リシュリューは愛想が尽きた。だから、幸せを求めたのである
※さくさくあっさりめの短編です。多分続きません。
「マリオン様、もう限界です。婚約を破棄させて下さい」
「…………えっ?」
ありふれた日々の麗らかな正午。
私、リシュリュー・ツイストッドは、幼少期から慕ってきたマリオン・クレオスへとそう告げた。
「どういうことかな?」
「どういうことも何もそのままの意味でございますが?」
いつものように週に一度設けられる顔合わせの茶会にて、唐突に切り出した私の顔色を窺うように微笑んで首を傾げるマリオン様へ揺れる感情はもうない。
なので、なるべく優雅に見えるように、跳ねる心臓を悟られないように、私は紅茶に口を付けながら静かに額面通りの言葉を突き付ける。
何度も何度も切り出そうとした言葉を放ってしまえば、先程までうるさい程に跳ねていた心臓はいっそ止まってしまったかのように大人しい。
「はは。君が、冗談なんて珍しいね、リシュリュー」
「私はマリオン様と違って嘘は吐きませんことよ」
「冗談きついって。怒ってるんでしょ?謝るよ」
先の件、いくつもの女性との関係が公となったことに対してか、突発的に私が婚約破棄だと申し立てているに違いないと思い込んでるマリオン様は、私の言葉を聞き入れようとしない。
「ごめんって。ほら、この前ケーキ屋に行きたいと言っていただろう?明日、行こう。なんなら今からでも構わないよ。あ、ブティックに行きたいとも言っていたね。そろそろ挙式のドレスも仕立てないといけないものね」
あれやこれと確定していたはずの未来の話を持ち出してきては、私の機嫌を取るように捲し立てるマリオン様。一方、無言を貫いて返事を用意しない私。
「ね、リシュリュー?」
一言も発さず、ただ茶菓子で口を埋める私に流石に気まずさを覚えてか、漸くこちらを見たマリオン様を、私も見返した。
以前であれば、こうした彼からの申し出に浮き足立って一言で飛び付き、何日も前から美しくあるためのケアを重ねてドキドキして眠れないまま当日を迎えていただろう。
金薔薇の貴公子と呼ばれるその彼の横に立つことに、気恥ずかしさを覚えながら。
「私の答えは変わりません。既にお父様へそうご報告申しておりますし、許可も頂いております。教会などへの報告に少し時間は掛かるでしょうから、正式に破棄されるのはまだ先となるでしょうが」
その辺りの令嬢なんかよりもよっぽど美しいプラチナブロンドの髪。深紅に煌めく切れ長の瞳。
その良く整ったその容姿を直視することなど出来なかったのに、気持ちのなくなった今初めて、彼を見つめることが出来た。そんな最中でこんな言葉を吐いているだなんて、過去の自分からしたら考えられないことだろう。
「待ってよ、どうしていきなりそんな急に?」
じっと己を見つめるこの眼が珍しいのか、たじろぐ様子を見せるマリオン様は、やっと私が冗談などで言っている訳ではないと理解したらしい。
慌て、私の話を聞こうとしてくれるときには既に心が離れているなんて虚しいものだなと思考しながら、やっと進展した話を更に進める。
「いきなりなどではございません。ずっと、考えていたことです」
「でも、今までは堪えてくれていたんだろう?なら、今回だって……」
空になったティーカップ。それを下げるようにずっと後ろで待機していた侍女に目を配り、彼女が新しく茶を用意するよう部屋の外で待機していたメイドに指示する。
その際、諦め悪く私の元へ寄ろうとするマリオン様を、入口付近で控えていた護衛騎士が阻む。
「下がって。マリオン様、お話はまだ途中です」
古くからの付き合いである護衛騎士を下がらせ、私の声でバツ悪そうに椅子へ腰を落としたマリオン様。いつもと正反対の構図がなんだか不思議だけれど、悪くはない気分のまま私は再度口を開く。
「確かに、私は今までマリオン様が誰とどんな浮き名を流そうとも堪えてきました。しかしそれは……貴方様を慕っていたから、その前提があってのことです」
