ー1ー
曽我部史生は、地味な男だった。
高校2年の冬に親の転勤により編入してきて、3年で同じクラスになった。たまたま同じ大学に進学したものの、こちらは文学部、曽我部は薬学部、学内で何度か見かける程度で――卒業後は接点もなくなった。
そんな曽我部から、封筒が届いた。
「よくここの住所が分かったわね」
朝食を挟んだ向かい側で、美沙が小首を傾けた。
「実家に送ったんだ。ほら」
青いマグカップのコーヒーを含みながら、俺は件の封筒を彼女に差し出した。ごくごく普通のクラフト紙のベージュの封筒の宛名面に、神経質な小さな文字で実家の住所が記されている。その上に「転送」という赤いスタンプが確り押され、更にご丁寧に、引っ越した順番の住所が書かれたシールが3枚、重なって貼られていた。
「……で、何て書いてあるの?」
裏表を何度か眺めた後、彼女は返してきた。別に構わないのだが、勝手に中身を読もうとしない。その慎みが彼女らしい。
「来てくれって――次の連休に」
「え? 急な話ね。行くの?」
「新幹線のチケットが入ってるんだよ。よほどの事情があるのかも」
転送されて届くことを計算していたのだろうか。
曽我部の手紙にあった日付は、3ヶ月程前のものだった。もし、チケットの指定日を過ぎて届いたら――そんな想定はなかったのだろうか。
「連休かぁ。ノブ君が居ないんだったら、私もユイカ達と温泉に行こうかな」
サラダのカリフラワーをゆっくり噛みながら、美沙は壁のカレンダーを覗き込んでいた。
「温泉?」
「前から誘われてたのよ。ランチとエステ付の温泉プラン」
「へぇ。いいんじゃない? 楽しんでおいでよ」
ランチと温泉はともかく、エステもセットとは完全なる女性向け企画だ。週末婚状態の半同棲ではあるけれど、たまには恋人に縛られない休日も悪くないだろう。
「ありがとう。ノブ君もね」
曖昧に笑ってみせたものの、内心は戸惑っていた。
曽我部とは、親しくはなかったのだ。突然の手紙は半ば強引で、勿論無視することも選択肢にあった。チケットの期日が間に合って届いたのも、何かの縁――。その程度の理由を、美沙の温泉プランが背中を押して、いつの間にか後に引けなくなっていた。
ー*ー*ー*ー
うだうだと仕事に追われている内に連休初日になった。
行き先の住所のメモを互いに交わして、美沙より早くマンションを出た。新幹線を降りた後、在来線に乗り換える必要があり、始発に乗っても目的地への到着は、正午を大きく過ぎる公算だ。宿泊の予定はないので、帰りは深夜になりそうだ。
貴重な休みを潰すなんて、いい加減お人好しだと思いつつ――しかし滅多にない一人旅という解放感と、幾ばくかの好奇心も原動力になっていた。
馴染みのない西の駅で途中下車し、在来線を待つ。やがて、3両編成の銀色の車両が滑り込み、ややくたびれたグレーの座席に腰を下ろした。休日なのに――いや、休日だからか、乗客は10人もいない。物珍しさを隠しもせず、車窓の外に広がる青空と、夏の日差しに疲れた山が連なる、単調な景色に視界を預けていた。
ー*ー*ー*ー
「……お客さん、終点ですよ」
案の定、うとうとが高じて眠り込んでしまった。終点で下車するから良かったものの、土地勘のない場所で乗り過ごしていたらと思うとゾッとしなくもない。
「あの、すみません」
終着駅は無人駅らしく、起こしてくれた車掌を慌てて捕まえた。
「この場所に行きたいんですが」
曽我部の手紙に同封されていた住所を見せると、30歳手前に見える青年は、一瞬怪訝な色を浮かべた。
「何か?」
「……いえ。お客さん、本当にここに行くんですか」
「ええ、それが……何か?」
「いえ」
完全に奥歯に物が挟まった返事をしながら、車掌は駅からのルートを教えてくれた。目的地は、海に面した丘の上に立つ療養所で、駅前から海に向かって伸びる一本道を2kmくらい歩くとのことだった。かつてはバスが走っていたが、現在は廃線になってしまったそうだ。
