第九十七話 公爵令嬢と騎士爵の娘
「シルヴィアさーん、授業終わりましたよー?」
「んー……あと十分だけー……」
「そんなことしたら次の授業始まっちゃいます! ほら、行きましょう!」
リリィが学園に入学して、早一ヶ月の時が過ぎた。
学園生活にも慣れ、ホームシックで涙ながらに兄の部屋に突入するような事態も次第に減りつつある。
そんなある日、リリィはいつものようにユンファ教授の授業を受けていたのだが、そこに珍しい人物が現れた。何を隠そう、公爵令嬢シルヴィア・ウィル・ランドールその人である。
ユンファ教授の授業はただでさえ分かりづらい上にノンストップで進むために不人気極まりなく、シルヴィアに限らず自分以外の生徒がやって来ること自体初めてだったリリィはとても驚き……そして、机に着いた直後に堂々と爆睡し始めたことに、更に驚かされることとなった。
ユンファ自身も気にしていない様子だったし、よほど疲れているのかと授業が終わるまでは放置していたリリィだが、ことここに至っては無視するわけにもいかない。
しかし、シルヴィアの方も強情だった。
「いいじゃない、私公爵家の人間よ? いつどこで寝ようと私の自由だわ」
「ダーメーでーす! 学園の中では身分差を考慮せず平等に学びの機会をって、校則にも書いてあります!」
「……ああ、あったわね、そんな一文」
よく覚えてるわね……と、シルヴィアは呆れ顔でリリィを見る。
確かに、この学園の理念としては一応そういうことになっているし、実際貴族としての身分がどうであれ、受けられる授業に違いはない、が……それは所詮、表向きの話。
下級寮上級寮の住み分けに始まり、学園施設の利用や、実家への帰省を始めとした各種手続きなどでも、身分に応じた扱いの差というものは歴然と存在しているのが現実だ。
リリィは好き好んで誰も受けようとしない授業を中心に受けている変人なので知らないのも無理はないが、まさか最下級の騎士爵令嬢からそんなことを口にされるとは思わず、シルヴィアは新鮮な驚きに包まれていた。
「でも今動きたくないのよね~、ああでも、リリアナさんが次の授業の場所まで運んでくれるなら、やる気も出るかもしれないわね~」
露骨にチラ見しながらねだるシルヴィアに、リリィは仕方ないなあなどと溢しつつも、その表情は楽しげだ。
一体何をするつもりかと身構えるシルヴィアの前で、リリィは腰の魔道具を起動し強化魔法を発動すると、シルヴィアの背中と膝の裏に手を回し、ひょいと抱き上げる。所謂、お姫様抱っこの体勢だ。
「それでは参りましょうか、シルヴィアお嬢様?」
執事のように恭しい言葉遣いで、リリィはにこりとシルヴィアに告げる。
こんな体勢で運ばれれば、流石に恥ずかしくて自分で歩くと言い出すだろう、という、リリィなりの悪戯のつもりだったのだが……。
「ええ、お願いね、リリアナさん?」
悪戯という点に関しては、リリィではシルヴィアに敵わないらしい。
シルヴィアはあっさりと承諾すると、更にリリィの首に手を回し、殊更に顔を寄せてみせる。
間近で微笑む妖艶な少女を前に、仕掛けた側であるはずのリリィはあたふたと戸惑いの表情を浮かべてしまう。
「ふふ、ほら、どうしたの? このままだと授業に遅れてしまうんでしょう?」
「は、はい……」
自分で言い出した手前、今更降ろすわけにもいかず、リリィはシルヴィアを抱いたまま彼女の指定する教室へ向かう。
そこには当然、多くの生徒で賑わっていて……王女を除けば至上の淑女たるシルヴィアを抱いて現れたリリィは、当然の如く注目を集めた。
「お、おいあれ……」
「シルヴィア様!? なぜあのような状態で教室へ!?」
「シルヴィア様を抱いているあの方はどなたですの?」
「知らないぞ、お前分かるか?」
「確か、アースランド家の娘だ。ほら、例の軍艦建造の」
「ああ……けっ、成り上がりが、シルヴィア様に相当気に入られていると見える」
「羨ましい、俺だって抱いたことないのに……!」
「いや当たり前だろ、婚約者でもないのに抱く機会なんてそうそうあるかよ」
「そんなシルヴィア様の至高の肌に触れたばかりか、あのように抱き上げるなど……くうぅ、許すまじアースランド……!」
教室内に漂う不穏な空気に、リリィは頬を引き攣らせる。
何人か、少し危ない願望を抱いている者もいないではないが、その内実のほとんどは、最下級の貴族でありながら、最上位のシルヴィアに好かれていることに対する嫉妬のようだ。
どちらかと言えば、ただからかわれているだけじゃないかと思っているリリィとしては傍迷惑な勘違いだが、そうしたちょっかいも関心を向けられているからこそだと言われればそれまでなので、大人しく針のむしろを甘受しつつ、シルヴィアは手近な席へ座らせる。
「それではシルヴィア様、私はこれで」
これ以上この場にはいられないと、出来るだけ周りを刺激しない丁寧な言葉遣いで一礼し、そのまま教室を出ていこうと踵を返す。
しかし、そのような真似は他ならぬシルヴィアが許さなかった。
