第五十四話 芸達者な黒狼
魔の森全体から見ると、アースランドの村は北東の外れにある。
チェバーレ帝国とストランド王国とを隔てる巨大な川、コルド大河の支流沿いにぽっかりと穴が空いたように存在し、その川に沿って北上していくことで、王国西部最大の貴族領、スクエア侯爵領に入ることが出来る。
最初は初めての領外ということで、魔物の気配もない穏やかな森や街道の景色を眺めながらはしゃいでいたリリィだったが、やはりずっとオウガの背に跨がっているのは負担も大きく、早々にギブアップした。
かといって、馬車の中なら休めるのかと言えばそうでもなく、揺れるわ固いわで身体中痛くなり、挙げ句馬車酔いでダウンするという情けない有り様になってしまう。
その結果、一晩泊まるだけの予定だった途中の村に丸二日も滞在することになってしまった。
「すみませんお父様……」
「なに、これくらいの遅れは織り込み済みだ、気にするな」
カロッゾに慰められ、ついでに頭を撫でられる。
最近はとにかく人肌に飢えていたリリィは、それだけであっさりと機嫌を上向かせ、すりすりと自ら掌に頭を擦り付けていく。
そんな、子犬のような娘の仕草に苦笑を浮かべながら、カロッゾは向かう先を指差した。
「ほら、リリィ、見えてきたぞ」
「え? ……う、わぁ……!」
アースランド領を出て、五日目。ついに一行は、目的地であるスクエア侯爵領、その中枢都市へと到着した。
遠く離れた位置からでも分かる堅牢な壁に囲まれた町で、東西南北それぞれに人が出入りするための大きな門が用意されている。それだけで、魔物の出る森に囲まれていながら、ちょっとした柵を設置するくらいしか出来ないアースランド家との地力の差を見せ付けられた気分だが、中に入れば更に凄まじかった。
ズラリと並び立つ家屋はアースランドの村人が住むものより一回りも二回りも大きく、道は馬車が通りやすいように整備が行き届いており、歩く人の数も半端ではない。露店の主が元気に客引きを行い、お洒落なおばさまが手慣れた様子で値切り交渉を行えば、その後ろを小さな子供達が連れ立って駆け抜けていく。
活気溢れるその町は、まだ転生してからアースランド領しか見たことがなかったリリィにとって、宝石箱のように輝いて見えた。
「凄い、凄いですお父様! なんていうかもう、本当に凄いです!!」
「ははは、だろう? ただ、あまりはしゃぐとオウガから落ちるぞ、ちゃんと掴まっておけ」
「はい!」
感動のあまり語彙を崩壊させながら、それでもリリィはきょろきょろと忙しなく周囲を見渡す。
完全に、田舎から出てきたばかりのおのぼりさんそのものといった様子で、貴族としてはあまり褒められたものではないのだが、今回に限ればそれほど目くじらを立てる必要もなかった。
なぜならスクエア侯爵領の人々は、恐らく産まれて初めて見るのであろう黒狼の姿に驚き、上に乗っている幼女の様子にまで気を配る余裕はなかったからだ。
「な、なんだあれは!? 狼……なのか!?」
「バカ、あんな狼いるか! 魔物だよ、魔物! なんでこんなところに……」
「すっげー! カッコいいー!」
「こら、危ないから近付いちゃいけません!!」
「上に乗っているのは、貴族様の娘かしら? あんな小さな子を乗せられるなんて、意外と大人しいのかしら……?」
ある者は腰を抜かし、ある者は畏怖の籠った目で見つめ、ある者が憧憬の眼差しで見つめれば、またある者は恐怖とともにそれを諌め、ある者は冷静にそれから少しでも情報を得ようとする。
一人一人では小さく聞き取れない感情の波が無数に飛び交い、折り重なって大きな波紋となり、大気中の魔力を揺さぶってリリィの耳朶を刺激する。
今まで感じたことのない感覚に、リリィの興奮も留まることを知らなかった。
(うわぁ、うわぁ……! こんなの初めてです!)
