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神様のボートの上で  作者: shiori


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エピローグ「君とそばにいるためのたった一つの方法」2

 しばらく待っていると、こちらに向かってやってくる見知った女性の姿が見えた。


「こんにちわ」


 やってきたのは塚原杏理さん、白糸先生の助手であり、看護師の女性だ。


「塚原さん」


 まさかこんなところで会うなんてと思った。私服姿の塚原さんを見るのは初めてだったので一瞬誰だか分からなかった。

 病院でお世話になっていた頃も若いイメージはあったが、黒のワンピース姿で現れた塚原さんは真夏なのに肌も雪のように白く綺麗だった。


 今更ともいえるが、思わぬ人物の登場に私の鼓動が高鳴った。


「どうして私がここにって思うわよね」


 どこか遠くを見るような虚ろな声色で塚原さんは言った。


「それは・・・」


 私は言葉に詰まった。そう簡単に分かるわけでもないのに、ついここにいる理由を考えてしまった。


「いいのよ、ちづるちゃんの思っていることは正しい。本来私がいていい場所ではないもの。

 でもいいわ、ちづるちゃんになら少しは話が出来そう」


「そんな・・・、私には分からないですよ」


「大丈夫、理解されなくったって、もう全部終わったことだから」



 ”終わったこと”



 その言葉が私の中で重く心に響いた。柚季を看取った私には重く苦しい言葉だった。しかし、私たちの裏側で、塚原さんには塚原さんの物語があったのだろう。


「まだ、そんなに経っていないはずなのに、ちづるちゃんが入院していたのが遠い昔のようね・・・、元気そうな姿を見るとあの頃のことが遠いことのように思えるわ」


「そうですね。いろいろなことがあって、大変だった頃も忘れてしまってるのかもしれません」


「本当に、こうしているのが信じられないくらいだわ。意識が戻っても可哀想なことになる、そう思っていたから。随分強くなったわね」


「おかげさまで、皆さんのおかげです」


「そう思うなら、看護師としてはちゃんと通院してほしかったけど、会えなくて寂しかったじゃない」

 

 少しはにかみながら塚原さんは言った。プライベートということもあるのか表情は柔らかだった。


「本当に、その通りですね」


 言葉とは裏腹に、あの病院に通院したいという気持ちはまるでないのだが。


 入院中には塚原さんには沢山お世話になった。私から見て軽口を使いながらも仕事はできる、患者の病状をよく分かっている優秀な看護師という印象だった。


「どうしてなのかしらね・・・、気づいたら一人になっていた。忙しかったけどそれなりに充実した日々だってことに今更気付いたわ。


 麻生先生も、柚季さんも、白糸先生もいなくなってしまった。


 本当に私ってば、不幸な女よね。失った後の事なんて考えもせずに、ここまでやってきたんだから」


 忙しい日々だったのだろう、墓標を見つめる塚原さんが寂し気に映った。それは見たことのない表情だった。


「柚季さんは帰ってこなかったけど、あなたのところに行ったのかしら?」


「はい、それが柚季の意思だったみたいです」


「そう・・・、仕方なかったのかしらね。延命させるのは容易じゃなかった。どこかで彼女の望まないことをしている気がしてた。いつかこういう日が訪れることは覚悟しなければならなかったのでしょうね・・・。

 柚季さんは無事に眠れたかしら?」


「はい、私はまだ納得できませんでしたが、それでも柚季は病院には戻ろうとしませんでした」


「いいわ。ちづるちゃんが看取ってくれたのなら。長生きしてほしかったけど、あの子には寂しい思いを沢山させてしまったから、あなたを友達と思ってあの子がそう決めたのなら、私に言えることはないわ」


 柚季がいなければ、柚季が隣にいてくれなかった今こうしている自分もいない。

 限界に来ていた猫の身体を引き受けて、柚季は息を引き取った。そう考えるととても儚くやりきれない気持ちであふれてくる。


 もっと早く気づいていたら、出来ることがあったのかもしれない、そんなことを思った。


 今でも蘇る最後の夜、人の死をあんなに悲しく思ったのは初めてだった。


 柚季は本当にいい人だった。ずっと私の事を支えてくれた。


「そうね、今更何ができるわけじゃないし、ちづるちゃんには伝えておこうかしら」


 塚原さんは決意を秘めたようにもう一度私の方を見て言った。


「何ですか?」


 まだ塚原さんには話すことがあるようだ。

 不思議だ、久しぶりに話すのに、塚原さんと私は他の人が知らないことを共有しあってる。


「白糸先生はアメリカに行ったわ。本当は柚季さんも連れていくつもりだったようだけど」


「そうですか・・・、初耳です」


 最後まで白糸先生は柚季のことを考えていた。先生の研究にとって柚季はそれだけ大切だったということだろうか。


「研究を続けるにしても、アメリカの方が都合がいいから、止める道理はなかったわね」


 海外逃亡? そんな言葉が私の中で浮かんだけど、今更白糸先生をどうにかしたところでそれを喜ぶ人はいないだろう。半端な正義感だけでは出来ないこともある、私にはもうそこまでの復讐心のようなものはなかった。


「塚原さんは一緒に行かなくてよかったんですか?」


 塚原さんは白糸先生を尊敬していた、長く一緒にいたし、それなりの感情があってもおかしくはない、そういう疑問が湧いたっていいだろう。


「空港まで先生を車で送ったけど、言い出せなかったわ」


「じゃあ、やっぱり本当は・・・」


 ちょっとからかいたい気持ちも湧きながら、私は気になって言った。


「もう白糸先生は誰にも依存したりしないわ、それが分かってしまったから。先生は人に依存する苦しみも悲しみも知ってしまった。


 仕事だから私と一緒にいてくれた。仕事だからそうやって白糸先生は割り切ることが出来た。でもそれを失ったら一緒にいれない。そこまで求めあってしまったら、もう余計に苦しくなってしまうから、だから、もうこうするしかないの」


 大人の考えることは難しい。


 でも塚原さんは自分で一番辛い選択をした、そこに後悔したって仕方ない。今はもう前を向いて生きていくしかないのだ。


「それじゃあ、私は行くわ。麻生さんに墓参りも出来たことだし。また診て欲しくなったら私のところに来てね、いつでも歓迎するわ。

 今元気だからって油断しない事よ、無理ばっかりしてたらまた再発するわよ」


 そう看護師らしいことを最後に言って塚原さんが離れて行く。塚原さんはこれからも変わらない姿であの病院で勤務し続けるのだろう、本当はあの病院に居続けながら、いつか白糸先生が戻ってきてくれることを願っているのかもしれない。

 

 何かたくさん聞かされて落ち着かなくなってしまった。

 あまり面と向かっては上手に言葉を返すことが出来なかったかもしれない。


 それでも会えてよかった、話せてよかった。

 いくつかの心残りになっていたことが塚原さんとの話で解消された。


 これまでの日々のパズルに、ズレていたまま置き去りにされていたところに新しいピースがはまって、私なりに今までより少し、より事情が多面的に理解して見れるようになった。



「あれ? 進藤さん、誰か来てたの?」


 不思議そうな顔で、塚原さんの持ってきた仏花を見た山口さんは言った。


「うん」

「進藤さんの知ってる人?」

「うん、根は優しい人なの」


 山口さんは不思議そうに花と私とを交互に見ていた。


 私はこの不幸な事件を少しはこれまでよりも受け入れられただろうか。麻生さんを目の前にすると掛ける言葉は見つからないけど、でも、麻生さんの分もちゃんと生きていこうと思った。

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