第二話 はじめてのお手伝い
第一章終了までは毎日更新します。
アースガルド大陸の南端に位置する国、ストランド王国。
漁業や海洋貿易で栄えた港町を興りとするこの国は、広大な森や鉱山などを始めとした資源地帯を多く保有する一方で、放牧や農耕に適した広い土地が少なく、国土の割に人口は少ない。
代わりに、貿易によってもたらされた数多の技術……特に、魔法に関する物を一つに纏め上げ、独自に発展させてきた歴史を持ち、今では大陸屈指の魔法大国としてその名を轟かせている。
そんな王国の西側、辺境と言って差し支えないそこに、一つの村がある。
森に囲まれるようにして存在するこの村では、麦や野菜の栽培なども行ってはいるが、狩猟や採集、林業など、主に森の恵みに頼って生計を立てており、立ち並ぶ家屋も、どこか素朴な雰囲気漂う木造建築のものばかりだ。
そんな村の中央に、他の家屋とは一線を画する大きな建物がある。
この村を治める領主が住むその屋敷で、今まさに、新たな命が誕生しようとしていた。
「お、おい、この子、泣き声を上げないぞ、大丈夫なのか!?」
「私達が処置いたしますので、旦那様は奥様の傍にいてあげてください」
筋骨隆々の大男が情けなくも狼狽え、青い顔をしている。
その鍛え上げられた肉体は、普段であれば見る者を圧倒する迫力に満ちているのだが、今この瞬間の彼を見て、そんな恐ろし気な威圧感を感じる者はいないだろう。戦場における彼の雄姿を一度でも目にしたことがある者ならば、目の前にいるのがそれと同一人物であるとは信じられないかもしれない。
しかし、実際に今この場にいる者達としては、そんな情けない彼の姿を目にするのも既に二度目。三年前、長男を出産した時とまるで変わっていない彼の反応に、呆れるやらほっこりするやら、様々な表情を浮かべている。
そんな彼女達ではあったが、時が経つに連れてその表情は険しくなっていく。
三年前と異なり、今回は本当に赤子が命の危機であると。
「あなた……子供は、大丈夫なの……?」
不安は伝播し、お産の疲れで横たわる一人の女性が、気弱な声を上げている。
それを聞き、ようやく騎士としての心構えを取り戻した男は、愛する妻の手をしっかりと握り締め、力強い言葉を贈る。
「ああ、きっと大丈夫だ。俺達の子を信じよう」
自分にも言い聞かせるように紡がれたその言葉に、妻もまた精一杯の頷きを返す。
分娩のために割り当てられた部屋の中、慌ただしく動く物音が響き、矢継ぎ早な指示が飛ぶ。
そんな中、件の赤子は混乱の渦中にあった。
(えっ、何これ、どういうこと?)
言葉は発せず、体も動かず、視界は酷くぼやけ、聞こえてくるのは全く知らない言葉ばかり。
記憶は混濁して意味をなさず、はっきりとしない意識の中では、自分の状況すら正確に把握できない。
(僕は確か……トラックに轢かれて……)
それでも、少しずつ記憶が整理されていくにつれ、様々なことを思い出していく。
自分の名前、暮らしてきた世界の知識、最後に聞こえた不思議な声。そして……自らの最期。
(死んだ、の……?)
その事実が、ストンと胸の中に落ちた。
自分は間違いなく死んだのだと、理屈抜きで理解できる。
(そんな……それじゃあ、みんなとはもう……会えないの……?)
