第五話 はじめての外出
ユリウスと一緒に勉強するようになって、数日が過ぎた。
既に文字の読み書きを完璧に覚え、いざお手伝いをと気合を入れていたリリィだったが、流石にそれで「じゃあ政務を手伝って貰おう」となるかと言えば、当たり前だがそんなことにはならなかった。大事な仕事を、僅か四歳の娘にやらせる親がいるはずもない。
そもそも、リリィはずっと家に閉じこもっていたため、自分が住むアースランド領について何も知らないというのも痛かった。
そのため、まずはそれを一から学ぶべきだと、ここ数日はカミラからそうした自領に関する知識を教えて貰っている。
その結果分かったのは、思った以上にこの領地が危ういバランスの上に成り立っているという事実だった。
(アースランド領って、かなり食料自給率が低いんですね。林業中心だからある程度仕方ないにしても、冬越えの蓄えを商会からの買い付けに依存してるのは、何だか不安ですね……飢饉とかあったら真っ先に干上がりそうですし、商会の機嫌を損ねて売り渋られても辛いです。うーん、対策……というと、取引先と今以上に繋がりを強くするか、あるいは取引先そのものを増やすか……あとは食料自給率の向上でしょうか?)
ぱっと思い付く対策を思い浮かべるが、少なくとも取引先に関しては、ただの幼女でしかない自分に出来ることはないだろうとリリィは結論付ける。
商売人にしろ為政者にしろ、動かすのに必要なのは明確な利益だ。今のリリィでは、感情に訴えかけることは出来ても利益を提供することはとても出来ない。
ならば食料自給率の向上の方はというと、こちらもアースランド領の立地がそれを非常に難しいものとしていた。
そもそもこの領地は、その面積の大半を森に覆われているのだが、森の中には強大な力を持つ魔物が生息している。
この魔物という存在が厄介で、基本的に森の奥地から出て来ることはないのだが、稀に数が増えすぎるなどした場合に人里まで降りて来て、人を襲うことがある。仮に襲わなくとも、魔物の存在を他の動物は本能的に恐れるため、近くに来るだけでも野生動物達が森を追われて村に頻繁に現れるようになり、農作物に被害が出てしまう。
つまりは魔物の出現と、それに伴う獣害が他の領地よりも遥かに多いため、農地を簡単に広げられないというわけだ。
「うあー……どうしたらいいんですかこれ……」
そうした事実を確認し、リリィは机に突っ伏す。
元々、リリィは少しばかり女子力が高い一介の男子学生でしかなかった。魔物などという未知の存在の影響まで考慮した対策など立てられるはずもなく、簡単に思い付きそうなことは概ね施行済みだったり、あるいは資金や人員不足の問題で手を付けられていなかったりする。
はっきり言って、リリィ程度の頭でどうにかなるような、単純な問題は一つもなかった。
「大丈夫か? 珍しいな、リリィの方が先にダウンするなんて」
そんなリリィを見て、隣の机で勉強していたユリウスが珍しい物を見たような顔で呟く。
二人の勉強を見ていたカミラも同感なのか、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「体調が優れないのでしたら、もう休まれますか?」
「いえ、大丈夫です。ちょっと分からないところがあっただけですから。心配してくれてありがとうございます」
何でもないと手を振りながら、再度机に向かうリリィだったが、一度切れてしまった集中力は中々戻らず、筆が進まない。
結局は、渋るリリィを二人がかりで宥めるような形で、休憩に入ることとなった。
「そもそもさ、リリィはいっつも勉強ばっかりし過ぎなんだよ。偶には外に出ようとか思わないの?」
「外、ですか? ……あまり思ったことはありませんね、そういえば」
その最中、突然ユリウスにそう聞かれ、リリィはこれまでの自分を振り返った。
言われてみれば、確かに一度も領主館の敷地の外に出たことがなかったかもしれない。精々、領主館の裏庭までだろうか?
