第二十一話 黄金騎士
「……えっ」
切り裂かれたリリィの体が、残像のように消滅する。
そんな光景を前にして、リリィは呆然と呟いた。
殺意の炎に身を焦がしていたタイラントベアもまた、不可解な現象に困惑しているのか、鉤爪を振り切った状態のまま固まっている。
「リリィから離れろッ!! この化け物がぁぁぁ!!」
そんな両者の元へ、腰から木剣を引き抜いたユリウスが迫る。
魔物相手では、刃のない剣で殴ったところで大した意味はない。元々、訓練で必要以上に怪我をしないために使うのが木剣なのだから、それも当然だ。
そんなことは、ユリウスとて百も承知。狙うは、リリィに攻撃するために前屈みになり、手頃な高さにある頭。
「うおぉぉぉぉ!!」
雄叫びと共に腰だめに構えた木剣を突き出し、全身の力に体重を乗せた渾身の一撃を繰り出す。
魔法による強化がなされていないその一撃は、決して強力とは言い難いが、十にも満たない子供が放ったとは思えないほど正確無比に、狙った場所……タイラントベアの眼窩へと突き刺さる。
「ガアァァァァ!?」
途中で骨に阻まれ、先端部分しか刺さることはなかったが、それでも片目を潰すには十分だった。
生まれて初めて受けたであろう激痛に、タイラントベアは絶叫を上げ、のたうち回る。
「……リリィッ!!」
「きゃっ」
その隙に、ユリウスはリリィの体を抱き上げると、急いでその場から離れていく。
視界が突然閉ざされ、パニックを起こし滅茶苦茶に暴れるタイラントベアに巻き込まれてはたまったものではない。
「あの、さっきの、お兄様が……?」
「ああ、《幻影》を使ってリリィの幻を作った。ギリギリだったけどな!」
抱き上げられたまま尋ねるリリィに、ユリウスは若干苛立った様子で答える。
《幻影》の魔法は以前に見せて貰ったことがあるが、まさかあのタイミングから発動を間に合わせるとは思わなかった。
兄の思わぬ成長ぶりに驚くリリィだったが、ユリウスにキッ! と睨み付けられて、びくりと体を震わせる。
「それよりも……どうしてあんなことしたんだよ! 死にたいのか!?」
「あ、あんなことってなんですか! 私が割り込まなかったら、お兄様こそ死んでたんですよ!?」
「だからって、リリィまであんな危険な真似する必要ないだろ!? 魔法もロクに使えないのに、無茶するんじゃねえ!!」
「で、でも……!!」
咄嗟に反論しようとするリリィだったが、それを遮るようにタイラントベアの咆哮が響く。どうやら、片目を潰された衝撃から立ち直ったらしい。
その間に大分距離が開き、木材倉庫の近くまで逃げてきたが、魔力暴走で満足に動けないリリィを抱えながらでは、すぐに追い付かれてしまう。
ユリウスもまたそう判断したのか、その場にリリィを下ろすと、再び木剣を構えて踵を返した。
「お兄様、何を……!」
「俺が少しでも時間を稼ぐから、その間にリリィは這ってでも逃げろ!」
「そんなのダメです! お兄様一人じゃ……!」
「二人揃って死ぬよりいいだろ! リリィが死ぬくらいなら、俺が……!」
「絶対に嫌です!!」
もう、時間がない。
だからこそ、リリィは自分の言いたいことを、様々な想いとともに精一杯叫ぶ。
「死んだら、一人なんです……寂しくて、辛くて、苦しくて……そんなのはもう嫌なんです!! 私はもう二度と……家族と離れ離れになんてなりたくない!!」
転生した時、たった一人異世界に放り出された不安と孤独に頭がおかしくなりそうだった。
本当に、新しい家族が彼らでなければ、今頃どうなっていたか分からない。
そんな思いを、リリィ自身もう二度と経験したくなどないし……何より、大切な兄に同じことを味わわせるなど絶対にごめんだ。
「だから……それを邪魔するのなら」
「ガアァァァ!!」
そうこうしているうちに、タイラントベアがすぐ目前にまで迫ってきた。
もう逃げられないと悟ったユリウスは、せめてもの抵抗としてリリィを庇うため魔力を活性化させていくのだが……そんな彼の前に、リリィは自ら足を踏み出した。