「嫌いになったと言うの?君が、僕を?」
何処か嘲笑うように、深紅の眼が揺れる。
お前が、お前如きが。
そう言いたげな彼の口調にも視線にも辟易しながら、私はそろそろ言い尽くしそうな意見を最後まで伝えるためにまだ席に残る。
「はい。もう、お慕いしておりません」
きっぱりと、私は最後の言葉を言い切った。
もう、良いのだ。
彼と共に並べば受ける嘲笑も、何をしても許されると思い込んで私を傷付ける彼も。
それらを受け入れるには、既に辛うじて残っていた彼へのこの想いだけでは抱えきれなくなっていたから。
もう、全部いらないのだと。
「……わかった。今日は機嫌が悪いみたいだから、もう帰るよ」
流石のマリオン様も、ああ切り捨てられては返す言葉がないのか一旦護衛を伴ってサロンから出ていく。
「お嬢様、私共もお部屋に戻りましょう。この後は旦那様とお食事になりますから」
「ええ、そうね」
暫くして、屋敷から完全に立ち去ったと思われるマリオン様と遭遇しないように時間をずらして私もサロンを後にした。
「リシュリュー」
「お父様、ごきげんよう」
「ああ」
自室へと戻る最中、二階のホールで私を待っていたと思われるお父様とぱったり会う。言葉は少なくとも、行動の端々から私のことを気に掛けてくださっているのはわかるから、貴族界にしては仲は良好な方である。
端整で、華やかな顔立ち。人目を惹く鮮やかな金の髪に、鋭く釣り上がる静謐な青い瞳。せめてこのどちらかさえ受け継いでいれば私ももう少し陰口を叩かれずに済んだのだろうが、そうは言っても仕方ないとお父様に会釈をしてその場を立ち去る。
「……お嬢様は、お綺麗でございます。清楚でいらして、とても慎ましやかな美しさであるから、皆が気が付かないだけで」
「ふふ、ありがとう。大丈夫よ」
自室へと戻り、ドレスを着替えるために長く付いていてくれる侍女のアーニーを呼べば、まるで私の心情を察してくれたかのようにそう慰めてくれる。
「お綺麗です。とても」
夕食を取るためのドレスへと着替え、鏡台の前へと腰掛けた私の髪を解きながら再度そう褒めてくれた鏡に映るその姿を眺める。
決して、造作が悪い訳ではない。特に目を引くパーツはないが逆に言えば欠点となるような部分もなく、言ってしまえば印象に残りにくい顔立ち。それだけならばまだ貴族令嬢として平均的な容姿であったのだろうが、それを掻き消す程の部分が一つあった。
「……お綺麗ですよ」
括られた髪。解かれ、はらりと肩に乗るその色は、界隈では珍しい漆黒。鮮やかで、鮮烈な色が美しいとされるこの国では私のような色合いは好かれず、また顔立ちとも相俟って良く捨て猫と評されたものだ。
社交界随一の美を持つ、クレオス伯爵家子息とは釣り合わないと。
けれど、アーニーがこうして毎日手を掛けてくれるその色を、隣国の生まれである今は亡きお母様から譲り受けた色を、私は嫌いではない。顔立ちも、色合いも、お父様の要素を何一つ受け継がずとも自分を愛してくれていた母の色を、父が愛した母の色を嫌いになるなど到底出来ず、また、それをしてしまったら全てを否定してしまうような気がしていたから。
「お嬢様?」
「いえ、なんでもないのよ。いつもありがとう」
「勿体なきお言葉です」
手入れが終わり、それでも鏡を見つめていたわたしをアーニーが呼ぶ。深まる思考を振り払って椅子から立ちいつものように礼を言えば、彼女はいつものように微笑んでくれる。
そうして支度を終えれば、お父様と夕食をいただきながらこれからのことを話し合いその日を終えた。
「だから、リシュリューに会わせて欲しいんです」
明くる日。週に一度の顔合わせでさえ面倒にしていたマリオン様が、珍しく、というよりも初めて連日で我が家に足を運んでいた。訪問の報せさえなく、かつ婚約破棄の話が持ち上がっている婚約者が唐突に足を踏み入れては流石の使用人も入れるかどうかを迷ったようで、私の元に指示を仰ぎに来たのだ。