逃げようとするリリィの腕を、シルヴィアががっしりと掴み取る。
「あら、せっかくですから、偶には一緒に授業を受けましょう? それに、シルヴィア様だなんて、他人行儀な呼び方をされると傷付くじゃない。私達の仲なのだから、気軽にシルヴィアと呼んでちょうだい、リリアナさん」
「……はい、分かりました、シルヴィアさん」
見た目以上に力強く握られた腕と、有無を言わさぬ可愛らしくも恐ろしい笑みでそう言われ、リリィに断るという選択肢はない。
渋々とそう答え、シルヴィアの隣に腰掛けると、周囲からの圧力がより一層強まっていく。
「シルヴィアさん、だとぉ……!? シルヴィア様の名をあのように親しげに呼び掛けるなどうらやま、いやけしからん!」
「何? 私とあの子の何が違うの? 身長かしら、シルヴィア様は小さい子がお好みなのかしら?」
「おのれアースランド……後で覚えていろよ……」
仲が良いというだけでそんなに嫉妬しなくても、とも思うのだが、そこはやはり公爵家、お近づきになりたい人間など星の数ほどおり、友達という美味しいポジションを横からかっさらっていった者が、妬まれるのは仕方がない。
遅まきながらそんな現実に気が付いたリリィは、心の中で小さく溜息を吐いた。
(身分制度って、面倒くさいですね……)
アースランド領ではそうでもないのだが、ストランド王国全体で見れば、まだまだ身分差による差別など、公然と行われている。
思えば、以前スクエア領に行った時も、市場で自分が貴族だと分かった途端、店主が萎縮してしまっていた。
所によっては貴族扱いすらしてもらえない騎士爵でさえそうなのだから、そんな貴族の頂点に位置するシルヴィアにとって、対等に付き合える友達というのは貴重な存在なのかもしれない。
(シルヴィアさんが私をからかうのも、案外そんな気持ちの裏返しかもしれないですね)
相手の方から近付いてくれるのを待っていては、誰も彼もがお互いに牽制しあって来てくれない。
だからこそ、自分から近付き、軽い調子で絡むことで、少しでも対等な関係を、と。
(だったら、せめて私だけでも、シルヴィアさんとは対等な友達でいてあげないと!)
そう結論付け、リリィは一人ふんすと気合を入れる。
周りからは多少白い目で見られるかもしれないが、それも全ては友達のため。少しでもたくさん勉強したいという無茶な願いのために骨を折ってくれたシルヴィアに、今度はこちらから力になってあげるのだ。
「ところでリリアナさん」
「はい、なんでしょう?」
「そろそろうちの専属シェフになる決心はついたかしら?」
「つきませんよ!? そもそも私は料理人志望じゃありません!」
唐突に振られた話題に、リリィは思わず全力で叫ぶ。
以前、リリィが前世由来のレシピをシルヴィアに振る舞って以来、彼女は何かにつけてシェフになれと迫るようになってきた。
別段強制されるようなことはないので断り続けているが、シルヴィアも中々諦めが悪い。
「え~? うちのシェフは待遇いいわよ? お給料はたくさん出るし、嫁ぎ先にも困らないし?」
「嫁ぎ先ならルル君に決まってます! それに、どうせ働くなら少しでもアースランド領のためになる仕事がしたいんです!」
勧誘を続けるシルヴィアに、リリィは力説する。
そもそも、ルルーシュとの婚約自体、リリィにとっては家と領民のためという部分が大きいのだ。本音を言えば、やはりこれからも家族と一緒に暮らしたい。
そんなリリィからすれば、専属シェフというのはアースランドとの関わりがほぼ断ち切れる以上、どれだけ待遇が良かろうととても魅力的な選択肢足り得なかった。
「じゃあ、うちに来てくれたら、ランドール家からアースランド家に出来る限りの便宜を図るっていうのはどうかしら?」
「!!」
しかし、そんなリリィだからこそ、シルヴィアのその相談には心動かされる。
公爵家の援助。それも、ランターン家や軍艦建造を介した間接的なものではなく、直接的な繋がりを得られるとすれば、その利益は計り知れない。
「最近諸外国から伝わってきた道具とか、魔道具の情報とか……他にも色々、回せるわよ?」
くふふ、と、シルヴィアは周りに聞こえないよう、リリィの耳元で囁いて来る。
その甘い仕草と妖艶な声が麻薬のようにリリィの頭から正常な判断を奪い、思わず頷きそうになって……。
カーン……カーン……カーン……。
授業の開始を告げる鐘が鳴り、ハッと我に帰ったリリィはささっと距離を置いた。
「ふふ、残念、時間切れね。それじゃあ、続きはまた今度」
そう言って、全く残念そうに見えない態度でシルヴィアは教室に入ってきた教師に目を向ける。
このタイミングで鐘が鳴ること自体、彼女の計算の内だったのではないか。そうとさえ思える余裕の仕草に、リリィは早鐘を打つ心臓を宥めるので手一杯だ。
(うぅ、シルヴィアさんと対等な友達……なれますかね?)
なんとも、掌の上で踊らされているかのような奇妙な感覚に、リリィは自分の中に少なからずあった、転生者らしい歳上としての自信が崩れていくのを感じるのだった。