「リリィ何して……」
「私も、戦います」
一度は諦めた自分の命を、ユリウスが繋いでくれた。
だから、次は自分の番だ。
そう、確固たる決意で前を向いたリリィは、未だ体内で燻る魔力の枷を強引に解き放つ。
「ぐ、うぅ……!」
その瞬間、幼い体に収まりきらない膨大な魔力が、嵐のように激しく周囲に吹き荒れる。
無秩序に暴れる魔力の渦は大気と混ざり、反応し、音を立てて火花を散らす。
身体中が熱を持ち、内側から砕け散りそうな痛みが走るが、歯を食いしばって耐えながら、顔を上げる。
「リリィ、何してんだ!! そんな無茶苦茶な魔力の使い方したら、お前の体が……!!」
「お兄様、は……目、瞑って……離れて、ください……今から、魔法、使います……!!」
魔法は、必要十分な魔力量と、しっかりとした詠唱や魔法陣さえあれば“発動までは”誰でも出来る。
そして、その精度や効率などは魔力制御能力に比例するが、威力そのものは込められた魔力量によってどこまでも上がっていく。
つまり、理論上、リリィは誰よりも強力な魔法が放てるはずなのだ。
ただ、制御が効かないという致命的な問題を考慮しなければ。
(神様でも、精霊様でもなんでもいい。私の魔力ならいくらでもあげます。だから、お願い……私に……お兄様を守れる魔法をください……!!)
いるかどうかも分からない神に祈り、精霊に祈り、ただただ奇跡を願いながら、リリィは目の前の魔物へと小さな手を掲げる。
未だ木剣の一つも持ち上げられないようなか細いその手で、自分の体一つ満足に支えられない震える足で、それでもこいつだけは止めて見せると、不退転の決意を込めて。
『光の、精よ……その眩き、輝きで……闇を、払え!』
魔力暴走による発熱で朦朧とし始めた意識の中、リリィは震える声で詠唱を紡ぐ。
選んだのは、ユリウスが得意とし、何度か実演して見せてくれた光の魔法。
その短い詠唱に込められたリリィの想いに魔力が応え、荒れ狂う魔力が眼前に集うと、タイラントベアに向け容赦なく解き放たれた。
『《閃光》ーー!!』
その瞬間、小さな太陽が出現した。
細かな制御など一切されず、ただ全力で魔力を込めて放たれた閃光は、敵も味方も関係なく無作為に周囲を蹂躙し、瞼一枚では抑えきれないほどの光量を以て両者に等しく突き刺さる。
「グオォォォォォ!?」
その強烈な光を至近距離から直視したせいで、タイラントベアは残ったもう片方の目の視力さえ完全に失った。
しかし一方で、魔法を放ったリリィ自身は視力を失うことこそなかったが、魔法が不完全ゆえに発生した余計な熱や衝撃波が襲い掛かり、リリィの全身を焼きながら大きく吹き飛ばす。
小さな体は何度もボールのように地面を転がり、そのまま血反吐を吐いて苦しげに呻く。
「あう! ぐ……ぅ……」
「っ、リリィ、大丈夫か!?」
すぐさまユリウスが駆け寄るが、力尽きたようにぐったりと横たわるリリィの状態は酷かった。
一度は落ち着いた魔力暴走がぶり返し、顔色は青白く生気を失っているにも拘わらず、魔法の余波を受けた体は露出部分が火傷を負い、赤く腫れ上がっている。
薄らと開けられた目は充血して真っ赤に染まり、鼻血が止まらない。
そんな状態のまま、リリィは小さく口を開く。
「だい、じょうぶ……とは、言えませんけど……ちゃんと、生きて、ますよ……えへへ」
「えへへじゃないっ、あんな無茶して、本当に死ぬとこだったんだぞ!?」
「死なない、です……私……お兄様、と……帰……」
「っ、もういい、喋るな。早く逃げるぞ」
ボロボロになりながら、それでも笑みを浮かべようとする妹の姿を見ていられず、ユリウスはそう言って無理矢理会話を打ち切る。
タイラントベアの両目は潰れたが、まだ死んだわけではない。こうしている今も、視界が完全に塞がれた頭を地面に擦り付け、暴れまわっている。いつまでもここにいては危険だった。
木剣を捨て、出来るだけ優しくリリィを抱き上げたユリウスは、そのまま走り出そうとして……。
