第二十話 狂気の暴君
さほど、森の中まで足を踏み入れたわけではない。
それこそ、ほんの十メートルも移動すれば、森を出ることが出来るような位置だ。
それなのに――
「なんだよ、これ……」
ユリウスは、目の前で起きた光景が未だ信じられなかった。
何本も連なっていた木々が幹から一瞬で切り倒され、一本の獣道が現れる。そこにいたのは、一体の巨大な熊。
単なる熊であってもユリウスにとっては脅威だが、目の前にいる存在はそんなものとは比較にならない覇気を纏っていた。
通常の熊より一回り大きな漆黒の巨体を後ろ足のみで器用に立ち上がらせ、ユリウスを見下ろすその姿はさながら王者の如く。
自由になった二本の前足からはそれぞれ三本の鉤爪が鋭く伸び、あらゆる物を切り裂き屠る。
タイラントベア――もしこのように人里近くで発見されれば、即座に討伐のための騎士や専門の狩人が派遣されるような、恐るべき魔物だった。
もちろん、そのような知識を僅か七歳のユリウスが正確に知っているわけではないが……精霊の耳のような力がなくともビリビリと伝わってくる魔力の波動が、その巨体が、分かりやすい破壊の跡が、自らの敵う相手ではないと雄弁に物語っている。
「グルル……」
「ぐ……」
早く逃げなければと、ユリウスは自らの魔力を高め始める。しかしそこで、ふと頭に疑問が過った。
(どこに、逃げる……?)
村の中へ、と考えて、すぐさまそれを切り捨てる。こんな恐ろしい魔物を、むざむざ村の中まで誘導しては、どんな被害が待っているか想像もつかない。アースランド領で強力な魔物に対抗できるのは、領主家のカロッゾとカタリナ、バテルの三人と、従騎士のクルトアイズ、スコッティの計五人だけだ。専門の狩人はおらず、村人達では逃げることしか出来ない以上、そんなところに逃げ込むわけにはいかない。
曲がりなりにも騎士の卵として育てられた義務感と、純粋に領民を想う心。それらが迷いを産み、咄嗟の判断が下せないでいるユリウスに、タイラントベアは容赦なく襲いかかった。
「ガアァァァァァァ!!」
『ひ、光の精よ、その眩き輝きで闇を払え! 《閃光》!!』
鉤爪を振り上げるタイラントベアに対し、ユリウスは咄嗟に、事前に準備していた魔法を放つ。
事前にと言っても、精々魔力を活性化させ、いつでも放てるように構えていただけだが、その僅かな違いが明暗を分けた。
「グオォォォ!?」
突如として視界を白に塗り潰され、混乱したタイラントベアの鉤爪が空を切る。
ユリウスから逸れ、代わりに地面に突き立ったそれは、まるでバターを切るかのようにあっさりとそこに三本の溝を穿った。
自身のすぐ真横で振るわれた鉤爪の威力を前に、ユリウスの背中を冷たいものが伝っていく。
「ガル! ガウゥ!」
目が眩んで一時的に失われていた視力が元に戻ったのか、タイラントベアは何かを振り払うかのように頭を振ると、ユリウスを睨み付ける。
先ほどまでと違い、ユリウスを明確化な脅威だと――敵だと認識したタイラントベアの全身から溢れだした殺意が、ユリウスただ一人へと叩きつけられる。
「う……うわぁぁぁぁ!!」
沸き上がる恐怖心のままに、ユリウスはその場から逃げ出した。
周りへの配慮も、どこへ向かえば安全かも分からないまま、ただ恐怖の根源から離れようと必死に腕を振り、先へ先へと足を動かす。
当然、タイラントベアもその後を追うが、魔力によって発達した鉤爪が邪魔になり、四足歩行が出来なくなった体ではあまり速度が出ないのか、それほど間合いを詰められなかった。
このまま行けば逃げ切れるかもしれない。そんな希望が見え始めたユリウスだったが、森を出る直前、地面から張り出した木の根に足を取られて転んでしまう。
「あぐ!?」
慌てて起き上がろうとするが、もう遅い。
ユリウスが足を止めている間に距離を詰めたタイラントベアが、無防備なその体を今度こそ引き裂こうと、腕を振り上げる。
「あ……」
死。それが目の前に迫ってくるのを眺めながら、しかしユリウスにはもう、何も出来なかった。
恐怖で凍り付いたように動かない舌は詠唱を紡ぐ余裕もなく、転んだ状態では回避することも出来ない。
全てを諦め、ぎゅっと目を瞑るユリウスだったが……待てども待てども衝撃は襲って来なかった。
恐る恐る目を開けると、そこには自分ではない、別の誰かを警戒するように佇むタイラントベアの姿と……。
「お兄様から……離れて!!」
手に持った石を投げつけた格好のまま必死に叫ぶ、小さな妹の姿がそこにあった。
「リリィ!? どうしてこんなところにいるんだ、早く逃げろ!!」
「お兄様こそ、早くそこから離れてください! 私が引きつけますから!」
そう言って、リリィは新たな石をタイラントベアへと投げつける。
それまで一直線に村を目指していた“声”が、その手前で突然足を止めた時点で、嫌な予感はしていた。
それが再び走り出し、無差別に撒き散らされていた殺意が特定の何かへの敵意に変わったことで、嫌な予感は確信へと代わり、辿り着いたその場所で案の定ユリウスが襲われているのを見た瞬間、咄嗟に近くに落ちていた石を投げつけたのだが……。
正直なところ、ここから先はノープランだった。
(とにかく、今はあの魔物をこっちに引き付けないと!)