親しい家族や友人達。彼らと過ごした思い出が再び蘇り、それを失った深い悲しみと寂しさが胸中を満たしていく。
溢れだした感情は涙となり、それはこの世界で初めて上げる産声となって放たれた。
「オギャア、オギャーーーー!!」
「ああ、良かった。奥様、ご領主様、元気な女の子ですよ!」
産婆の一人に抱えられ、赤子が母親の下へと届けられる。
泣くのが遅くなった分を取り戻すかのように泣き続けるその子を、母親は愛おしそうに見つめる。
そんな光景を見て、父親は男泣きに泣いていた。
「良かった、本当に良かった……!」
「ええ。この子を助けてくれたこと、精霊の導きに感謝しないと」
「そうだな、その通りだ。それでカタリナ、その子の名前は決まっているのか?」
「ふふ、女の子だったら私が決めるという約束だったものね。大丈夫、決まっているわ」
未だ泣き止まない我が子を、母親は優しく胸に抱く。
誰も知ることのできない、深い悲しみに暮れていた赤子は、母の温もりに包まれて、その泣き顔をほんの僅かに緩ませる。
「この子の名前は、リリアナ。リリアナ・アースランドよ」
こことは異なる世界で照月蒼と呼ばれ、死によって全てを失った一人の少年は、こうして新たな名と共に、新しい家族を得たのだった。
一人の、少女として。
アースランド騎士爵家。
三十年ほど前、隣国であるチェバーレ帝国の侵攻に端を発した防衛戦争の最中、獅子奮迅の活躍を成した一人の英雄に、戦後賠償によってせしめた領地の一部を与え、騎士爵の位を与えたことを興りとする新興貴族だ。
十年ほど前に初代領主が病死し、今現在は一人息子であったカロッゾ・アースランドがその地位を相続しているが、彼自身もまた、成人前より父親と共に戦場を駆け、武勇を積み上げた実績を持つ。
その善政も相まって領民からの信頼は厚く、弱小貴族ではあるが、少なくとも領民が冬越えの心配をしなくて済む程度には収入もある。
そんな領主の家に生まれついて早三年、アースランド家が所有する領主館の一室で、リリアナは決意も新たに小さな拳を握り締めていた。
(今まで散々迷惑をかけて来たんだから、これからはしっかりしないと)
産まれた時から前世の記憶を持っていたリリアナは、家族や友人達と突然別れることになってしまった悲しみから、涙を流す日々を送り続けて来た。
赤子の体で感情の制御が利かないこともあり、一度泣き出せばそのまま延々泣き続け、体調を崩して寝込んでしまうことも珍しくなく、それでも今日まで生きてこれたのは、ひとえに今世において新しく家族となった者達の支えがあったからこそだ。
いつまでも泣き止まない娘を一晩中抱きしめ、あやし続けてくれた母。
忙しい政務の合間を縫い、頻繁に会いに来ては優しく頭を撫でてくれた父。
喧しく泣き続ける妹を邪険に扱うこともなく、何とか泣き止ませようとお気に入りの玩具や、出来の悪い木彫り人形などを持ってきてくれた兄。
彼らがいたからこそ、リリアナは今ここにいる。
だからこそ、ようやく日常生活を送れる程度には精神的に安定した今、少しでも受けた恩を返せるように頑張らなければ。
(私も男なんだから!)
そう、たとえ体が紛うことなき女の子と化していようと、早くも一人称が僕から私に変わっていようとも、リリアナとしては未だ心は男の子のつもりなのだ!
