に露見してみろ。ギルドのものは憤慨し、〈森の民〉の離反はいよいよ本格化する。わたしとしてもどうしようもないわけだ。そうだろう?」


 そこにふたたびナルシルが割って入った。


「この件を受けた聖櫃城円卓会議の結論を申し伝えよう。ただちに〈記憶堂〉の建造を差し止め、〈森の民〉の謀反に備えるべし、と。後日聖堂騎士も派遣される。砦の警備を固めねばな」

「冗談じゃない!」


 老人は立ち上がった。


「この仕事は、おれの人生みたいなものだ! 父が始め、見習い奉公を始めてから五十年、現場監督としてその遺志を継いでからは十年──十年だぞ! それだけの時をかけて、造り上げたこのすばらしい建物を、いまさら捨てろなんて言わせないでくれないか!」


 部屋はしんとなった。まるで老人の言葉が断末魔の叫びだったかのようだった。

 やがて、ナルシルが口を開いた。しぶしぶ妥協点を見出すものに特有の気だるげな響きを、その声は伴っていた。


「では半年だ。つぎの夏が来て、麦の収穫が終わる頃。それまでに〈記憶堂〉を落成させるのだ。さいわい〈森の民〉は今年行動を起こす気はないらしい。きみはあと一年で終わるかもしれぬと言った。それを半年縮めて落成させてみろ。それが限度だ。そうでなくとも砦の改修で、きみたち石工の力を使いたいくらいなのだからな」


 老人は、それでも、怒りのあまりに涙を流した。両の手のひらをこすって、祈りを捧げる。それは渾身の祈りだった。


「わかりました」と老人は言った。「ここで交わした約束は、必ずや天堂におわします〈聖なる乙女〉の耳目にも届きますように、お祈り申し上げます」


 続けて、言う。


「叶うことなら、我が無垢なる祈りが成就されますことを。天にまします神々の座に掛けて、誓います」

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