「帰りが遅くなるようでしたら、駅の改札横に公衆電話がありますので、壁に書かれたタクシーの電話番号を控えておいた方がいいですよ」
親切心で教えてくれたのだろうが、どこか違和感が否めない。改札を出ると、確かに今時懐かしい緑色の公衆電話があった。電話機の後ろの壁に、縁の欠けたプラスチックのプレートが打ち付けられ、「月タクシー 0X0ーXXXXーXXXX」と黒マジックで手書きされていた。「月」の前に一文字あるようだが、掠れていて読めない。
一応メモを取り、ついでに自販機でお茶のペットボトルを買った。2kmは歩けない距離ではないが、分かっていたらスニーカーを履いて来るんだった。足元の革靴に溜め息が溢れる。
荒涼とした野原をただ切り開いただけの一本道は、辛うじてアスファルト舗装されているが、あちこちひび割れ、隙間から雑草が伸びている。見渡す限りのススキの中に、萩がちらほら。あとは名も知らぬ黄色い花がポツリポツリ混じっている。
淡い水色を溶かした高い空の下、15分も歩くと汗が薄く滲んだ。ジャケットを脱いで、まだ冷たいお茶を飲み、一息吐く。
吹き抜けた風に、潮の香りがする。やはり海が近いらしい。
それから更に15分程、緩やかな丘の上に、白っぽい建物が見えてきた。
坂道を上り切ると、建物の背後に空とは違う青い帯が広がっていた。海と野原に囲まれた、唯一の人工物。まるで、異世界の文明に触れたような不思議な錯覚に捕らわれた。
「観月療養所」――正門の右側に、錆びた表札がかかっている。どうも様子がおかしい。いや、薄々予感はしていた。
門の鉄格子越しに見える建物の窓が、何枚か割れたままになっている。
閉鎖されて、久しい――バスが廃線になったのと同じ頃だとすると、少なくとも3年は経つに違いない。
「曽我部ー! おーい、居るのかー!」
門前で叫んでみるが、空しく海風に浚われた。
ここまで来て引き返す訳にもいかない。恐る恐る鉄格子を押すと――ギィ……と軋んだ音を立てて、動いた。
拍子抜けしつつ、敷地内に足を踏み込む。路上に積もった砂埃がジャリジャリと、やけに耳につく。校舎に似た左右対称の建物からは、物音が全くしない。静寂が、巨大な棺を思わせた。
正面入り口のガラスの自動ドアはセンサーが止まっているらしく、びくともしない。ここまでだろうか。顔を寄せて中を覗く。二重ドアの奥は薄暗いが、受付らしきカウンターとベンチが見える。
「野邑」
枯れたような低い声に呼ばれて見回すと、白衣姿の小柄な男が20m程左の壁から覗いている。壁の上の庇に、ランプの消えた緑色の「非常口」の表示灯がぶら下がっていた。
「曽我部……だよな?」
「ああ。ここから入ってくれ」
庇の影が落ちているとはいえ、元クラスメイトには、記憶の中の面影が微塵も無い。色素の抜けた淡茶色の髪は薄く、不健康に血色のない肌には深く皺が刻まれている。同い年の筈なのに、まるで初老と言われても不思議ではない風貌だ。唯一変わらないのは、眼鏡をかけていることくらいか。
「ありがとう。よく来てくれたな」
ガチャン、と重い鉄の扉が背後で閉まってから、曽我部は頬を緩めた。
薄暗い廊下――淡いグリーンのタイル張りの床に、煤けた壁。多分、元はオフホワイトだろう。蛍光灯は切れている。天井付近に並ぶ、明かり取りのガラス窓から入る僅かな日差しが光源だ。
「一体、何があったんだ? どうして俺を」
矢継ぎ早に疑問を口すると、スッと右手が顔の前まで伸びてきた。思わず、無言の圧力に屈してしまった。光線の加減なのか、青白い掌の、皮膚の下に走る血管網がはっきりと透けている。
「順に話す。まずは、付いて来てくれないか」
頷くしかない。それを見ると、曽我部はゆっくりと踵を返し、廊下を歩き始めた。暗がりだが、白衣の背中がこんもりと不自然に盛り上がっている。背骨が歪んでいるみたいだ――何か病を患ったのか。それで、この人里離れた療養所に隠遁したのだろうか。