ぐりん、と、タイラントベアの頭が自身の方を向いたことで、全身に悪寒が走った。
「ガアァ!!」
「うわぁ!?」
咄嗟にリリィを抱えたまま飛び退いたユリウスの後ろを、ぶおん、と空気を引き裂く音と共に鉤爪が通りすぎ、地面を抉る。
「な、なんで……まさか、もう目が見えるようになったのか?」
リリィが放った閃光は、間違いなくこの魔物の目を潰したはずだ。それなのに、まるでそんな事実はなかったかのようにユリウス達へと正確に向き直り、鉤爪を構えている。
「グルル……」
「く……そぉ……!」
化け物。
自分自身で呼称したその呼び名が、まさに目の前の魔物にはぴったりだ。
もう、ここから何をしようとも、この化け物には敵わない。そんな絶望が全身を蝕んでいく。
「ガアァァァ!!」
「っ!!」
せめてリリィだけでも、と、ユリウスはリリィの上に覆い被さるが、そんなものは気休めにもならない。地面にすら穴を穿つその鉤爪は、容易くユリウスの体ごとリリィを引き裂くだろう。
そうして、雄叫びと共に振り下ろされた鉤爪は……。
『《防護》!』
二人に触れる直前に不可視の壁に阻まれ、甲高い音を上げて弾き返された。
「ガルルァ!!」
怯んだタイラントベア目掛け、漆黒の狼が飛び付くと、その後ろ足に噛みついた。
まだ幼い子供の身で繰り出されたその牙は、分厚い毛皮と筋肉に阻まれ大した痛手にはならないが、タイラントベアの注意を引くことには成功する。
「……ふっ!!」
そこへ更に、一人の大男が飛び込んで、腰から抜いた剣でタイラントベアの胴を切り裂く。
鮮血が飛び、絶叫を上げるタイラントベアを油断なく見つめながら、男はユリウスとリリィを庇うような位置に陣取った。
「……なんとか、間に合ったな」
「来るのが遅くなってごめんなさい。リリィ、ユリウスも、大丈夫!?」
「ガウッ!」
男に続き、最初に魔法で二人を守った女性と、タイラントベアから距離を置いた狼が駆け寄って来る。
彼らの姿を見て、ユリウスは感極まったように声を上げた。
「父様、母様、オウガ!!」
「っ! リリィ! これは……!」
駆け寄ってすぐ、カタリナはリリィの状態に気付き、顔を青くした。
今すぐにでも処置しなければ、命に関わる。体の内も外も、それほどに重症だった。
オウガも何となくそれを察しているのか、いつになく元気のない声で鳴きながら、リリィの手を舐めている。
「母様、リリィはそんなに悪いのか? 死んだりしないよな!?」
「大丈夫。絶対に助けるから、安心して。……ユリウス、リリィのこと、よく守ってくれたわね。偉いわ」
「いや、俺は……」
今にも泣きそうな顔をしたユリウスに、カタリナは安心させるように出来るだけ穏やかに笑って見せる。
顔を俯かせるユリウスだったが、カタリナはそんな彼の頭を優しく撫でながら、再び表情を引き締めた。
「あなた、私はこのまま治療に入るけれど、そっちは一人で大丈夫かしら?」
「問題ない、子供達を頼む」
「分かった、気を付けてね」
即答するカロッゾに、カタリナもまた最初からその答えを分かっていたかのように頷くと、手にした杖を掲げ《防壁》と唱える。
すると、カタリナの指先から発した魔力が杖の中を駆け巡り、織り込まれた式の中から一つの魔法陣を紡ぎ出し、その力は即座に魔法となって発現する。
それだけで、瞬く間にカタリナを中心に半径三メートルほどの結界が張られ、カロッゾとタイラントベアを残して他の全員を外界から隔離してみせた。
これで、相互に見たり聞いたりすることは出来ても、危害を加えることはもちろん、出入りすることさえ出来ない。
「待って、ください……私なら、大丈夫ですから……先に、お父様の援護を……」
それに気付いたリリィが、声を上げる。
ユリウスと共に相対し、タイラントベアの恐ろしさは見に染みて理解している。いくらなんでも一人では危険だと、そう訴えようとして、それよりも早く、カタリナに止められる。
「大丈夫」
リリィの口に人差し指を当てたまま、カタリナは再度杖を掲げ、《沈静》、《治癒》と立て続けに魔法を唱える。
