第十九話 殺意の声
領主館を出たリリィは、後を追ってきたオウガと共に村の中を歩いていた。
ここ一週間ほとんど外に出なかったせいか、途中で出会う村人達には何かと心配され、その度に少しばかりむず痒い気分を味わいつつ、出来るだけ元気に挨拶を返す。
まさか、実は寝不足でまだ少し辛いですとは言えない。
「あらリリ様、熱出したって聞きましたけど、もう大丈夫なんですか?」
「はいっ、お陰様でこの通りです。ご心配おかけしました。ところで、お兄様見てませんか?」
「ユリウス様? いやあ、今日は見てないですね、お力になれずすみません」
「いえ、そこまで急ぎではないので、大丈夫です。それでは、また!」
すれ違う女性に復帰報告をしつつ、ユリウスの居場所について尋ねるのだが、芳しい答えは返って来ない。
軽くお礼を伝えつつその場を後にしながら、リリィはユリウスに想いを馳せる。
「お兄様、今頃どうしてるでしょうか……」
あんなに怒ったところを見るのも、あんな風に泣いたところを見るのも、リリィは初めてだった。
自分のことを想って怒ってくれたのだと思うと嬉しさが込み上げてくるが、他ならぬ自分自身でその好意を突っぱねてしまったのだと思うと、今度は罪悪感で胸が締め付けられる。
「まだ、怒ってるでしょうか……」
謝りたくてこうしてやって来たが、思い返せば随分と独り善がりな想いで拒絶してしまったものだ。謝ったところで許して貰えるだろうかと、少し心配になる。
「……! いえっ、許して貰えるかどうかじゃありません。悪い事したんですから、その分はちゃんと謝らないと!」
不安に揺れる自分の心を叱咤しながら、意図して踏み出す足に力を込める。
すると、傍らを歩くオウガが「ガウッ」と一つ咆え、リリィに体を擦りつけて来た。
「応援してくれてるんですか? ありがとう、オウガ」
その体を撫でてお礼を言えば、オウガは尻尾を振り回して嬉しそうに鳴く。
そんな姿に頬を緩ませつつ歩いていると、リリィの少し前を、一人の少年が水桶を担いで通り過ぎて行くのを目にした。
見知ったその顔に、リリィはすぐさま声をかける。
「コアン君ー!」
「ん? あれ、リリ様!? どうしてここに?」
「お兄様を探してるんです。どこにいるか知りませんか?」
思った以上に意外そうな反応をされ、もしかして彼もまた自分の体調を心配してくれていたのだろうかと考えたリリィだったが、それにしてはどうも様子がおかしい。「あー、ユリウスな」とどこか歯切れ悪く答える彼の姿に、リリィは首を傾げる。
「ユリウスは今ちょっと手が離せないと思うから、会うなら後にした方がいいと思うぞ」
「そ、そうですか……じゃあ、仕方ないですね……」
思わぬ言葉に、リリィはがっくりと肩を落とす。
手が離せないのなら仕方ない、何をしているのかは分からないが、邪魔して余計に拗れてしまっては本末転倒だ。
そう思い、お礼を言って別れようとするリリィだったが、それより早く「あー、それから」とコアンが更に声をかける。
「何があったか知らないけどさ、ユリウスの奴も気にしてるみたいだったから、あんまり怒らないでやってくれよ」
「へ? 私がお兄様に怒る理由なんてないですよ? 悪いのは私なんですから」
喧嘩したこと、知ってたんですね、と恥ずかしそうに告げるリリィに、コアンは苦笑を浮かべる。
どうしたのかと疑問符を浮かべていると、唐突に「やっぱ似てるよな」と言われ、リリィは益々困惑した。
「ユリウスとリリ様、やっぱ兄妹だなって」
「へ……?」
気にすんなよ、とコアンに言われ、訳が分からないもののひとまず疑問を横に置くと、リリィはコアンに別れを告げて、一旦領主館に戻ろうと踵を返す。
その時、不意に背筋を強烈な悪寒が走った。
「……え?」
頭の中に、声が響く。
以前、オウガと出会った時に聞いた声に似ているが、あの時のように集中しなければ聞き逃してしまいそうな、微かな声ではない。強烈な意思と力強さをもって、全てを蹂躙し破壊しようとする、好戦的な魔物の声。
それがリリィの耳に届くと同時に、オウガもまた唸り声を上げながら、村の南東を睨みつけた。
「えっと、リリ様、どうかしたか?」
オウガに少しばかり怯えながら、コアンは突然目を見開いて足を止めたリリィへと心配そうに声をかける。
しかし、リリィの方はそれどころではなく、耳を塞ぎながらその場に蹲ってしまった。
「なんですか、これ……こんなの、今まで……!」
「リリ様! 大丈夫か? しっかり……! ええと、こういう時どうすれば……」
急な事態にどうしたらいいのか分からず、狼狽えてしまうコアン。
そんな彼の声は、しっかりと塞がれた耳にはほとんど届かないが、そんな状態でもリリィの頭の中には恐ろしげな声が何度も繰り返し響いている。
殺せ、殺せ殺せ殺せ殺セ殺セコロセコロセコロセ――!!
(魔物の声……なのに、なんで、こんなに……!)