「リシュリュー!遅かったじゃないか、前に約束していたブティックに行こう?」
どう答えるかなど既に決まっているのに、一応体裁上の理由を考えながらホールへと下りる私を見つけたマリオン様が使用人の制止を振り払って寄ってくる。
ああ、自分もかつてはこうだったのかだなんて無駄な客観視をしながら、近くに来たマリオン様を近付けさせないように間に入ってくれた護衛に目配せで感謝を告げ、私はあれ程までに恋焦がれていたその約束を捨てるために口を開く。
「本日は体調が優れません。お引き取りください」
「そんな……元気そうじゃないか」
「申し訳ありません、お引き取り下さい」
「リシュリュー!」
一切謝罪の感情が滲まぬ言葉で面会を謝絶し、それだけを伝えた私は自室へと戻ることにする。背後で、誰かに愛を囁き続けて来た口で私の名前を呼ぶ、元婚約者を置いて。
「……といったことがあったのです」
「成る程。それは厄介だね」
マリオン様の訪問があった同日の午後。午前とは違い、きっちり外出用の支度をし終えた私の前には、一人の男性が座っていた。
「災難だったね。でも、それももうすぐなくなるから」
「ええ、そうですね」
幼少から付き合いのある親戚の彼。何度もマリオン様のことで相談に乗ってもらい、その度に私を優しく励ましてくれていたその言葉を、今は婚約者と引き離すために使っている。
それでも変わらずにこうして共にお茶の時間を過ごしてくれることにただ感謝をしつつ、私は午前中にあったことを報告していた。
正直な話、私の方から婚約の破棄を申し出たのなら、クレオス伯爵家はそれを断ることが出来ない。これまでの身の振りからも、爵位の関係からも、婚約の条件からも。
だから、こうしてマリオン様が私を引き留めようとしてくるのは想像の範囲内で、故にその理由が愛なんて理屈で説明出来ないものでなく、単に貴族界のごたごたから来るものであると知っているから、私の感情は余計に冷えて行く。
「それで、どうするんだい?」
「……ひとまず、この婚約を完全に破棄してから考えようかと」
「そうか」
考え事に耽る私に、幼馴染みである彼が何かを問い掛ける。質問の意図は理解すれど、未だに答えの持たぬ私はずっとそれを先延ばしにしている。
しかし、そんな優柔不断な私を責めることなくずっとこうして待っていてくれている彼に申し訳なさを覚えつつも、隣国では逆に好かれないというその鮮やかに輝く金の髪から目を逸らした。
「この色はまだ嫌い?」
「嫌いなどと……羨ましいだけです」
あからさまに視線を外したからか、そうじゃないと知っている癖にあえてそうからかうことで話題を変える彼に乗っかり、何度口にしたかわからない本音を語り合う。
「私からしたらリシュリューのその髪色の方が羨ましいよ」
「それこそ、私の言葉ですわ」
互いに、自国では好かれない色。そんな共通点を持つが故に昔から妙に気の合う彼と静かな交流を交わせば、朝に覚えた陰鬱な感情も薄れていった。
「リシュリュー。婚約の撤回が認められたと、教会からも国からも通達が来た」
最後にマリオン様と顔を合わせてから一月。あれから何度か訪問していた彼も何回か使用人に門前払いをされたら次第に来なくなり、最近では門前はずっと静かであった。
そんな折にお父様から呼び出しがあり、遂に私はマリオン様と婚約を破棄することとなる。
「そうですか。お手数をお掛けしまして申し訳ありませんでした」
「この程度、構わない。……すまなかったな」
お父様の最後の言葉に首を振って、国璽の押された二通の手紙を受け取る。そして内容を確認した私は、お父様へそちらを戻した。
確かに、白紙に戻った婚約。漸くこれで長くて報われることのなかった初恋が終わるのだと思うと、少しだけ寂寥が過る。が、それも一瞬のことで、次にはもうこれから考えなければならないことへ思考が移っていた。
