第九十話 魔物騒動
「へえ、そんなことがあったのか……リリィ、大丈夫か?」
「私は平気ですよ。ただ……メアちゃんに悪い事しちゃいました」
カレルとの騒動がひと段落した後、寮に戻ったリリィはユリウスに事の顛末を説明した。
踏みつけられた押し花は、幸いにも土で汚れた以外は目立った傷もなかったのだが、せっかくのお守りにむざむざあのようなことをされてしまった事実は覆らない。
落ち込むリリィを見かねてか、ユリウスは何とか話題を逸らそうと試みる。
「しかし、サイファスねえ……ゴトフリーの弟っていうと、随分強いって聞いてたけど、それを剣で圧倒するなんて凄いじゃないか。成長したな、リリィ」
「えへへ……まあ、これでも頑張って訓練してますから!」
ユリウスに褒められ、一瞬で上機嫌になったリリィは、ふんすっ、と得意気に胸を張る。
そんな妹の微笑ましい姿に、いつものように頭を撫でてやれば、瞬く間にふにゃりと表情が緩む。
可愛らしい子犬そのものの姿に、その場の全員が激しく揺れる尻尾を幻視した。
「ところでお兄様、私、最初からあの子に随分と目の仇にされていた気がするんですが……何か知っていますか?」
ただ、いつまでもふやけてばかりはいられないと、リリィは気になっていたことについて尋ねる。
最初は、単にアースランド家の立場が気に入らないだけかとも思ったのだが、それだけであそこまで頑なになるものだろうか?
そんなリリィの問いかけに、ユリウスは難しい表情で唸る。
「どうだろうな、俺はゴトフリーの奴と結構付き合いあるけど、別に嫌われてるなんて感じたことないし……強いて言うなら、ライバルって感じ?」
あいつ強いんだよなぁ、とユリウスは饒舌に語り出す。
カレルの高慢な態度とは裏腹に、彼の兄は随分と人格者なようで、少々寡黙なところはあるが、後輩や下級貴族達から教えを請われても嫌がる素振りも見せず手解きをしてくれるということで、学内でも人気が高いらしい。
意外な情報に、リリィは「へ~」と興味深々だ。
「そういうことなら、家として嫌われてるわけじゃないんでしょうか? シルヴィアさん、何か知ってます?」
「ん? 別に何も知らないわよ、お爺様はサイファス家と仲良くしているようだけど、私個人としては他の家と同程度のお付き合いしかないし。それより、このオムライスって美味しいわね。リリアナさん、うちの専属シェフとして雇われない?」
「雇われませんよ!? 私は騎士になるんです!」
「あら残念」
サイファス家になど興味ないと言わんばかりに、目の前の料理にスプーンを伸ばすシルヴィア。
寮に来た直後から、自由気ままにリリィ考案の異世界レシピを堪能し始めた彼女は、先ほどから度々こうして専属シェフにならないかと誘って来るのだ。果たして本気なのか冗談なのか、その言動からはいまいち判断がつかない。
仮に本気だったとしても、任意である限りはリリィには話を受けるつもりはないのだが。
「まあ、曲がりなりにも公爵家に連なる私の前で決闘をして負けたんだから、逃げ出した彼にはそれなりに釘を刺しておくわ。仮に目の仇にしているにしても、しばらくは大人しくなるはずよ」
「そうですか、ありがとうございます」
大人しくなる、ということは距離が空くということになるが、リリィとしても、今はきちんとした謝罪の言葉が聞けない限りとても仲良くしたいとは思えないので、お互いに頭を冷やす意味でもちょうどいいだろう。ひとまず、この件は保留ということにする他ない。
「そんなことより。他にもこんな料理のネタを持っているのよね? 私、これから毎日ここに通おうかしら」
すると、今はそんなことより料理だと、シルヴィアは中々の爆弾発言を投下する。
彼女は寮ではなく王都にある実家から通っているはずだが、そこの料理人が作る料理より、下級寮の料理人が作ったものが食べたいと言い出したのだ。前代未聞である。
「すみません、大変心苦しいのですが……明日からは少々難しいかもしれません」
当然、ここの料理長にとっても大変な名誉であるはずなのだが、その口から出てきたのは遠回しな拒絶。
まさかの言葉に、言い出したシルヴィアでさえ硬直していた。
「……理由を聞かせて貰えるかしら? 適当な理由だったら許さないわよ?」
再起動したシルヴィアが、据わった目付きで料理長を睨む。