魔物は人よりも魔力に敏感で、魔力を撒き散らす存在を見るとそれを獲物、ないし敵とみなし襲い掛かって来る習性があるという。
魔物を前にしてやるにはかなり危険だが、今はとにかくユリウスから引き離さなければと、後先考えずにリリィは自身の魔力を活性化させる。
しかし、その行動は思わぬ結果をもたらした。
「グ、ガァ……」
タイラントベアは、目の前にいるユリウスも、挑発してきたリリィを襲うでもなく、ただその場で震え始めた。
まるで、得体の知れない化け物を見て怯えているかのように。
(怯えてる……? 私に?)
そんなタイラントベアの反応を敏感に感じ取ったリリィは、ふとオウガが自身に懐いた理由について、カタリナから聞かされた内容を思い出す。
魔物は確かに、他者の魔力を敏感に察知し、襲い掛かってくるが……逆に、自らよりも強大な魔力を持つ相手に対して怯え、避けようとするため、上位者に従い群れを成す狼の本能が、リリィへの服従という形で現れたのではないかと。
(だったら、上手くすればこのまま追い払えるかも……!)
そう判断し、リリィは更に魔力を高めるべく、自身の内側に意識を集中する。
「リリィ、何を……!?」
「あの魔物、何とか追い払えないか、やってみます……!」
恐怖のせいか、未だ動けないでいるユリウスの問いかけに答えながら、リリィは細心の注意を払って魔力を活性化させていく。
目を覚ますなり勝手に暴れ回ろうとする魔力をなんとか抑え、タイラントベアに向けてゆっくりと放出すると、タイラントベアはそれを恐れるように一歩後退した。
(やっぱり、私の魔力に怯えてる。だったら、このまま森の奥まで追い払うことも……!)
ほんの少し魔力を放っただけで、体中が熱を持ったかのように熱くなってきたが、だからと言って今更やめるわけにもいかない。
少しずつ放出する魔力を増やしながら、そこに拒絶と抵抗の意思を込め、タイラントベアに投げかける。
「あなたの居場所は、ここじゃありません……出て行ってください……!」
魔力だけでなく言葉でもそう言い放ち、一歩タイラントベアに近づけば、タイラントベアは二歩下がる。
それまでの暴君さながらの威勢は鳴りを潜め、怯えたような声を漏らすその仕草に、ユリウスも目を丸くする。
(もう少し、もう少し……!)
逃げ場を残すように、過度に刺激し破れかぶれの特攻を仕掛けられないように、リリィは慎重にタイラントベアを威圧していく。
今にも逃げ出しそうなタイラントベアの様子に確かな手応えを感じ、いける、と確信を覚え――
不意に、リリィの視界が揺れた。
(あ……)
ここ数日の睡眠不足に、ここに来るまでの急な運動。更には、未だ訓練を始めて一週間程度の未熟な魔力制御で行った威圧行為と、それに伴う軽度の魔力暴走。
それらの要因が重なった結果、リリィはめまいを起こし、ほんの一瞬、意識が遠のく。
ただでさえ制御の甘かった魔力が拡散し、タイラントベアにかかっていた精神的な圧力が緩む。
――コロセ!!
その瞬間、タイラントベアの心が再び猛烈な殺意に埋め尽くされた。
「ガアァァァァ!!」
「そんな!?」
僅かに一瞬緩んだ程度で、まさかこうもあっさりと恐怖を殺意に反転させるとは思わず、リリィは驚愕のあまり完全に思考が止まってしまう。
動きを止めたリリィに向かって、タイラントベアはなりふり構わず突き進み、その腕を振り上げる。
「リリィ!!」
それに気付いたユリウスが、慌てて立ち上がりリリィの方へと駆け出すが、もう間に合わない。
タイラントベアの血走った眼はもはやリリィしか映しておらず、先ほどのように石を投げた程度ではもはや止まらないだろう。
「……くっ……あぅ……!」
何とか逃れようとするのだが、フラつく足は言うことを聞かず、その場に倒れ込んでしまう。
魔力で威嚇しようにも、一度制御を離れ霧散した物をもう一度纏め直すには時間がかかる。
打つ手が無くなったリリィは、最後にユリウスの方へと顔を向けた。
こちらに手を伸ばし、泣きそうな顔をしている兄に向け、リリィはその瞳から一粒の涙を零す。
「お兄様……」
もっと、たくさんお話したかった。
一緒に遊んで、勉強して、ご飯を食べて……いつまでも、傍にいたかった。
いくつもの後悔が降って湧いて、その中で、最後に一つだけ、せめてこれだけはと、小さく口を開いた。
「ごめんなさい……」
いつも、心配ばかりかけて。
いつも、迷惑ばかりかけて。
いつも……何一つ、力になってあげることすら出来なくて。
ごめんなさい。
『――――!!』
ユリウスが必死に何かを叫ぶ声を聞きながら、それだけを口にすると。
タイラントベアの振り下ろした鉤爪が、リリィの体を容赦なく引き裂いた。