「……今日は、何もしなくて構わない。ゆっくり休みなさい」
「ありがとう存じます」
日々欠かすことのなかった父の手伝い、教養の時間。そんなことに毎日を追われていたのに、いざこうしてお父様から何もしなくて良いと告げられると、何だか不可思議な気分になる。
しかし、私に代わって忙しくなってしまうお父様の時間をこれ以上無駄に奪うことは無為なので、軽く挨拶の礼を取って退室して自室へ向かう。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「ありがとう、アーニー」
本心的にはおめでとうと言いたい。しかし、そう言って良いのかがわからない。そんな心の声が聞こえてきそうなアーニーの労いを受け取り、私好みに淹れてくれた彼女の紅茶を口にする。
「……何年になりますか」
傍に侍り、ずっと私の弱音を聞いてきたアーニーが、見上げてそう問い掛けて来た。何のことを指しているかは聞かずとも彼女の表情でわかるので、私は目を閉じてこれまでを思い返しながら答える。
「九年、かしら。八つのときにマリオン様とお会いして、お母様のお願いでクレオス伯爵家に支援をするために婚約をして……蔑ろにされて、今日、婚約破棄が成立して」
隣国から一人でこの異国の地にやって来たお母様を支えた生前の親友、マリオン様の生母に当たる方の後生の願いを聞き入れた母のために行われた婚約は、成人を迎えるその日に遂行される予定だった。
後半年。半年決断が遅かったのなら、私はクレオス伯爵家へと嫁ぐことになっていた。
「お嬢様。約束は充分、お守りしたと思います」
「……ええ」
長らく私をこの婚約に結び付けていたのは、マリオン様への恋心だけではない。それを知っているアーニーは私がその部分を気にしているのだろうと察して、優しく肯定してくれる。
クレオス伯爵家が事業拡大に失敗し、恥を忍んで母を頼ったマリオン様の御生母との約束はもう守った。だから、既に擦り切れそうだった片思いは、切れてなくなってしまったのだ。
「さ、お嬢様。このあとはご予定がありますよ。支度をなさってください」
慰めの言葉の代わりに、手を握って言葉を伝えてくれたアーニーが立ち上がる。そしてこの後のためにと、私の手を引いて衣装部屋へと移動した。
「門の前が騒がしいですね」
綺麗に着飾った後、約束の場所に移動するためにアーニー、護衛と共に屋敷を出て既に前に用意されていた馬車へ乗り込もうとしたとき。ふと、馬車の向こうで人が集まっていることにアーニーが気が付く。
そして騒ぎに覚えのあった私は空を見上げた。
お父様に呼び出されたのは今日の朝。恐らく早朝に宮仕えの者が手紙を届けたのだろう。そして現在は支度が少し押して夕方頃。予定の時間には余裕があるが、早めに出ようとしていたのである。
「リシュリューを出して!」
何故なら、夕方に差し掛かれば同じように朝文を受け取ったクレオス家の者が屋敷に来れる時間帯だから。
案の定、門の前で騒ぎを起こしていたのはマリオン様のようで、恐らく同じ内容の書かれたそれを手にしたまま使用人に押さえ込まれていた。
ああ、また追い返さなければ駄目かと溜め息を吐いてそちらに向かえば、丁度一台の馬車がマリオン様の近く、門の前へと止まった。そして見慣れた人物が降りて来ては騒ぐマリオン様に見向きもせずに、私へ視線を寄越す。
「やあ、リシュリュー。待ちきれなくて迎えに来たよ」
「リシュリュー!ねえ、これどういうことなの!?」
使用人に押さえられながらも私を視界に入れるマリオン様を完全に無視し、婚約者であった彼とは対照的に使用人に出迎えられる幼馴染みは、そんな掛けられたことなどない言葉をあっさりと口にしながら私の前に立った。
「うん、今日も綺麗だね。それじゃあ行こうか?」
「リシュリュー!」
恭しく跪いて、態々マリオン様に見せつけるかのように手の甲へ口付けを落としてから馬車へとエスコートしてくれる幼馴染みは、最初から最後まで地面で騒ぐマリオン様を無視して本当にこの場を去ろうとしていた。
