第十六話「最後の力」5
ベランダのカーテンが揺れた、そういえば窓を開けっぱなしにしていたっけ、暗い部屋の中で純白のカーテンが風で揺れるのを幻想的な光景のように私は見ていた。
外からそんなに強い風が吹いているのだろうか? お風呂上がりでこれから眠ろうとする私を涼しい風が目覚めさせる、猫が部屋の中に入ってきていた。
「柚季!!」
私は身体を引きずるようにやってきた柚季に駆け寄った。
「ちづる、ごめんなさい、やっぱり私・・・」
「どうして戻ってきたの・・・、治療をするために戻ったんじゃないの」
「よかった・・・、元の身体に戻れたのね」
痛々しいまでに苦しんでいる柚季に私は焦っていたが、柚季の心境は私とは全く違うようだ。
「そんなことを確かめに来たの? そうじゃないでしょ? こんなことをしてる場合じゃないって分かってるはずよ」
「もう気づいているでしょう。もう私の本当の身体なんてないの、私は一度死んでるんだから」
私の必死の思いも今の柚季には届かない、諦観した柚季の言葉に私の心が痛んだ、どうしてそんな寂しいことを言うの・・・。
「最後にちづるに会えてよかった。こんなに一人が寂しいって思ったのは初めて・・・、不思議ね、自分の身体ではなくなってから、いつでも覚悟していたはずなのに」
「ダメよ諦めちゃ、柚季はまだ生きてるじゃない、ちゃんと自我もあって自分の事だって分かってる、こんなところで諦めちゃだめだよ、お兄さんの所に戻って治療してもらわないと」
「ちづる、もういいの・・・」
「よくない!! そんなのよくない!! いやよ・・・、柚季、生きなきゃダメよ、いなくならないで・・・」
どうしてだろう・・・、もう出ないと思っていた涙が溢れた。悲しいことや辛いことばかりがあって、それで心なんてとっくに壊れ果てていたと思っていたのに。
誰が死んでも、祖父や祖母が亡くなった時だって泣かなかった、自分は冷たい人間だと思っていた。泣いてあげることもできない、冷たい女だって。
「ちづるは優しい、それを表に出すのが不器用だっただけ。もう大丈夫、どうか新島さんと幸せに暮らしてください、あなたたちはとってもお似合いよ、目に余るくらいにね」
「そんなこと今言わなくてもいい・・・、どうして諦めちゃうの・・・、一人じゃ寂しいっていうのはまだ未練があるからでしょ! まだ生きたいって気持ちがあるからでしょう?! どうして諦めちゃうのよ・・・」
私は必死に訴えかけた。
お風呂上がりのパジャマ姿で抱き締めるが、猫の柚季は毛触りはよくても、身体に力が入っていないようだった。
「私は兄を解放させてあげたかった、兄は私のためなら手段を選ばなかった、自分のために誰かに迷惑をかけるのはもう嫌なの、そこまでして生きていたいと思ったことはなかった。
これで兄も自由になって、ちづるに危害が及ぶこともない、これでいいの、一度死んだ私に兄は最高の夢を与えてくれた、ちづる達と一緒にいられたこと、本当に楽しかったわ」
「そんなはずない・・・、私のわがままに付き合わせただけ、私は全然迷惑なんかじゃなかった、もっと自分を大切にしてよ・・・っ!」
「ちづるは身体が弱くて友達の少なかった私にとって、大切な友達よ、よかった・・・、ちづるが看取ってくれるなら、怖くないから・・・」
柚季は私の胸の中で丸くなってどんどん鼓動が小さくなっていく。
「ちづるの身体は温かいね・・・・・・」
「ううぅぅ・・・・」
涙が止まらない・・・、もう声にもならない・・・、こんな悲しい別れを望んだわけではないのに・・・、どうしてこんなに柚季は私に尽くしてくれたんだろう・・・、こんな私なんかに、全然私は柚季に恩返しできてない。
「ちづる、最後に一つだけ私のお願いをきいてもらえますか・・・?」
「何よ・・・、最後だなんて私は嫌よ、ずっと柚季に頼ってきたのは私の方じゃない・・・」
「どうか、兄のことを許してあげて欲しいのです。許されないことをしてきたことは分かっていますが、兄はたった一人の私の家族なんです・・・、だからどうかお願いです・・・、兄を自由にさせてあげてください・・・」
「分かったわよ・・・、分かったから、悲しそうな顔をしないで・・・」
「ありがとう・・・、さようなら、最後に会えてよかった・・・、ち・・・づ・・・・る・・」
「いややぁあぁぁぁぁっ」
柚季はゆっくりと息を引き取り、もう動き出す様子はなかった。
こんな風に悲しい別れが来るなんて、柚季が動かなくなって、何をどうすればいいか分からないまま、冷たくなっていく柚季を抱きしめた。
それからただひたすら長い夜を、私は柚季のことを決して忘れないようにと泣き続けていた。




