天使のため息
執務室のひやりとした空気に気づき、ハロルドはペンを止めた。
日中の温かさとは打って変わり、夜間はまだ冷える。
空け放された窓からは星空が見え、集中しているうちに夜になってしまっていたことに気づく。
金色の髪と緑の瞳を持ち、その爽やか顔から天使のようとも称される青年は、
それでも色濃い疲労は隠し切れない。
ここ数カ月は、日中に会議し、たまった書類を明け方まで処理し、数時間寝てまた議会に出席するといった、24歳とはいえ、体を痛めつける日常を過ごしている。
しょうがないのだ。
自分は一国を率いるものであり、その地位は多くの血を伴う簒奪で手に入れたものだ。
前の皇家の時代に衰退した国力は止めようもなく、前皇の失政はこの国に暗い影を落としている。国内異分子はまだくすぶり、諸外国は国内の混乱が残る今が好機と攻め入ろうとしている。
これまで権力を持っていなかった議会は対応する術に劣り、そのすべてが反逆を率いた自分にしわ寄せがきている。
多すぎる難題の、ささやかな気分転換として、一時手を止め、冷えた風を招き入れる窓を閉めようと手を伸ばした。
ふと見る夜空には、宝石のような星が煌めいていた。
『星を眺めるくらいなら寝てしまった方がいいわ。
感傷は何も得られないけれど、睡眠は次の日に頑張れるでしょう?』
高貴な者の甘やかさを隠そうとせず、いつもはお気に入りの小説や、庭園に咲いた花の話しかしない元婚約者が、意外にもそう口にしたのは、その身分を追われる少し前だった。
暗計を知りもせず、無邪気にも、彼女の父皇から皇位を簒奪するために連日議会との交渉に追われる自分に言い放った元婚約者。
リザヴェータ・エリ・エスターライン
皇宮で大切に育てられた生粋の皇女。
ハロルドの怒りも嫉妬も知らず、会うといつでも、彼の優しい仮面と演じた紳士的な振る舞いに頬を染め、褒めちぎった、愛らしい女の子。
父皇と異母兄がハロルドの手によって殺されたと聞いた時、彼女の柔和な顔はどのように歪み、かわいらしい唇は醜くハロルドを罵ったのだろうか。
いや、絶望に明け暮れ、それどころではなかっただろう。
顔を合わせもせず、議会と決定した修道院に送り込んだ。
蝶よ花よと甘やかされて育った彼女は、過酷な修道院の生活にどんなに打ちのめされているだろうか。甘いチョコレート色の瞳は、怨恨の色で塗りつぶされてしまっただろうか。
彼女に恨まれるのは、血塗られた皇位を手に入れた自分への、当然の罰なのだ。
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リザは食後の祈りをするため聖堂にいた。
見つめる天使の像は慈悲深くも潔癖な雰囲気を伝え、
その瞳は、理想の世界を作り上げるために、突き進む強さと苦しみを映している。
一生懸命に罪悪感を隠しながら、幼い自分に優しく接そうとしていた彼を思い出す。
彼女は元婚約者の顔を、戯れに読んだ小説の登場人物になぞらえて、想像を膨らませるのが、昔から大好きだった。それに、彼が時々見せる罪悪感は、とても人間らしい感情で、とても愛おしいと感じたものだった。
元婚約者を想うその心は、追放された今でも、清々しいくらい何の昏さも持っていなかった。