「お前!なんなんだよ!!」
「リシュリュー?どうかしたのか?」
「……いえ、気のせいだったようです」
「そうか。なら行こう」
「リシュリュー!おい!!」
流石に見ないフリは出来なかった私がマリオン様へと視線を落とせば、何か気になることでもあるのかと言わんばかりに微笑む彼。そうか、彼には見えていないのだと察した私はマリオン様を一瞥して、馬車へと乗り込んだ。
そう、彼とはもう関わりがないのだから、この幼馴染みの対応の方が合っているのだと思い込んで。
「君達、門の前はきちんと掃除を頼むよ。外からの印象は大切なのだから」
「はっ、失礼致しました」
「おいっ、リシュリュー!」
未だに声を荒げるマリオン様をまるで汚らしいモノを見るかのように一瞬だけ視界に入れた幼馴染みは、彼を取り押さえる門番にそんなことを言っていた。
路傍の石ころを見る目、なんて表現は可愛すぎる程に冷え切ったその眼は未だかつて見たことがなくて、私はこれ以上の元婚約者の醜態を見ないように反対側へと顔を向ける。
「……あんな方ではなかったのだけれどね」
「お嬢様?」
「リシュリュー?」
無様で、惨めにしか思えない元婚約者の姿を見てしまった私の口から小さく零れ落ちた言葉は、誰かに聞かれることなく消えていく。出会った当初、誰よりも美しくてそのことに悩んでいた彼は、決してあのように私を見下す方ではなかったのだと。
「いいえ、何でもありません。参りましょうか」
けれど、もう関係のない人物である彼に向ける感情は必要ない。だから気に掛けてくれた二人に何でもないと首を振って、馬車を進ませた。
もう、会うことのない婚約者を、実らなかった初恋を、果たされることのなかった約束達全てを置いて。
「くそっ、なんなんだよ!離せよ!!」
一月前までは自分を慕っていた元婚約者に置いて行かれたマリオンは、馬車が見えなくなった頃に漸く解放された。
「間もなくこの国の法に則って接見の禁止が下されるでしょう。本日は見逃しますが、次はないと思ってください」
「はあ?」
「この国の決まりです。私的な怨恨が残るとされる場合、犯罪を防ぐためにそういった規制が掛かることがあります。今回は婚約破棄申し立てから度重なる無断の訪問、クレオス伯爵家へツイストッド辺境伯家からの経済的支援活動の過去、またマリオン・クレオス個人の周囲的環境を含めた状況をリシュリューお嬢様が国へ報告しており、危害の可能性ありといった結論が出ているため、個人的な接見が制限されるでしょう」
「……なんだよ、それ」
「ご説明した通りにございます。ご理解出来ましたら、お引き取り下さい」
「出来る訳ないだろ!それよりアイツはなんなんだよ!!僕のことを散々不貞だのなんだの言ってた癖に自分だって同じことやってんじゃないか!」
「はあ……」
一見言葉面だけを見れば丁寧に対応していると思われる門番も、何を言っても引きそうにないマリオンへ遂に溜め息が零れてしまう。何処から説明すれば良いのか、そもそも勝手に説明して良いのかわからなかった門番は、諦めてこう口にした。
「数日後、全てがわかるでしょう。そちらをご覧になっても未だご意見があるようでしたら、然るべき場所を通して申し立てください」
「おいっ!なんだよそれ!」
そしてそれらを言い終えればがしゃりと門を閉め、入って来れないように鍵を掛ける。その場を立ち去ることは許されないが物理的に距離を置けば多少はマシだろうと判断してのことであった。
「くそ……」
暫く喚いていたマリオンも、門番の思惑通り陽が沈む頃には一旦諦めが付いたらしくその場を立ち去る。
次の機会なんてない、潰された絶好の機会を得ることの出来なかったその後ろ姿を見送りながら、門番は漸く静かになったその場所でぼやいた。
「……まあ、その頃にはお嬢様はこの国にいらっしゃらないでしょうが。教えて差し上げる義理もないですしね」
