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何度か廊下を曲がり、最後に押し開けた扉の向こうに、突然、生活臭い空間が現れた。さしあたりリビングとして使用されているらしきフローリングの部屋には、4人掛けの木製のテーブルセットに、ソファー、書棚、スタンドライトが点在している。ここは電気が通っているのか、淡い間接照明が点いていた。
「掛けてくれ」
示されたテーブルの椅子に大人しく腰掛ける。
曽我部は部屋の右手へ向かった。冷蔵庫やレンジが見える。キッチンなのだろう。
しばらくカチャカチャ小さな音が聞こえた後、白いカップを2脚と大きめのポットを両手に戻って来た。
静かに注ぐと、芳ばしく何やら甘い香りがする濃茶色の液体が満たされた。
「ハーブティーだ。コーヒーは苦手でね。悪いな」
「いや。構わんが」
「何か摘まむか」
「いい。それより」
話が聞きたい。促すと、曽我部はゆっくりと椅子を引き、向かいに座った。
「突然、すまなかった」
皺の多い口元を結ぶと、会釈のように小さく頭を下げた。
「余程の事情なんだろう?」
大して親しくもなかった俺を呼ぶ程なんだからな――続く皮肉は、喉までこみ上げたが飲み込んだ。
顔を上げた彼は、手元のカップを覗き込み、一口啜った。つられて、俺も喉を湿らせる。香り程個性的ではなく、烏龍茶に似た風味がフワリと鼻を抜けた。
「僕は、K製薬に就職したんだ」
ポツリと呟くように、話が始まった。
「大手じゃないか」
「いや、実際は、生薬を扱う子会社の1つに採用されたんだ」
「生薬……漢方薬とか?」
「それもある。半年の研修期間が終わると、すぐにこの療養所に送られた。出向、と言われたが、しばらく経って気付いた時には、元の会社を退職したことになっていた」
「そんな馬鹿な」
「最初から、その予定で採用したんだろう。僕の家族や交友関係なんかを会社は調査済で……家族と疎遠で非社交的な僕は、秘密を扱うのに都合が良かったんだな」
きな臭い話だ。どんな機密事項を扱っているのか知らないが、本人の同意がなければ、犯罪ギリギリ……アウトじゃないのか。
「ここの療養所は、観月博士が私財をつぎ込んで、建設・運営をされていた」
「これだけの施設を、個人で?」
「表向きは。博士は、ここである研究をされていてな……その成果をK製薬に提供していた。裏で資金協力があったんだと思う」
「ある研究?」
頷くと、曽我部は湯気の収まったハーブティーを含んだ。
「末期癌の疼痛を緩和する研究だ」
ということは、ここは癌患者が最期を迎えるまで過ごしていた施設なのか? 需要は増しているだろうに、何故閉鎖されたのだろう。
「博士自身、癌に冒されていてね。全身に転移し、もう手の施し様のない状態だった」
尋ねる前に、答えを返された。疑問が表情に出てしまっていたのか――気恥ずかしさを誤魔化すように、俺は手元のハーブティーをゴクリと飲んだ。温むと、蜜のような甘味がまろやかになった気がした。
「博士の後を引き継ぐ人はいなかったのか」
「……彼は、気難しい御仁でね」
答えた曽我部は、ふと口の端を歪めた。何か思い出すことでもあるのか。
「お前は? ここに……暮らしているんだろう?」
戸惑う俺に、彼はやはり苦笑いを返す。
「僕は、研究畑ではないからな。薬物の知識が多少ある程度だ」
「よく分からんな。じゃあ、何で、まだここに残っているんだ?」
「それは……追々説明するよ」
そう言うと、ティーポットを手に取り、互いのカップに注ぎ足した。まだ話は長くなるという意思表示か。
「野邑、冬虫夏草って知っているか?」
「え……ああ。トンボとかハエに寄生するキノコ、だっけ?」
唐突な展開に、記憶の引き出しを引っ掻き回して、うろ覚えを取り出した。
「そうだ。宿主の体内に侵入すると、まず身体中に菌糸を張り巡らせる。やがて養分を吸い尽くしたら、身体を喰い破り、本体が現れる」
昆虫の背中から、マッチ棒みたいな枯葉色した突起物がニョキニョキと伸びている写真を見たことがある。なんて不気味な生物があるんだろうと、気色悪く思ったものだ。
「漢方薬じゃ、超が付く貴重品だ。癌細胞の抑制と、免疫力向上の効果があるとされている」
無言で頷く。彼がジッと俺のカップを見詰めたので、湯気のない液体を一口含まざるを得なかった。やはり香りにそぐわない甘さが、口中から喉の奥まで広がった。
「観月博士は、新種の冬虫夏草を発見したんだ」
満足気に頷いてから、漸く続きに進む。変わらない口調の中に、秘密の核心へ向かう気配を感じた。
「新種?」
「そうだ。人間に寄生――いや、共生する植物だ」
「……まさか」
人間の養分を喰らって、成長する植物? 質の悪い冗談か……ホラー映画の世界か?
