第八話 漆黒の獣
(さて、あの魔物の名前は確か、黒狼……でしたっけ)
ユリウス達がひとまず落ち着いたことを確認したリリィは、狼の魔物を改めて観察し、これまで学んできた知識と合わせてそう当たりを付けた。
魔物は基本的に狂暴で好戦的なのだが、精霊教の教典の中ではいくつか、魔物でありながら魔王に屈せず、その善性を保っていたとされる種族が存在する。
生態系の頂点に君臨し、魔王でさえも御しきれなかったとされる最強の生物――竜。
聖なる力を身に宿し、魔に堕ちようとその高潔なる魂は失われなかったとされる聖獣――一角獣。
そして、一度は魔王に屈しながらも最後には精霊王の下に集い、共に魔王に抗ったとされる忠義の獣――白狼だ。
伝承の中で語られているこれらの生物は既に絶滅したが、このフェンリルの子孫が現代の狼であるとされており、それが魔物化した存在である黒狼は、無暗に刺激しなければ人を襲うことはないその温厚な性格と、自らの縄張りを守るために周辺の危険な魔物を狩ってくれる習性から、特に魔の森と共に生きるアースランド領では守護獣として敬われている。
(このまま刺激しなければ、それほど危険はない、はずですけど……)
しかし、目の前の黒狼は聞いていた話と異なり、完全に敵意を剥き出しにしてこちらを見つめている。
どういうことかと考えた時、ふと、その黒狼が聞いていた話よりやけに小さいこと、そして後ろ足を引きずっていることに気が付いた。
(この子、まだ子供? それに、怪我まで……他の魔物に襲われたんでしょうか?)
狼として見ればかなり大型だが、黒狼として見るとまだまだ小さい。大人の黒狼は、人間の大人を背中に乗せて走り回ることが可能という話もあることだし、実は産まれてさほど時間も経っていないのかもしれない。
(親とは……はぐれちゃったんでしょうか? それとも……)
もう、死に別れてしまったのか。
そこまで考えた時、またも声が聞こえて来る。
――痛い……助けて……置いてかないで……――
そんな感情が、紛れもなく目の前の黒狼から伝わって来る。
別れの悲しみに苛まれ、孤独という絶望の中で嘆くことしか出来ない、幼子の泣き声のように。
(……同じだ、私と)
ほんの一年前までの自分を思い出し、リリィはぐっと歯を食いしばる。
家族や友人達との突然の別れに泣くことしか出来ず、絶望の海に沈んで溺れてしまいそうになっていた自分。
新しい家族が常に傍にいてくれたリリィでさえそうなのだ。この黒狼が今どれほど辛い思いをしているのか、想像すら出来ない。
助けなきゃ、と決心したリリィは、黒狼に向けて一歩足を踏み出した。
「ガウッ! グルル……!」
「っ……落ち着いてください、私はあなたを助けたいんです」
「ガウッ、ガルァ!!」
しかし、黒狼はリリィのことも警戒しており、とてもではないが近づけそうになかった。
声をかけても咆え返されるばかりで、これ以上下手なことをすれば本当に襲われそうだ。
一瞬、聞こえてくる声の内容が間違っているのかと思ったが……そうではないとすぐに思い至った。
(そうか、この子には私の声が届いてないんだ)
聞こえて来る声は間違いなく黒狼のものだが、その声はリリィに向けて放たれているのではなく、零れてしまった黒狼の感情の一部がただ漠然と形を成しただけに過ぎない。
何となく、そう感じる。
(それなら、伝わるまで、何度でも!)
なぜ、どういった理屈で目の前の魔物の声が聞こえてくるのかは分からない。
それでも、確かにその叫びは届いたのだ。
ならば、諦めなければその逆もきっと可能なはずだ。
「大丈夫です、私はあなたを傷つけたりなんてしません」
「グルルル……!」
黒狼が唸り声を上げる度、口の端から覗く牙からポタポタと赤い血が垂れる。
黒狼自身の血なのか、あるいは何かを食べた結果なのかは分からないが、いくら子供とはいえ、通常の狼よりも大きなその体でもって襲い掛かられれば、リリィのような幼女などひとたまりもない。間違いなく、その血液の一部に含まれることになるだろう。
そんな光景を想像し、心の奥から恐怖心が湧き上がるが、リリィはそれを強引に飲み込む。
(ええい、私の方が怖がってどうするんですか!)