ずっと精神的に不安定で、とても外出など出来る状態ではなかったという事情もあるのだが、それを抜きにしても、これまではなぜかそんな気分になれなかったのだ。
「そんなだから大きくなれないんだよ。父様も言ってたぞ、でっかくなりたければ、いっぱい食っていっぱい遊ぶのが一番だって」
「うっ」
ユリウスの言う通り、リリィの体は成長期だと言うのになかなか大きくならなかった。
食が細く、普段から日の光を浴びない生活を送っているので当たり前ではあるが、七歳の子供に言われるまで気が付かないというのは少々情けない。
「でも、お勉強を休みたくないですし……」
「お坊ちゃまの言う通りですよ、お嬢様」
「カミラさん?」
渋っていると、予想外のところから声がかかり、リリィは目を丸くする。
カミラの仕事は、リリィやユリウスに勉強を教えること。どちらかといえは、遊ぼうとするのを諌めなければならない立場だ。
そんな彼女から、まさかユリウスに同意するような言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
困惑するリリィに対し、カミラはなおも言葉を重ねる。
「お勉強が大切なのは確かですが、それだけでは学べないこともあります。もしお嬢様が本当に旦那様のお仕事を手伝いたいと思っているのなら、時には外で思い切り遊ばれることも大切ですよ」
リリィは、とても真面目で勉強熱心な子だ。
しかし一方で、子供らしいおねだりや我が儘を口にしたところなど、これまでカミラは見たことも聞いたこともない。精々、家の仕事を手伝いたいと常々言っているくらいだが、それはおねだりとは違うだろう。
頑張るのは確かに悪いことではないのだが、リリィの場合はそれが少々行きすぎて、本来子供が抱え込む必要のないことまで抱え込んでいるのではないかと、カミラは少々気がかりだった。
普段から身近でリリィを見ている一人として、できることなら、彼女にも子供らしく羽を伸ばせる時間を作ってやりたかった。
「そう、ですね……そうかもしれません。分かりました、私も、少し出かけてみようと思います」
「ええ、それがよろしいかと。旦那様と奥様には、私の方からお話しておきますね」
「はい! ありがとうございます!」
いつものように明るい笑顔を浮かべるリリィに、カミラもまた微笑み返す。
アースランド家に来て間もなく二年。こうして打ち解けることが出来たことの一因は、間違いなくリリィのこうした誰に対しても明るく優しい性格や、まっすぐな感謝の言葉にある。
落ちぶれて、最後はかなり荒んでいた両親の元で育ったカミラにとって、こうした何気ない温かさは非常に心地よく、この笑顔のためならば多少の苦労は構わないと、自然とそう思うことが出来た。
「よっしゃ! つまり俺も外に行っていいってことか!」
「……いえ、恐らく最初は旦那様自らお嬢様を連れていくと思いますので、お坊ちゃまはこのままもう少しお勉強です」
「えぇ!? なんでだよー!!」
ぶーぶーと文句を口にするユリウスに、カミラは大きく溜め息を吐く。
アースランド家に馴染むことが出来た一因。そこには、こうして遠慮なく自分をさらけ出し、さりとて貴族らしい傲慢さを見せるわけでもない、良くも悪くも子供らしく、対等な友達のように気さくに接してくるユリウスの存在もあるのだが、それにカミラが気付く日が来るかどうかは、定かではない。
アースランド領、などと大層な呼び名はついているが、早い話がただの村である。
故に、それを治めるアースランド家の役割も、他の大貴族が無数に抱える村の一つを管理する、村長と大して変わらない。
ではなぜ、騎士爵という爵位まで与えられ、貴族を名乗れるのか。それは、ひとえにアースランド領が保有する広大な森、ビルフォレスト。別名、“魔の森”とも称されるその場所の特殊性に理由がある。
この森の土壌には、魔法発動の源となり、地上に存在するあらゆる生物や物品が内包しているとされる不可視のエネルギー、魔力が大量に含まれており、その濃度は森の中心へ向かうほど濃くなっていくという特徴がある。
この魔力を大量に吸い上げて育った樹木こそが魔木と呼ばれ、本来育つはずだった種の特徴を残しつつも、より強靭に、そして人が発する魔力や魔法の効果をより受け付けやすい性質となるため、魔道具や船の建材に適した素材となる。
この魔木を初めとした資源を巡り、隣国であるチェバーレ帝国とは長年争い続けてきた歴史があるため、それを牽制し、いざという時は国を守るための尖兵として機能させることを目的として、英雄として名を馳せたカロッゾの父はアースランドの家名と共に、この領地を任されたのだ。
「……と、いうわけだ」
「へ~、そうだったんですか。王様から頼りにされるなんて、お爺様ってすごい人だったんですね」
「ああ、俺の誇りだよ」
領内の視察に同行させて貰えることになったリリィは、カロッゾに抱えられるような形で馬に乗せられ、村の中を見回りながらアースランド領の成り立ちについて教わっていた。
自身が転生してくる前に亡くなったという祖父の話はこれまでも度々耳にしていたが、こうして改めて聞くと、どうやら英雄の名に恥じない人物であったらしい。
領民からとても慕われ、頼りにされる領主だったようで、そんな偉大な父を超えることがカロッゾの目標だと語られる。
「まあ、カタリナに頼り切りの今の俺では、父上を越えるのは中々難しいがな。それでもいつか、ここを王都にも負けない大都会にしてみせるからな。リリィも楽しみにしててくれ」
「はい! お父様ならきっとできます、頑張ってください!」