結界の魔法を維持したまま、二つの魔法を同時に行使するなど、並大抵のことではない。ほとんど失敗に等しい形とはいえ、魔法を自力で発動させた今だからこそ、リリィにはそれがよく分かった。
「あなたのお父さんは、強いから」
それだけの妙技を身に付けたカタリナが、全幅の信頼を置いている。
魔法の効果で魔力が少しずつ落ち着きを取り戻し、傷ついた体が癒えていくのを感じながら、リリィの不安までもがその言葉で取り去られていく。
「タイラントベア、か……随分と大物が現れたものだな」
一方のカロッゾは、カタリナが結界を張った時点で子供達の心配をする必要がなくなり、目の前の魔物に意識を集中させていた。
普段着と変わらない服装に、手甲のみを両腕に取り付けた一見不自然な恰好の彼は、右の手甲に魔力を注ぎ、そこに刻まれた魔法陣によって身体強化魔法を発動しつつ、剣を構えて相手の出方を伺う。
「ガアァァァァ!!」
そこへ、再びタイラントベアが突っ込んでくる。
カロッゾに斬られたばかりだというのに、まるで邪魔な障害物を払いのけるかのように適当に振るわれた鉤爪を、カロッゾは難なく剣で弾き、お返しとばかりにその足を軽く斬りつける。
「グオォ!?」
「俺の強化魔法よりも力は上だが……どうやら、目は見えていないようだな。魔力を感じ取って目標を見定めているのか? だからこそ、俺よりも奥にいるカタリナやリリィが気にかかる、と」
「ガァ、ガァァ!!」
カロッゾの問いかけに、タイラントベアは再び鉤爪でもって返す。
元々、リリィのように魔力から魔物の感情を読み取れるわけでもないカロッゾとしては、特に返事を期待したわけではなく、現状把握のために呟いただけだ。さほど気にすることもなく、その鉤爪も剣で受け流す。
「しかし、だとすると困ったな。色々と気になることもあることだし、出来れば捕獲してカタリナに調べて貰いたかったが……こう暴れられては、捕獲など出来んではないか」
「ガル、ガァ……ガアァァァァ!!」
幾度鉤爪を振るおうと、どれだけ力を込めようと、タイラントベアの攻撃はカロッゾに傷一つ付けることはおろか、その足を一歩後退させることさえ叶わない。
魔力量も、筋力も、体格も、何もかもが自分より劣るはずの人間相手に手も足も出ないでいる不可解な状況に、タイラントベアはリリィに感じていたのとは全く別の恐怖を感じ、狂ったように暴れ出す。
「ならば、仕方ない。ここはやはり、子供達を甚振ってくれた返礼をするとしよう」
仕方ない、と口にしつつも、カロッゾの瞳には燃え盛る炎のような怒りが灯っており、たとえ捕獲が可能であったとしてもそうしていたかは怪しいものだ。
タイラントベアの一撃をいなし、押し退け、僅かに距離を開けると、カロッゾは自身の振るう剣の柄部分に刻み込まれた魔法陣へと、更なる魔力を注ぎ込む。
「この一撃で、終わらせる」
輝きを増す魔法陣から、金色の光が溢れだす。
溢れだした光が剣に集って収束し、黄金の剣身を作り出す。
身長の優に数倍はありそうな巨大なそれを、カロッゾは普通の剣となんら変わりないかのように両手で構え、ゆっくりと振り上げる。
『《光刃断絶》』
簡易な魔法言語の呟きと共に、より一層輝きを増した剣が一直線に振り下ろされる。
まるで、天から振り下ろされた雷神の一撃のようなそれは、怯えるタイラントベアを容易く飲み込むと、轟音を立てて大地を揺らし、そこに黄金の柱を打ち立てる。
やがて、それすらも消え去って、辺りに静寂が戻ると――そこには既に、巨大なクレーターしか残されてはいなかった。
「……気持ちは分からないでもないけど、やり過ぎよ、バカ」
頭を抱え、溜息を吐くカタリナだったが、父の本気を初めて目の当たりにしたリリィとユリウスの二人は、それどころではなかった。
「すごい……」
自分達がどう足掻いても敵わなかった相手を、いともあっさりと倒してみせたその圧倒的な実力に、二人は畏怖と尊敬の念を抱き。
カタリナの治療を受けながら、ただ呆然と呟くのだった。




