両名は難と申す
汽車も車もない時代。梅の花が咲こうかとする頃。立派に育てた二人の子供も、成長して一人立ち。賑やかだった小さな家は少し静かになりました。ずっと一緒にいた二人。言葉を交わさなくても、分かってしまうものがあります。
小さな家で、無言でご飯。小さな家で賑やかな時は、寝たあとのいびき。朝になれば、また静かな日々。
「おまえさんよ、話がある」
「なんですか、あなた」
「わしはこの家を出ようと思う。お前と二人で暮らすのは難しい」
「何かと思えば、そんなことですか」
「止めないのか」
「お好きにどうぞ。私も出ていきます」勢いで言った一言。もう、取り返しがつきません。
次の日、二人はそれぞれ荷物をまとめました。
男は勝手口から。女は玄関から出ていきました。最後に女が、家中の鍵を閉めて、ほんとに静かな家になりました。
男はあてもなく、歩きました。どんどんどんどん歩きます。よく行った公園を過ぎ、見慣れた畦道も超えました。太陽もメラメラと顔を出しています。初めて自分で作ったおにぎり。いつもの三角ではなく 四角いのやら丸いのやら。おまけに、すこしベチャベチャしています。お腹は空いているのに、残してしまいました。家族で遠くに出た時には、いつもおいしいおにぎりがそこにはありました。でも 今はありません。これではこの先、続きそうにありません。
女もあてもなく、歩きました。近所の八百屋の香りも抜け、思い出の橋も渡りきります。重い荷物を持って、どんどんどんどん歩きます。体力もどんどんどんどんなくなります。家族で遠くに出た時には、いつも手ぶらで歩いていました。何も持たずに歩けました。でも今は、自分の体重の半分もあります。これではこの先、続きそうにありません。思い切って、帰ることにしました。思い出の橋を渡り、近所の八百屋さんに挨拶。
女が家に着いた頃、勝手口から音がします。
「あなた、帰っていたんですか」
「なんだ、お前さんも帰っていたのか」お互いに恥ずかしくなり、静かな家に静かに入りました。
「荷物、重かったろう」
「あなた、どうしてそれを。あなたもお腹が空いたでしょう」男は黙って頷きました。
「少し待ってて下さいね」台所からはお米の炊けたいい匂い。
「いただきます」一口一口の一汁三菜が、五臓六腑に染み渡ります。
「美味しい」
「私も美味しいですよ。あなたと食べてると」男は少し、微笑みました。
「わしはこの家に戻ろうと思う。一人で生きていくのは難しい」
「何かと思えば、そんなことですか。分かったじゃないですか。私も難しかったです。一人で生きていくには」
「申し訳なかった。お詫びに梅の花が咲く頃に、二人で遠くに行こう。荷物はわしが持つ」
「ありがとうございます。おにぎりは、私が作ります」
汽車も車もない時代。梅の花が綺麗に咲く頃。「準備が出来ました」女は早起きをして、目一杯のおにぎりを握りました。男はそのおにぎりと、二人分の荷物を持っています。近所の八百屋の香りも抜け、思い出の橋も渡りきります。
「懐かしいな、こうやって外を歩くのは」
「そうですね、嬉しく思います」それからもどんどんと歩きました。
小高い丘の上、1本の大きな大きな梅の花の下。
「素敵な場所ですね」
「それは良かった」
「そろそろ、お昼にしようか」
「はい」芝生に腰を下ろし、風呂敷をあけて、おにぎりを一口。長い距離、長年連れ添った人と食べるおにぎりは格別な味がします。ゆっくりお茶でも飲みながら、男は俳句を考えます。
「今の気持ちを言葉にしたいが、難しいな」
「何を詠いたいのですか?」
「お前さんへ、感謝の気持ちをな。上手く言葉に出来んのだよ」
「大丈夫ですよ。詠わなくても」
「どうしてだ?」
「私も詠おうと思うのですが、見つからないんですよ」
「難しいな、想いを伝えるのは」
「そうですね。でも、ちゃんと伝わっていますよ。私の心は梅の花のようです」