そしてリシュリューの知る由のないやり取りが行われていた数日後。
市井の人間から貴族界の人間も手に取るゴシップ誌にて紙面を全面に飾った一つの発表は、社交界を色んな憶測が駆け巡らせた。
それは、社交界にて笑い者とされていたリシュリュー・ツイストッド辺境伯令嬢と、隣国リンドール皇国皇太子であるジルベール・リンドール皇太子殿下との婚約発表。
誰しもが遂にリシュリューがマリオンに捨てられたと思っていたのに、そうではない事実に社交界は揺れていた。
リシュリューと対等な付き合いをしていれば、まだまだ領地拡大を広げるリンドール皇国、次期皇妃との繋がりが出来ていたのかもしれないのだから。
「……なんだよ、これ」
そしてそんな発表に一番驚いていたのは、他でもないリシュリューに捨てられた元婚約者、マリオンであった。
リシュリューが自分から離れていくことなどないと傲慢に思い込んでいた彼は、生母が辺境伯夫人へ懇願してあの婚約が保たれていたことを知らない。知ろうとも、していなかったのだから。
「父上!」
「……マリオン」
故に、これまで何をしようとも決して自分を叱ることのなかった義父の書斎へと乗り込み、説明を求める。婚約破棄の騒動のときでさえ俯瞰的であった、クレオス伯爵に。
「言っただろう。あの婚約はツイストッド辺境伯家からの恩情であったと」
「でも、リシュリューは」
「自分を慕っていたと?そうかもしれないな。だが、それだけではもう彼女は堪えられなかったのだろう」
何処か他人事に、どうでも良さそうに第三者の立場で物事を語る伯爵。血族としての繋がりはあれど、無能であった兄の子供、そしてきっちり自分が忌み嫌う原因を受け継いでいる子供など到底愛せる訳なかったのだから、実際他人事と言ってしまえばそれまでなのだが。
「証書だ。あの婚約がどの様に保たれていたものだったのか、全て書いてある。知りたければ読め」
一枚の紙。まるでこうなることを予想していたかのように書類の一番上に用意してあったそれを、伯爵は放る。訝しみながらもマリオンはそれを手に取って、漸く両家の婚約が対等なものではなかったと知った。
「ツイストッド辺境伯令嬢はその約束を守るため、これまでずっと待っていてくれたのだろう。が、お前自身が彼女を蔑ろにしたから、令嬢はこの約束を破棄したのだろうな」
書かれている内容は、両家の婚約の際の取り決め。一般的なことがずらりと文書として残る中で、注記として差し込まれていたのは二点。
一点目は、『マリオンに何かしらの手落ちがあったのならリシュリューの意思のみでこの婚約を破棄出来る』という点。
二点目は、マリオンの生母とリシュリューが交わした約束について。
『一人きりになってしまうマリオンを、どうか支えて欲しい』
という、個人的な二人の約束。何の拘束力もない、ただの約束事。その言葉に報いるためにリシュリューは、この婚約を守り続けてきた。
「自業自得だろう。あれ程出来た女性を自ら手放したのだから、同情の余地もない」
「待ってください父上、何故教えてくださらなかったのですか?この婚約がなくなったのなら困るのは伯爵である父上でしょう?」
何処までも他人事な伯爵に、マリオンは責任を転嫁させようとする。この婚約が破棄されたのはこの事実を教えてくれなかった伯爵のせい、困るのは自分なのに、何故教えてくれなかったのかと。
「ああ、私はもう爵位をお前にやって待ってくれている人の元へ帰るから。どうでもいいんだよ」
「は?」
「後は頼んだぞ」
しかし、そんなマリオンの見当違いも甚だしい意見にけろりと伯爵は返した。
そもそも爵位を継ぎたくないから家を出て長閑な場所で愛する家族と暮らしていたというのに、事業拡大に失敗して何処かへ消えた兄の代わりとして強制的に伯爵の位を叙爵されたに過ぎない。
故に、端からマリオンが成人すれば爵位は譲る予定で、周りとも既に話を付けていた訳だが、そんなことを知る由もないマリオンはただ戸惑う。