昂った人々の感情を全て受け止めたせいで頭がパンクしそうだが、今ばかりはそれすらも気にならない。
今まで聞いたどんな音楽よりも激しく心を揺らす旋律に、リリィは内心で喝采を上げる。
ただ……だからこそ、勿体ないと思う。
「お父様、ちょっといいですか?」
「うん? どうした?」
リリィと並んで馬で進んでいたカロッゾに、リリィは軽く耳打ちする。
それを聞いて、カロッゾは苦笑混じりに頷いた。
「まあ、それもいいだろう。少しだけだぞ」
「ありがとうございます!」
カロッゾから許可を得ると、早速リリィはオウガの背を叩き、街の広場らしき場所まで移動させると、おもむろにその場へ飛び降りた。
「よいしょっと。皆さん、私の名はリリアナ・アースランド。アースランド騎士爵領を治めるカロッゾ・アースランドの娘です。そしてこちらは、我が家の愛する家族が一員、伝承に名高きフェンリルが子孫、黒狼のオウガです」
ただでさえ黒狼の存在から人目を引いていたところに、わざわざ目立つところで始めた名乗りが加わって、なんだなんだとどんどん人が集まってくる。
そんな人々に向け、リリィは笑顔で語りかけていく。
「見た目はこの通り怖いですが、とっても優しくていい子なので、皆さんにも仲良くして貰えると嬉しいです。オウガ、お座り、お手」
「ガウ」
リリィの指示に従ってオウガがポフっとその場に座り、差し出された両手に左前足を乗せる。
……最初はお手も片手で受け止めていたのだが、最近はオウガが成長し過ぎたため、両手でないと支えきれないのだ。
「なんだ?」
「何してるんだ?」
そして、そんな狼と人のコミュニケーションを見て、人々は首を傾げた。
ペットに芸を仕込むだけなら誰でもやっているが、流石にこんな大型の獣が犬猫と同じ芸をするなどとは誰も思わなかったようで、皆困惑した表情を浮かべている。
それでも構わず、リリィはオウガに次々と芸をさせていく。
「おかわり。伏せ。はい、立ってー、ぐるぐる~、ジャンプ!」
リリィが差し伸べた手に今度は右前足を乗せ、そのままぺたりと地面に伏せると、次はリリィが手を振り回すのに合わせて周囲を駆け、真上に垂直飛びしたかと思えば音もなく着地する。
「はい、ゴローン」
「ガウッ」
「えへへ、いい子ですね~、後でご褒美あげますからね~」
終いには、その場で無防備にお腹を見せて寝転び、そこへリリィが半ばのし掛かるような形で撫で回している。
ここまでくれば、誰の目にもハッキリと分かった。
この恐ろしげな魔物が、どれだけその小さな幼女に懐いているかということが。
「すけー……俺も触ってみてー……」
ふとそんな声が聞こえて振り向けば、先ほどオウガを見てカッコいいと叫んでいた少年の姿が見えた。
リリィはそんな少年に向け、にこやかに手招きする。
「いいですよ、触ってみますか?」
「えっ、いいの!?」
「はい!」
それを聞くなり、少年はリリィの元へ駆け出す。
一緒にいた母親は止めようとしたのだが、制止の言葉をかけるよりも早く行ってしまったため、今更止めようがない。
ハラハラと見守る親の気も知らず、小さな瞳を好奇心でいっぱいにした少年は、リリィに促されて恐る恐るオウガに触れる。
「お、おお……! 思ったよりカッチカチだな!」
「あはは、魔物ですからね。撫でる時はこう、毛並みに沿って……」
魔物の体は魔力によって変異しているためか、元になったとされる生物に比べて硬く強靭になっている。
そのため、毛触りはかなりチクチクしていてあまりいい触り心地とは言い難いが、慣れればこれはこれで癖になるとリリィは思っていた。
少年もまた、リリィに教わった通りにオウガを撫で、その未知の感触に目を輝かせる。