「俄に信じられなくとも、仕方ないさ。しかも、キノコなんかじゃなくて、被子植物だ」
「ええ?」
益々眉唾物だ。被子植物ということは、花を咲かせ、受粉して、実を付けるということだ。ヒト……人間の身体を苗床として、実がなるというのか?
「博士は、その植物を『ヘラクレス』と名付けた。癌の語源、蟹を踏み潰した、ギリシア神話の英雄の名だ」
ギリシア神話は詳しくないが、英雄ヘラクレスの名前くらいは聞いたことがある。
「ヘラクレスは、宿主の体内で既に増殖した癌細胞を、優先的に吸収して成長するんだ」
「そんな都合のいい植物が……本当に?」
「ああ。もっと凄いのは、ヘラクレスは宿主の体内に侵食する過程で、痛覚を麻痺させる成分を分泌する。一種の脳内麻薬を与えることで、宿主に自分を受け入れさせるんだな」
これまでになく意気揚々と瞳の奥を輝かせて語る様子に、俺は空寒さを覚えた。薄ら笑いさえ浮かべた彼は、まるで――万能の神に心酔しているかのように映った。
「それが本当なら、世紀の大発見じゃないのか」
何故、世間に公表しないのか。そうしないのは、「出来ない」理由があるからだ。医療行為として問題があるのだ。
「ふ……君には、お見通しなんだろう?」
ハーブティーを啜った曽我部は、落ち着きを取り戻していた。
「癌細胞を喰い尽くしたからといって、ヘラクレスの食欲が止まる訳じゃない。彼は、子孫を残すために、脳内麻薬を与えながら、正常な細胞を吸収し続ける」
「子孫……種を作るためか」
「そうだ」
じゃあ、種を成した後、宿主は……人間は、どうなるんだ?
「K製薬が手を引いた理由が、分かっただろう。勿論、世間に公表なんか出来る筈もない。この結果を得る為に、どれ程のサンプルを要したか――詳細は伏せるがね」
多分、養分を吸い出された宿主の末路は悲惨だ。想像するのも、おぞましい。
「それで……俺を呼んだ理由は、何だ」
指先が冷たくなっていく気がする。荒唐無稽な「ヘラクレス」の話を信じ始めている自分に、不安が滲み出す。
「観月博士が、この研究に身を投じたのはね、彼自身の病のせいではないんだよ」
曽我部は、ティーカップをグイと空けた。遂に核心が明かされるようだ。
「博士には、美しい奥方がいてね。慢性骨髄性白血病だった。この療養所に移った頃には、急性に進行していた」
白血病は、血液の癌だという。骨髄移植が有効な治療法だが、型の合うドナーが現れなければ、やがて急性に移行し、死に至る。
「ヘラクレスは、白血病にも有効だった。けれども、染色体の異常が原因だから、癌細胞が完全に消えることはない。その内、博士自身が癌に冒された。研究のために、数多の命を費やしてきた……報いかもしれない」
博士の行為を糾弾する曽我部自身が、何故か悔いるように表情を歪めた。
「観月夫妻は、やがてヘラクレスの糧と消える運命だ。けれども、最後に子孫を望んだんだ」
「ど……どうやって……?」
妙だ。身体が重い。やっと声を絞り出したが、喉がヒリヒリと渇いている。
「大丈夫か? ほら、飲むといい」
まだ半分程残っていたが、彼は継ぎ足すと、俺の手にカップを握らせた。促されるまま、生温い液体を流し込む。フウッと、頭の芯が軽くなった。
「夫妻の執念は、実った」
「え――?」
「彼女は、博士の子を孕んだ。だが、ヘラクレスに吸収されないように胎児を育てるには、養分が足りないんだよ」
『どういうことだ?』
口に出そうとしたが、軽くなった頭が、急にグラグラと回り出した。激しい目眩と共に、脂汗が噴き出すのを感じ――。
ガチャ――ゴトン
カップがひっくり返る音がして、テーブルの上に突っ伏した。