「引き継ぎはしよう。だが、出来る限りもう私に関わらないでくれ」
決して、伯爵は狙ったようにこのタイミングで爵位を譲ろうと思っていた訳ではない。ただ、まるでそうなるように仕組まれていたように感じはするだけで。
「では」
予め用意していた荷物を持った伯爵は屋敷を出ていく。未だ暫くはこの国にいるから何かあったら手紙を寄越せと、形だけの思いやりを置いて。
「…………はあ?」
婚約者から婚約の破棄を申し出られ、後ろ楯を失い、落ち目の爵位を継いだマリオン。
その手が落としてしまったものの大きさに気付くのは、未だ先。そしてその手が、幸せを掴むのも。
「……ジル。本当に良かったのですか?」
「今更かい?」
あの日、改めて彼にプロポーズを受け入れた私は、紙面を駆け巡る憶測の嵐を目にしながら目の前に座る幼馴染み、隣国の次期皇帝であるジルベールを見た。
「何度も言っているだろう?君が僕を愛することがなくても、共に支え合う関係を作れたのならそれで構わないと」
「……いえ、そっちではなくて」
私の心を変化させたその言葉を疑う訳ではない。そうではなくて、辺境伯家の令嬢とは言え婚約破棄をしたばかりで、加えてこの国では嫌われていた私を、立ち去るこの瞬間でさえも騒ぎを起こしている私で良いのかと、問いたいのである。
「はは、国を跨いでしまえばこの国で起こったことなんて誰も気にしないよ。それに、次期皇妃である君を悪く言える人間は母上くらいしかいないさ。でも、それもあり得ないだろう?」
しかし、そんな風に怯える私の心境を拭うように近くへ来てくれて、そう言葉を掛けてくれるジルベールの言葉には反論出来ない。
圧倒的に高い位を持つ皇妃を表立って批判するなど死を望んでいるようにしか思えないし、家族となるジルベールの父君と母君に関しては正直マリオン様のご家族よりも知っていると言って良いのだから。
「父にとって君は姪に当たるし、母も娘が欲しかったと何度も口にしている。顔合わせのときだって嫌な気配はなかっただろう、リシュリュー?」
「ええ、そうなのだけれど……」
亡き母の弟君である現皇帝と、幼少期に何度も顔を合わせている現皇妃の性格は良く知っている。だからこそこんな醜態を残してから移動するのは心苦しいのだが、ジルベールはそんなこと気にするなと笑う。
「大丈夫さ」
手を取り、抱き寄せて、額に口付けを落とす彼の言葉は、何故か聞いているだけで本当に大丈夫に聞こえて来るから不思議である。
慣れぬ温もりに身を縮めて、すっぽり大人しい私を見るジルベールの目が緩む。
「私は君が傍に来てくれるだけで満足だと思っていたが、存外それだけでは物足りないかもしれないな」
「……」
「はは」
私を抱いたまま、近くのソファに腰掛けた彼の言葉は、想像よりもずっと甘い。見知った人間から掛けられる愛の言葉は気恥ずかしく、上手く反応を返せない私をからかうように見つめるジルベールの視線から逃れるように、彼の胸元へと頭を沈めた。
「ジル。私は、貴方を愛せるとは言いません。けれど、あの約束は絶対に守ります」
「ああ。それだけで充分だよ」
こうして言葉で、態度で気持ちを伝えてくれるジルベールに、私も何か返したくてそう呟く。出来るかわからないことを出来ると言い張るより、絶対に破らない約束を遵守すると告げた方が良いと思っている私は、ふとマリオン様との婚約を破棄させる決断をさせたその言葉を思い出した。
『一方的に想って君は報われるのかい?それならば、愛はなくとも形を作ろうと互いに努力し合えるそういった関係の方が私はずっと良いと思うけどな』
いつものようにマリオン様の女性関係のことで相談していたとき。どうしたら振り向いてもらえるのだろうと思いの丈を吐露した際に告げられた、そんな言葉。
いつもならば、こんな下らぬ話でも付き合い、共に悩んでくれていたジルベールがそんな風に言うだなんて珍しいと思ってじっと見つめてしまっていた。