……仮にこの場に前世の友人達がいれば、もう諦めろと肩を叩いたことだろうが、悲しいかな、永遠の別れを遂げた今となっては、その声も遥か異世界だ。リリアナには届かない。
(まずは、どうしましょうか)
恩返しと言っても、特に具体的なプランがあるわけではない。
こういう時はまず行動あるのみだと、自分に出来ることを求め屋敷内をウロウロと歩き回る。
すると、早速あることに目をつけた。
「カミラさーん!」
「あら、お嬢様?」
リリアナが見つけたのは、この屋敷で雇用している使用人の一人だった。
まだ年若く、十代前半に見える彼女は、転生前に蒼が着ていたフリフリとしたメイド服とは違う、しっかりとした機能性重視のエプロンドレスに身を包み、予想外の来訪者に首を傾げつつも丁寧に出迎える。
そんなカミラにどうしたのかと尋ねられたリリアナは、迷わず彼女が手にもっている物を指差しながら、笑顔で告げた。
「それ、わたしにもおてつだいさせてください!」
「えっ。……お嬢様が、掃除を……ですか?」
「はい!」
掃除は、前世においてリリアナの得意分野の一つだった。これならば役に立てるはずと、リリアナは確信を持って頷く。
ちなみに、他の特技は料理、裁縫、お手玉、あやとり、折り紙などだ。
主婦かお前は、などと友人に突っ込まれ、挙げ句『お嫁さんにしたい子ナンバーワン』としてクラスどころか学校でぶっちぎりの人気を誇ってしまう一因ともなっていたのだが、それは余談である。
「……わかりました、少しだけですよ?」
「はい! まかせてください!」
断るに断れず了承するカミラに、リリアナは喜び勇んでついていく。
そうしてたどり着いた先は、この屋敷の書庫だった。
主にこの国の歴史書や童話、伝承などといった本に加え、領地運営の記録などといった書類が納められた場所で、カミラはリリアナに指示を出す。
「それではお嬢様、私が本棚から書物を取り出しますから、そこに積んでおいて貰えますか?」
「はい!」
元気よく返事を返したリリアナは、カミラから手渡される本を部屋の隅に平積みしていく。
そこまでは順調だったのだが、本を退け終わり、さてはたきで棚の埃を落とそうとなった時、問題が起こった。
「む、むむむ……!」
リリアナの三歳の体では身長があまりにも足りず、下の一、二段程度しか手が届かないのだ。
精一杯背伸びをするリリアナに、カミラは下の方をやってくれればいいと言ってくれるのだが、そのカミラ自身が今まさに上の方から埃を落としている最中なので、それでは意味がない。
「よいしょっ」
「お、お嬢様!?」
考えたリリアナは、近くにあった椅子を引っ張り出し、その上によじ登る。
それでも十分とは言い難いが、多少はマシになっただろう。
「危ないですから、降りてください!」
「だいじょうぶですー、ほっ、とっ」
不安定な椅子の上で背伸びをし、はたきを使って埃を落とす。
リリアナの感覚からすれば、台を使って高いところを掃除するなど当たり前のことだが、カミラからすれば、まだ三歳の幼児が椅子の上でフラフラしているのだ。危なっかしいことこの上ない。
そしてこの場合、カミラの懸念は正しかった。
「あっ……」
「お嬢様!!」
リリアナが思っているよりもずっと未熟で不安定な体は、少し傾いただけであっさりとバランスを崩し、そのまま転げ落ちる。
咄嗟にカミラが手を伸ばすが、その勢いを完全に受け止めることは叶わず、そのまま床に倒れこんだ。
ゴンッ! と鈍い音を立て、ぶつかった本棚が軽く揺れる。
「つぅ……お嬢様、ご無事ですか?」
「わたしはだいじょうぶで……っ、カミラさん、けがを!」
庇って貰ったことでリリアナはなんとか無傷で済んだのだが、カミラの方は本棚にぶつけた時に切ったのか、額から血を流していた。
さほど深い傷ではなさそうだが、流れ落ちる赤い雫を見てリリアナは大いに狼狽してしまう。
罪悪感と悲しみと焦りと、いくつもの感情が頭の中をぐるぐると駆け巡り、抑えきれずに涙となって溢れ出る。
「どうしたの? 何かあった?」
ちょうどその時、物音に気付いて一人の女性が部屋の中へと入ってきた。