自らが住む領地でさえ今日初めて目にしたリリィには、カロッゾが打ち立てた目標がどれほど困難なのか、正確なところは分からない。
それでも、しっかりと自分の現状を踏まえ、彼なりに日々懸命に仕事をこなす姿を知っているだけに、リリィとしても応援したくなる。
何よりも、先ほどから領内で会う人が皆、カロッゾに対して親しみと敬意の篭った目で挨拶しているところを見れば、彼が決して父親の威光や妻の手腕に頼るだけの男でないことくらいは分かる。
今も、黄金の穂を絨毯のように一面に実らせた麦畑の前を通りかかると、ちょうど収穫作業中だったらしい老夫婦が顔をあげてにこやかに手を振って来た。
それに対して、リリィもまた元気よく挨拶を返すと、夫婦揃って驚いたような表情を浮かべ、口々にリリィの体を気遣い、あるいは快復を祝ってくれる。
リリィはこれまで全く意識してこなかったが、どうやら自分の存在はとっくに領内に知られていたらしい。しかも、どうやら寝たきりだったことを相当心配されていたようだ。
こんなことなら、もう少し早く外に出ても良かったかもしれない。
「リリィ、どうした?」
そう考えていると、不意にカロッゾから心配そうに声をかけられた。
あまり意識していなかったが、知らぬ間に自分の耳を抑えていたことに気付いたリリィは、慌てて手を離してパタパタと振った。
「あ、いえ、大丈夫です。その、ちょっと耳鳴りがするだけですから……」
「耳鳴り? 具合が悪いのか?」
「体の方は大丈夫です。えっと、その……多分、あれのせいだと思うんですけど、あれって何ですか?」
「ん?」
リリィが指差した先には、畑を囲うように設置された柵に取り付けられた、太陽の光を受けて黒く輝く大きな水晶があった。
よく見れば、水晶の表面には何やら幾何学的な模様と共に文字が刻まれており、薄らと発光している。
「ああ……あれは森からやって来る動物を畑に寄せ付けないための魔道具だな。カタリナが作った物なんだが、動物が嫌う波長の魔力を放出し続ける魔法がかけられている。一応、人に影響がないように調整されているはずではあるんだが……」
「なるほど、あれがそうなんですか」
話には聞いていたが、実際に目にするのは初めてで、その神秘的な物体にリリィは目を奪われる。
しかし、意識を集中すると少しばかり耳鳴りが強くなり、思わず顔を顰めた。
そんなリリィの様子を見てとったカロッゾは、少し待っていろとリリィに告げると、馬を降り、魔道具の元まで歩み寄って手を翳す。すると、仄かに灯っていた光が消え、何の変哲もないただの水晶に戻った。
「これでどうだ?」
「はい、収まりました。すみません、迷惑かけて……」
「気にするな。むしろ、村のみんなに本格的な悪影響が出る前に気付いてくれて助かった」
発光が収まった魔道具を抱えて戻ってきたカロッゾにお礼を言われ、リリィは照れながらも嬉しそうに顔を綻ばせる。
なんでも、この魔道具はまだまだ研究の途上で、今はこうして畑に設置し、効果を確認している最中なのだという。
放出される魔力の調整はカタリナが直接行っているのだが、実際に試してみなければ分からない部分も多くあるため、恐らくは大人に比べて体内の魔力が不安定な子供に影響を及ぼしてしまっていたんだろうとカロッゾに説明された。
そうした話を聞き、なるほどと一つ頷いたリリィは、改めて魔道具に守られていた畑を見て、少しだけ不安そうに表情を曇らせる。
「やっぱり、こういう物がないと畑が被害を受けることが多いんですか?」
「ああ。村が森に囲まれている以上、どうしてもそうした被害は多くなる。柵で囲ったり、罠を設置したりと色々やっているんだが、思うようには効果が出ないのが現状だ。最近ではユリウスも、動物を見かけると子供達を引き連れて狩りだなんだと追いかけ回しては、森まで追い払ってくれているんだが、中々な」
「へ~、お兄様、勉強をサボって何してるのか気になってましたけど、ちゃんとみんなのために頑張ってたんですね。すごいです!」
「ああ。もっとも本人は、勉強から逃げる口実だとでも思っていそうなのが困りものだが」
実際のところ、子供数人が追い回した程度でどうにかなるなら誰も苦労していないのだが、それはそれとして……たとえそれが勉強から逃げる口実であったとしても、村のためになることを率先して取り組んでいるというのは良い事だろう。
ともあれ、そうした事情を改めて聞いたわけだが、やはり獣害問題をどうにかする手段は思い付かない。直接目にすればまた変わるかとも思っていたのだが、カロッゾから話を聞く限り、これ以上リリィに出来ることはないように思える。精々、カタリナの魔道具作りのために話を聞いて回るくらいだが、今回は偶々リリィが気付いたというだけで、それくらいは既に行われているだろう。
(いっそ、私もお兄様と一緒に狩りを……うーん、でも、今の私が参加した程度じゃ、大して変わらないですよね……いえ、諦めちゃダメです。お兄様だって、あんなに小さいのに自分で出来ることを見つけて頑張ってるんですから、私だって……!)
客観的に見ればリリィの方が小さいのだが、本人にとってはそうではない。
体が弱かろうと何だろうと、そんなことは言い訳にもならない。働かざる者食うべからずだ。
そんなことを考えていると、ポンッと頭にゴツゴツとした掌が置かれた。
「あまり気にするな、リリィ。お前はこれからゆっくり成長していけばいいんだからな」
「はい……ありがとうございます」
優しく頭を撫でられ、目を細めるリリィ。
その瞳には、微かな焦りの色が浮かんでいた。