そんな私の目を逆に覗き込むようにして放たれた言葉は、私に衝撃を与えたのだから忘れもしない。
『……私なら、君とそういう家庭を築きたいと思うよ』
「リシュリュー?」
思い返せば、彼があんな相談に乗っていてくれたのも、私のことを想ってくれてのことだったのだろう。それなのにいつも他の男性の話をしていたなどとても申し訳ない。
そんなことを振り返りながら、私はジルベールを見上げた。
「……誓います。貴方と、より良い関係を築くため、国を導くために努力は怠らないと」
そうして決意を、きちんと言葉にして告げた。
これまでの彼の想いに応えるため、これからの自分を幸せにするために。
「……ああ。私も、君一人だけを生涯愛し抜くと共に、国を護ると約束しよう」
一瞬、私の言葉に面食らっていたジルベールも、合わせるようにそう返してくれた。私の誓いよりもずっとずっとあたたかい声で。甘く、優しいその声で。
「約束を、しよう」
「ええ」
頬を撫でて、優しく包み込むその手を握れば、かつては嫉妬と羨望の対象であった金の髪が顔に触れる。くすぐったい程に柔らかな感情を受け入れた私はジルベールに身体を預けて、そのまま目を閉じた。
「君が腕の中にいる。私の国を共に背負ってくれる。これ程幸せなことはないよ」
「……大袈裟よ」
食むように自分の腕の中に収まるリシュリューへ愛を落としていたジルベールは、未だこのやり取りに慣れていない妃を抱き締めて呟いた。
「焦がれて堪らなかったリシュリュー・ツイストッドが名を変えて漸く私の元に来たのだ。これが、大袈裟なものか」
感慨深そうに吐き出された言葉を、リシュリューは彼に寄り添うことで応える。
そう、リシュリュー・ツイストッドはもういない。
だから、落ち目の伯爵家が辺境伯家から経済的支援を受けられなくなり混迷していると聞いても、次期皇妃を逃がしたとして次は逆に笑い者となっているらしいクレオス伯爵も、もう知ったことではないのである。
リシュリューは、愛想が尽きたのだから。
そして、新しく場所で自分を受け入れてくれる者達と、幸せを築いているのだから。
「大袈裟ですよ。……でも、悪い気はしませんね」
一瞬だけ脳裏を駆けたどうでも良いことを掻き消すように、リシュリューは珍しくジルベールの首元に縋っていつまでも甘い彼の口に寄る。
「以前の約束は、撤回……いえ。もうひとつ、結ばせてください」
そしてこの一年ですっかり代わった感情を伝えるために、微笑む。
前の約束を撤回し、新しく約束をしようとも思った。だって、今も残るその約束は、そのときの感情のものだから。けれど、自分はあのときはあのときで最善の約束をしたと今でも誓える。ならば、それを消してしまうよりも、あのときの感情、今の感情と併せて大切にすれば良いだけ。
そう考えて、リシュリューは芽生える気持ちと共に、新たな約束を口にした。
「貴方だけを生涯愛し、共に生きていくという約束を」
「……本当か?」
「はい。私、嘘は吐きませんから」
一年前と同じような顔をしているジルベールを今はいとおしく思いながら、頷くリシュシュー。
「ジルは?」
そしてねだるように見上げて、首を傾げた。昨日までとは余りにも違う態度の妻を見られることの幸福に浸りつつ、ジルベールは彼女の要求に応える。
「当然、変わらないよ。君だけを愛して、この国を護っていくということも。……これからの未来を、大切にすることもね」
「ふふ」
優しく、何処までも甘く応えてくれるジルベールへ身も心も預けたリシュリューは、とても幸せそうに笑った。
そして後生を、これまでの苦悩などなかったかのように穏やかに、あたたかく過ごしたのだった。
……マリオン?いえ、知らない子ですね。
という冗談は置いておいて、かなりあっさりした短編を書きたくなったので書いてみました。
楽しんでいただければ幸いです。お付き合いありがとうございました。