今本当に怖がってるのは、あの黒狼の子供だ。
それに、動物は人が思うよりもずっと、人の感情の機微に敏い。もし少しでも恐怖を覚えてしまえば、余計に警戒され、最悪の場合は襲われる切っ掛けにもなってしまうだろう。
恐れず、落ち着いて、堂々と……笑え。
そう自分に言い聞かせながら、優しく笑みを浮かべる。
「怪我してるんですよね? 治してあげますから、一緒に行きましょう?」
その場に立ったまま、そっと語りかける。
反応を見て、大丈夫そうだと判断すれば、一歩だけ黒狼に近づき、また様子を見る。
「お腹空いてませんか? すぐには無理ですけど、帰ればお肉だって用意出来ます」
今にも襲い掛かって来そうな魔物を前に、怯えることなく笑顔を浮かべ、刺激しないよう細心の注意を払いながら言葉をかけ続ける。
そんな、言葉の通じない相手との対話という難題に必死に取り組む妹の姿を、ユリウスは固唾を飲んで見守っていた。
(リリィ……)
やめろと、危険だから逃げろと、頭ではそう叫びたがっているのに、恐怖に囚われた心がそれを拒否する。
体は金縛りにあったかのように指一本動かず、ただ見ていることしか出来ない。
(負けるな……!)
何も出来ない自分を歯痒く思いながらも、ユリウスはひたすらにそう祈る。
そんな声にならない声援を背に受けながら、リリィは一歩一歩、着実に黒狼との距離を縮めていた。
(もう少し、もう少し……)
自らの命を賭けのテーブルに置いたシーソーゲームは、今のところ順調に進んでいる。
それでも、だからと言ってここで焦って事を急げば、一瞬にしてバランスは崩れ、容易に最悪の事態を引き起こす。
最後まで気を抜かないように、ゆっくりと、お互いの心の距離を埋めていくように。
極限の緊張感の中、気の遠くなるような時間をかけ、少しずつ、少しずつ。
流れ落ちる汗もそのままに、ただ目の前の幼子を助けたい一心で歩を進めていく。
「一人で、寂しかったですよね? もう、大丈夫です」
やがて、黒狼のすぐ目の前にまで辿り着くと、その様子にも変化が起きていた。
逆立っていた毛はすっかり落ち着き、ピンと立っていた尻尾からは力が抜け、水平になる。唸り声は上がらなくなり、剥き出しだった牙の代わりに、赤い舌が顔を覗かせる。
そんな黒狼との最後の距離を埋めるように、目の前にそっと手を差し伸べた。
それまで警戒心を剥きだしにして威嚇するばかりだった黒狼は、その手を見てついに一歩、自らリリィの元へ歩み寄った。
「……今まで、よく頑張りましたね」
互いの距離がゼロになり、リリィの小さな手が黒狼の首元をそっと撫でる。
魔物だからか、硬く強靭な毛は触れるとチクチクと痛かったが、毛先に沿って梳いてやれば問題はなく、黒狼もまた気持ちよさそうに体を寄せた。
「えへへ……」
甘えるようにじゃれつく黒狼を、リリィは優しくゆっくりと撫で回し、スキンシップを図る。
霧散していく緊張感に、後ろで見ていたユリウス達もまたほっと息を吐くのだが……小さな子供が、背丈よりも大きな動物にじゃれつかれている光景というのは、見ようによっては襲われている光景にも見えてしまう。
「リリィ!!」
突如響き渡った怒声に、リリィはびくりと身を縮こまらせる。
「お父様!?」
振り向けば、そこにはつい先ほどまで行動を共にしていた父親の姿があった。
殺気を隠そうともせず姿を晒した彼を前に、黒狼が持つ野生の本能が全力で警鐘を打ち鳴らす。
「ガルルァ!!」
「あっ……」
落ち着きかけていた心が再び恐怖に駆られ、黒狼がカロッゾに向かって飛び掛かる。
それに対して冷静に腰の剣に手をかけるカロッゾを見て、リリィの脳裏に最悪の光景が過ぎる。
「だ……」
せっかく、打ち解けられそうだったのだ。
戦う理由などもはやないのに、それが不幸な行き違いによって無残にも打ち砕かれようとしている。
そんなのは、嫌だ。
「だめぇーーーー!!」
そんな感情のままに、リリィは叫ぶ。
本来なら何の変哲もない、ただの悲鳴でしかないはずのその声は、しかしリリィの中に眠っていた何かを強引に呼び起こす。
間欠泉のように噴き出た魔力が、黒狼など比較にもならないほどに濃密な圧迫感を伴って周囲に吹き荒れ、生きとし生ける全てを屈服させていく。
「何……!?」
「ガ、ル……!?」
それは、カロッゾと黒狼の間に漂っていた緊迫感を吹き飛ばし、両者の動きを縫い留めるには十分だった。
すぐ傍でそれを浴びたユリウス達は、突然のことに声を上げる暇もなく、全身から脂汗を流している。
「はあ、はあ……お父様……」
風の音も、川のせせらぎも、生物の息遣いさえ聞こえない静寂の世界にあって、リリィだけが声を発し、歩を進める。
王者というにはあまりにも小さく、ただの子供というにはあまりにも大きな存在感を持った彼女は、黒狼を庇うようにカロッゾの前に立つと、不退転の意思を込めた瞳ではっきりと告げた。
「この子は、うちの子です。どうか、剣を納めてください」