その気になれば、自身の首を物理的に飛ばすことさえ可能な相手の機嫌が急速に傾いていくのを察し、冷や汗をダラダラと流しながら、しかし料理長の意見は変わらなかった。
「その……最近、王都へ向かう商隊や行商人が魔物に襲われているらしく、一部の食材が手に入らないのです。この子の料理は、何かと多くの調味料や食材を使いますので、こうなるととても……」
当たり前と言えば当たり前だが、リリィの持つ料理のレシピは、大量生産大量消費の、物で溢れた豊かな世界で培われた物だ。美味なのは確かだが、どうしても必要な食材は多くなる。
王都は海洋貿易の一大拠点なので、陸路が封鎖されたとしても飢えることはないのだが、入ってくる食材の内容に偏りが生まれてしまうのは避けられず、リリィの考案したレシピもしばらくは再現不可能だろうということだった。
「最近は食材の減りも早かったもので、すみません」
その上で、ここ最近食欲魔神と化していた令嬢達による暴食を指摘され、その場にいたほとんどの者が一斉に目を逸らす。
そんな令嬢達の姿に、シルヴィアは表情を引き攣らせる。
「……そう、分かったわ、ならこうしましょう」
しかし、そこは曲がりなりにも公爵家令嬢、どこぞの自称花の乙女達と違い、食欲がために声を荒げるようなことはなかった。
極めて理性的に、かつ打算的に。にっこりと、見るもの全てを威圧する般若の笑みを浮かべ、小悪魔のように小首を傾げてみせる。
「ナルミアさん、あなた達の力で、その魔物とやら、討伐して来なさい」
その口から放たれるのは、有無を言わさぬ命令そのもの。
派閥の長の孫娘としての権威をフル活用し、実に子供らしい我儘のために。
「大丈夫、課外授業扱いにして頂けるよう、学園側には話を通しておいてあげます。なので……討伐出来るまで、頑張ってくださいね?」
情け容赦ないその言葉に、ナルミアら主戦派に連なる令嬢達は絶望的な表情を浮かべ……遠巻きにそれを見つめていた他の貴族達は、一様にこう思ったという。
俺達、穏健派で良かった、と。
アースランド領ではかなり身近な危険として知られている魔物だが、他の領地に住む者にとっては全く事情が異なる。
もちろん、危険度の低い――リリィ達が海で遭遇したトビウオのような、比較的小型で、対処法さえ知っていれば魔法がなくとも仕留められる魔物ならどこにでもいるのだが、普通はその程度の生物を魔物と呼んだりはしない。
本職の騎士や専門の猟師達がチームを組み、念入りに対策を練った上で罠を仕掛け、慎重に慎重を重ねて戦いを挑み、討伐する。非常に危険で、まさに厄災と呼ぶに相応しい力を秘めた化け物。
それが、魔物なのだ。
「だだだ大丈夫、わわわ私がいれば魔物など、おおお恐るるに足りませんわわわ!!」
なので、初めて魔物に立ち向かおうという幼気な少女がこうなってしまったとしても、仕方がないのだ。
「ナルミアさん、声が震えすぎておかしなことになってますよ。もっと深呼吸して落ち着きましょう」
声も膝も、何なら全身が震えすぎて壊れた目覚まし時計のようになっているナルミアを見て、リリィは苦笑を浮かべる。
シルヴィアの一言で、魔物討伐に従事することになったナルミア達だが、いくら主戦派などという肩書きを持っていたとしても、彼女達は基本的に自ら矢面に立つことを考えて育ったわけではない。その結果、魔物と戦うことを恐れた少女達は一人、また一人と“実家の急用”で戦線離脱。残ったのは、ナルミアを含むたった三人だけだった。
これでは魔物討伐など出来るわけがないと、絶望の淵にいた彼女をリリィが放っておけるはずもなく、それに続くようにしてユリウス、ヒルダ、ルルーシュ、そして後から話を聞いたマリアベルの五人が追加で参戦する運びとなった。
そうして、シルヴィアからの命令があった翌日の今日、まずは敵情視察とばかりに馬車に乗り込んで王都を後にしたナルミアは、魔物との交戦経験があるという二人に話を聞いたのだが……分かったのは、アースランド家の考える魔物討伐とやらが、一般的なそれとは酷くかけ離れているという事実だけだった。
「むしろなんでリリアナさんはそんなに落ち着いていられるんですの!? 分かっているんですか、私達これから魔物と戦いに行くんですわよ!? 散歩に行くのとはわけが違うと理解しております!?」