「俺も触ってみたい!」
「わ、私も!」
「はい、いいですよ。あまり驚かさないように、優しく順番にお願いしますね」
そして、一人が始めればすぐに便乗するのが子供の性だ。次々とやって来る子供達に、リリィは丁寧に応対しながらオウガに触れさせる。
子供達に群がられ、若干困ったように鳴くオウガだが、無闇に動くことなくされるがままに寝そべっていた。
恐ろしげな魔物が、欠伸混じりに子供達の遊び相手となっている姿を見て、集まっていた大人達からも次第にオウガに対する警戒心は薄れていく。
畏怖や恐怖心の代わりに畏敬や好奇心の感情が浮かび上がり、場の空気が最初よりも柔らかく、賑やかになっていった。
(ふふ、上手く行きました)
そんな空気の変化を“精霊の耳”で敏感に感じとりながら、リリィは満足気に胸中で呟く。
様々な思いが奏でる感情の旋律はとても刺激的で楽しいが、やはり怯えや恐怖から生じる音よりも、楽しさや好奇心から生まれる明るく華やかな音の方が、リリィとしても耳に心地良くて好きだ。目の前で無邪気に笑う子供達を見ていると、尚更そう思う。
そうしてしばし場の空気に酔いしれていると、不意にざわりと周囲が騒がしくなった。
「そこのお嬢さん、私も触らせて貰ってよろしいかな?」
リリィが騒ぎの中心に目を向ければ、そこには一人の男性が音もなく佇んでいた。
腰に差した剣を見るに、騎士だろうか? ピシッと着こなされた服は確かに騎士服のようにも見えるが、白を基調としたそれは戦場で敵と切り結ぶというよりは、儀礼や社交を重視した華やかさが見て取れる。女性であれば誰もが見惚れるような甘いマスクも相まって、“白馬の王子様”という言葉がこの人を表すのに一番相応しいだろうとリリィは思った。
「ダメだろうか?」
「あ、いえ、どうぞ!」
「ふふ、それでは遠慮なく」
しばし呆然と固まっていたところに再度問い掛けられ、リリィは慌てて場所を開ける。
いつの間にやら集まっていた子供達も少し距離を取って尊敬の眼差しを向けていて、男性はそんな彼等の熱い視線を一身に浴びながらオウガの傍で膝を突き、その体を撫で始めた。
「ほう、確かに硬い毛だ。でも、よく手入れされているね、毛艶もいいし、よほど大事に育てられているんだろう」
なでり、なでり。
男性が手を這わす度、オウガはまるでマッサージでも受けているかのように脱力した声を上げ、身を任せる。
確かに、リリィが指示をすれば見知らぬ人であっても撫でるくらいは出来るが、オウガが初対面でここまで気を許しているのは非常に珍しい。
驚くリリィに、男性はにこりと微笑みかける。
「先ほどのパフォーマンス、見せて貰ったよ。話には聞いていたけれど、確かにこの黒狼は君を主と認めているようだ。ただでさえ気難しい魔物をここまで懐かせるなんて、流石だね」
「え? あ、いえ、うちのオウガがとても人懐っこいだけですよ。私が偶々一番に保護したから、私に懐いているだけです」
「そんなことはないさ。私も以前から、魔物をなんとか飼い慣らせないものかと手を尽くしているが、一度として成功したことはない。君には、私にはない何かがあるということだろう」
「あ、あの……?」
「ああ、すまない。名乗りもせずに長々と語り続けるなんて無礼だったね、許してくれ」
不思議な物言いに困惑していると、男性はおもむろに立ち上がり、優雅に騎士の礼を取る。
お手本のような綺麗な所作に圧倒され、ポカンと見惚れてしまったリリィに対し、男性は柔らかい口調で名乗りを上げた。
「私の名は、セヴァロニアス・スクエア。ここ、スクエア侯爵領を治める領主を任されている者だ。どうか気軽に、セヴァンとでも呼んでくれ、お嬢さん」