リリィ、とリリアナのことを愛称で呼ぶ彼女の名は、カタリナ・アースランド。リリアナの母親だ。
やや小柄で起伏に乏しい体つきながらも、女性であれば誰もが羨むような白くきめ細やかな肌に覆われ、さらりと背中まで伸びた黒い髪は、夜空のように見るものの意識を惹き付ける魅惑の輝きを放っている。
古ぼけたローブを纏っているせいで色々と台無しだが、それを差し引いても十分美女と呼ぶに相応しい女性だった。
「おかあさま!!」
そんなカタリナの姿を見るや否や、リリィは涙ながらに駆け寄っていく。
ただならぬ娘の様子に、カタリナは膝を突いてその小さな体を抱き止めると、落ち着かせるようにその背中を叩く。
「何があったの?」
「その、わたし、カミラさんのおてつだいをしようと……でも、うまくできなくて……それで、いすからおちそうになって、カミラさんがけがを……」
舌足らずな口調で、リリィは辿々しく事情を説明する。
そんな様子を、カミラはまるで死刑執行を待つ囚人のような心境で見守っていた。
結果的に怪我はなかったとはいえ、主人の娘を危険な目に遭わせてしまった。それだけでも、まだ採用されて日が浅いカミラにとっては致命的な失態だ。
とある男爵家の三女として生まれたものの、成人前に家が没落し、路頭に迷いかけていたところをこの家の当主に拾われて三ヶ月。田舎貴族とはいえ、さほど待遇も悪くなかったこの家ともお別れかと絶望していると、気付けばカタリナがすぐ目の前にしゃがみ込んでいた。
「カミラ」
「は、はい。この度は本当に……」
申し訳ありませんでした、と続けようとしたカミラの言葉を遮るように、カタリナの手がカミラの額に伸ばされる。
『慈悲深き青の精霊よ、彼の者に癒しの加護を与え給え。《治癒》』
カタリナの口から朗々と歌うように詠唱が紡がれると共に、青い光がカミラの額に降り注ぎ、瞬く間にその傷を癒していく。
内なる魔力を捧げ、精霊に加護を願うこの世界独自の力。魔法だ。
「これでよし。他に怪我はないかしら?」
「い、いえ……問題ありません」
「そう、ならよかった」
そう言って、カタリナは柔らかく微笑むと、倒れこんだままのカミラを助け起こす。
思わぬ対応に、なんと言えばいいのか分からず硬直していると、そんなカミラに今度はリリィが声をかけた。
「カミラさん、ごめいわくおかけして、すみませんでした……」
「そんな、これはお嬢様をきちんとお守り出来なかった私のミスです、どうかお気になさらず」
「それから……」
カミラの言葉には答えず、リリィは俯いていた顔を上げる。
未だ涙の跡が残るその顔を精一杯の笑顔に変え、リリィは言った。
「たすけてくれて、ありがとうございました!」
母親によく似た天使の笑顔を前に、カミラは思わず口を開けたまま硬直してしまう。
そんな彼女にくすりと笑みを零しながら、カタリナは改めてリリィを抱き上げた。
「それじゃあリリィ、ここにいるとカミラのお仕事の邪魔になっちゃうから、私達は行きましょうか」
「はい、ごめんなさい……でも、わたしもなにかしたくて……」
「うーん……そうだ、それなら、リリィにしか頼めないお仕事があるんだけれど、やってくれる?」
「ほんとうですか? はい! なんでもします!」
ぱあぁっと、満開に咲き誇る娘の笑顔に、カタリナは思わずその表情をだらしなく緩める。
そんな自分を、カミラがじっと見つめていることに気が付いたのだろう。カタリナは気まずそうにこほんと一つ咳払いした。
「それじゃあカミラ、リリィのこと見ていてくれてありがとう。私達は行くから、後はよろしくね」
「は、はい! ……その、ありがとうございます」
お礼にお礼を返すおかしなやり取りに、カタリナはくすりと笑うと、リリィを抱いたまま部屋を後にする。
去り際、リリィがカタリナの肩越しに手を振っていることに気が付き、小さく手を振り返してみれば、実に嬉しそうな笑顔を返された。
「ふぅ……なかなか、慣れませんね」
貴族でありながら平民ともさして変わらぬ態度で接するこの家の家風に馴染むには、今しばらくの時間が必要そうだ。
部屋で一人、掃除を再開しながらそう呟くカミラだったが、その表情には小さく笑みの形を浮かべるのだった。