「失礼な、理解してますよ! ただまあ、この辺りにはタイラントベアほど強力な魔物は出ないんですよね? だったらお兄様もいますし、そこまで緊張する必要はないかなぁと」
「タイラントベアって、それこそ非常警報が発令されるような超大物なのですが!? そんなものホイホイ出て来られたら国が滅びます! 私達で勝てるわけありませんわ!!」
「大丈夫です、確かに私が五歳の時に戦って死にかけましたけど、あの時だってあと一歩のところまで行けたので、今なら追い払うくらいは一人でも出来ると思います」
「言ってる意味が分かりませんわ!? 何をどう間違ったら五歳でそんな化け物と対峙する事態になるんですの!?」
「いやあ、村が襲われまして、お兄様と一緒に戦ったんですよ。ね、お兄様」
「ああ。あの時は、俺とリリィで協力して両目を潰すのが精一杯だったけど……もしまた出て来たら、今度こそ父様みたいに一撃で討伐してやる!」
「お兄様、頼もしいです! でも、私だって負けませんよ、今に私も、あれくらいの魔物は一人で倒せる男になってみせます!!」
「誰か、誰か医者を呼んでくださいまし!! 私の耳がおかしくなりましたわ、この人達が何を言っているのか、同じ国の言葉なのにさっぱり意味が分かりませんの!!」
「ナルミア様、落ち着いてください!!」
「おかしいのはこの人達です、ナルミア様は何も間違っておりません!!」
頭を抱えて叫ぶナルミアを、取り巻きの二人が必死に宥める。
実際、アースランド領の特殊な立地を考えれば仕方ないこととはいえ、リリィとユリウスの魔物に対する考え方は少々……いや、かなりおかしい。普通は、タイラントベアと単独で相対する可能性など考えもしないのだ。
一番の問題は、二人がそのことを自覚していないことだろうが。
「うぅ、ソフィア、タメラ、ありがとうございます。……というか!! 百歩譲ってお二人はそういう場所で育ったのだからいいとしても、他の方々はなぜ誰も突っ込まないのですか!?」
そして、本人達にとやかく言うのは諦めたのか、その矛先が先ほどから傍観を決め込んでいるルルーシュ達へと向く。
自分達の常識がまるで通じない相手を前に、必死で援軍を請うかのように見つめるナルミアの視線を、しかし。
「いやまあ……アースランド家がおかしいのは今に始まったことじゃないし」
「すみません……こう言ってはなんですが、慣れました」
「オレはよく知らないけど、アースランド家に雇われた兄貴の手紙で、どういう連中かは聞かされてたからな」
「あなた達毒されてますわぁぁぁぁ!!」
容赦なく切り捨てられ、ナルミアはガックリと崩れ落ちる。
私が悪いのでしょうか? と、まるで他人事のように考えたリリィは、ひとまずフォローをするべきかと、ナルミアの傍にしゃがみこむ。
「大丈夫ですよ、ナルミアさん」
「リリアナさん……」
「今のナルミアさんは、五歳の時の私より圧倒的に強いので、魔物とだってちゃんと戦えます!」
「余計に意味が分かりませんわ!?」
ナルミアの常識では、今の自分ではタイラントベアどころか、それより格下のグレーターベアとて勝てる相手ではない。にも拘わらず、目の前の少女はそんな自分よりも弱い時に、より強い化け物を相手に一矢報いたという。
実は私、この子と別の世界に生きているのかしら? と、地味なニアピンを内心で引き当てながら、フラフラと馬車の窓枠に近づいた。
「ああ、お父様、お母様……穏健派貴族なんてただの腰抜けの集まりだとか言っておりましたが、お二人のとんだ勘違いでした。この人達化け物です、こんな方々が戦いたがらない帝国は、きっと魔神と悪鬼羅刹の巣窟に違いありません。どうか、どうか早まらないでくださいまし……!」
「ナルミア様、私にも祈らせてくださいませ……」
「お父様、お母様、そしてシルヴィア様……私、穏健派に鞍替えします、どうかお許しを……」
「ルル君、ナルミアさん達の中で、帝国がとんでもなく危ない場所になっているみたいですけど、どうしましょう?」
「まあ、放っておけばいいんじゃない? 別に困ることはないし」
「それもそうですね」
あまり深くは気にしないことにして、二人はこの先に待つ魔物について話を戻す。
その後、この一件を切っ掛けに、いくつかの家が主戦派から穏健派に鞍替えすることになるのだが……それを知るのは、ずっと後になってからの話である。