魔物の声が聞こえると言っても、本来は漠然とした感情が感じ取れる程度で、ハッキリとした言葉が聞こえてくるわけではない。
にも拘わらず、今頭に響いているのは疑いようもない殺意の塊。
恐怖に駆られ、憎悪を募らせ、狂気に染まった悪魔の咆哮だ。
ぐちゃぐちゃに入り混じった負の感情が、耳を塞ごうと容赦なく意識の中に入り込み、毒のように全身を蝕む。
暗示のように何度も繰り返される言葉の槍が心に風穴を空け、脂汗が滲み出て止まらない。
湧き出る恐怖心が足を竦ませ、リリィから抵抗の意思を奪い取ろうとする。
それでも……このままただ怖がっているわけにはいかないと、リリィは自身の唇を血が滲むほどに噛み締めて、立ち上がった。
なぜならこの殺意の主は、どういうわけかこの村に向かって一直線に進んでいるのだから。
「コアン君、お父さんは……スコッティさんは今どこに!?」
「え? いや、今日は久しぶりに非番だって、家で休んでると思……」
「今すぐ呼んでください! 魔物が、この村に向かって来ています!!」
「え……えぇ!? ど、どうしてそんなこと分かるんだ?」
「説明は後です! 私はお父様を呼びに行きますから、コアン君も急いでください! 魔物はちょうど、川の下流方面から向かって来てますから、木材倉庫の辺りに来て貰えれば、そこで迎撃出来るはずです。だから……」
「木材倉庫!?」
魔物が来ている方向を指し示したところで、なぜかコアンが大声を上げ、顔を青褪めさせる。
木材倉庫の近くは、伐採した木の運び込みを行うために場所が広く取られており、民家もない。それなのに、一体どうしたのかと見つめると、コアンは焦ったように口を開く。
「今……ユリウスがそっちの方に行ってるんだ。魔物が来てるなら、教えてやらないと……!」
「お兄様が……!?」
それを聞いて、今度はリリィまでもが顔を青褪めた。
今も頭の中で響き続ける声の大きさから、その魔物が持つ魔力の大きさは嫌というほどリリィに伝わって来る。魔法という技術を持つ人にとっては必ずしもそうとは限らないが、魔物にとってはほぼ魔力の大きさがその強さを表すので、この魔物も相当に強力な個体であることは間違いない。
スコッティやカロッゾの強さは直接目にしていないのでよく分からないが、ユリウスは多少魔法が使えるだけのただの子供だ。腰に差した剣も所詮は訓練用の木剣で、ただの猪すら仕留められないのに、魔物に適うはずがない。
「ど、どうすれば……!?」
「……落ち着いて。ともかく、コアン君はスコッティさんに魔物が現れたことを伝えることだけ考えてください。その後のことは、スコッティさんが指示してくれるはずです」
取り乱すコアンの肩に手を置き、リリィは冷静にそう告げた。
青褪めた顔は一瞬にして元に戻り、決意の籠った瞳でコアンを見つめる。
それに押され、コアンはなんとか頷きを返した。
「……分かった。リリ様はカロッゾ様を呼びに行くんだよな?」
「……ええ、まあ」
「そうか、リリ様も気を付けろよ!」
コアンの言葉に、リリィは曖昧に頷くが、慌てていた彼はそれに気付かず、そのまま走り去っていく。
そんな彼の背中を見送ったリリィは、すぐさまポケットからメモ帳を取り出し、新たなページに「魔物が出た、南東、木材倉庫方面に救援求む」と書き記すと、それをオウガのリードに結び付けた。
「オウガ、今なら家にお父様がいるはずですから、呼んできてください」
「ガウ……」
リリィの指示に、オウガは不安そうな声を上げる。
そこにどんな意味が込められているのか、リリィにもはっきりとは分からなかったが、主人がしようとしていることを察し、心配してくれているのだということは何となく分かった。
「大丈夫です、私だって死にたくはないですから、無茶なことはしません」
そんなオウガを安心させるように、優しく言葉をかける。
不安はある。上手く行くかも分からない。それでも、今は大切な家族のために、出来ることを。
「こんな騒動さっさと終わらせて、みんなで家に帰りましょう。だから……オウガ、ハウス!!」
「……ガウッ!」
リリィの指示を聞き、オウガが家の方に向かって走り出す。
家に帰りついたオウガを、カロッゾ自身が気に掛けることはほとんどないだろうが、庭師のトーマスがリリィと一緒に出掛けるところを見ているので、オウガだけが帰って来れば不審がってくれるはずだ。
絶対に気付くとは言い難いが……それでも、リリィ自身の足で家まで呑気に走っていては、魔物の襲来までに絶対に間に合わない以上、今はオウガやトーマスを信じる他ない。
そして……残されたリリィは踵を返し、“声”のする方角……魔物の、そしてユリウスがいるであろう方向へと向き直る。
ユリウスが既にその場にいないのであれば、それでいい。リリィは魔物の正確な位置を離れていても把握できるのだから、近くまで行ってもユリウスの姿が見えなければ、そのまま様子を伺い、他の村人が不用意に近づかないようにカロッゾやスコッティがやってくるまで見張っているだけで十分だ。
けれど、もしユリウスが魔物と相対し、襲われているのだとしたら、その時は……。
「どうか、無事でいてください、お兄様……!」
姿の見えない兄の無事を祈りながら、リリィは全力で走り出した。