第十五話 傷だらけの決意
海の中を漂っているかのような朧気な意識の中、リリィは薄らと目を開けた。
目に入って来たのは、どこか懐かしい家の内装。
掃除の行き届いたフローリングの床は真っ白な壁紙と合わさって清潔感に溢れ、玄関に飾られた生け花が程良く彩りを添えている。
ここはどこだろう、とぼんやりと考えて、リリィはここが前世で暮らしていた自分の家だと気が付いた。
やけにはっきりと認識できる懐かしい景色の中にあって、自分の存在だけがふわふわと浮かぶ雲のように不確かで、はっきりとしない。
ああ、夢か……と、そう認識するのにさほど時間はかからなかった。
『うえぇ……ぐすっ、ひぐっ』
気が付けば、目の前に幼い男の子が一人、ランドセルを背負ったまま嗚咽を漏らしている。
黒い髪と瞳を持ち、ぱっと見では女の子のように見えるその子供は、すぐ傍にいるはずのリリィに気付くことなく、ただひたすらに涙を流す。
『あら、どうしたの蒼?』
そんな男の子の傍に、一人の女性が現れた。
男の子とよく似た黒髪を後ろで束ね、機能面に優れた洒落っ気のないエプロンを付けたその姿は、どことなく工場で働く快活なおばちゃんを連想させる。
その場にしゃがみ込み、男の子に視線を合わせながら問いかけるその瞳は優しく、よく似た見た目も相まって親子だろうと簡単に想像がつく。
いや……リリィには、想像する必要など最初からなかった。
なぜなら、目の前にいる男の子はリリィの前世の姿である照月 蒼。
そして、そんな蒼の前に現れた女性の名前は、照月 陽向。
リリィの……蒼の、母親なのだから。
『あのね、僕が女の子みたいだって……みんな、いじめるの』
『よーし蒼、いじめて来た子の名前言いなさい? お母さんが今すぐ怒鳴り込んで来てあげるから』
『えぇ!? だ、ダメだよぉ、怒鳴ったら可哀想だし、お母さんも怒られちゃうよぉ』
『ははは、なーに、怒られたら謝ればいいのよ、そんなことより、今は蒼が泣いてることの方が大事だから』
『な、泣いてない、もう泣いてないから、大丈夫!』
これはいつ頃の出来事だっただろうかと、リリィは記憶の糸を辿る。
確か小学校に上がってすぐの頃、言動や趣味が女の子みたいだとからかわれて、泣いて帰った時だったかと思い出し、懐かしさに目を細めた。
この頃はまだ、自分と周りとの違いを上手く受け入れられず、毎日のように悩んでは落ち込んでいたものだ。
そして、いつも真っ直ぐな笑顔を浮かべては元気づけてくれる母のことが、蒼はずっと好きだった。
『蒼、陽向、どうしたんだい?』
『あ、お父さん!』
『あなた、それがねえ……』
続けてやって来たのは蒼の父親、照月 優心だ。
IT関係の仕事に就いているせいなのか、身長は高いのに痩せ気味で、少しばかりひ弱な印象を受けるものの、いつも家族のために時間を割いては相談に乗ってくれる、優しい父親だった。
事情を説明され、ふむふむと何度も頷く父を見て、この後何と言ってくれたんだったかと記憶を巡らせるリリィだったが、思い出すよりも先に目の前の父は母の隣に並んでしゃがみ込み、蒼の頭に手を置いた。
『そうか……蒼は優しい子だな』
『へ? 優しい?』
そっと頭を撫でながら、優しく言葉をかける父の姿に、蒼は首を傾げる。
ただ自分がいじめられただけの話なのに、どこに優しさを感じるような部分があったのか、蒼にはちっとも分からなかった。
そんな蒼に、ああ、と首肯しながら、父はゆっくりと語り始める。
『自分が辛い思いをしたのに、お母さんや相手の子を心配して我慢するなんて、そう出来ることじゃない。もっと自分に自信を持ちなさい』
そう言って褒めてくれる父の笑顔に、蒼は照れ臭そうに笑って、ありがとうと呟く。
どんな時でも家族を想い、優しい言葉をかけてくれる父のことが、蒼はずっと好きだった。
『何言ってるのよ、そういう時はビシー! っと言ってやらないと、いつまで経ってもやめてくれないわよ?』
『ははは、陽向はいつも真っ直ぐだな。でも陽向の言う通り、ただ優しくするだけじゃ、相手の子にとっても良くないことだ』
『相手にとっても……?』
『ああ。きっと、相手の子は、蒼がからかわれてどんな気持ちになっているか、まだ気付けていないんだ。だから、それを黙ったままにしていると、きっと他の子にも同じようなことを繰り返して、知らず知らずのうちに人を傷つける子になってしまう。そんなのは蒼も嫌だろう?』
『それはいやっ! でも、どうしたらいいの?』
『そうだな……嬉しいことや楽しい事、それに嫌なことも全部、その子とたくさんお話すればいい。そうやって話していれば、少しずつ蒼が好きなことも、されると嫌なことも分かってくれるし、友達にだってなれるはずだ。出来るかな?』
『分かった、頑張る!』
『蒼、頑張るのはいいけれど、本当に辛い時は、必ずお父さんかお母さんに言うのよ? 蒼が辛い時は、いつだって傍にいるから』
『うん!』
その言葉通り、父も母も、蒼が辛い時はいつでも傍にいてくれた。
クラスメイトにからかわれて泣いた時も、体育の授業で無茶をして怪我した時も、友達と喧嘩して落ち込んだ時も、ずっと。
そんな両親がいたからこそ、蒼はいつも笑顔でいられたし、学校にだって通い続けられた。
挫けずに何度も会話を重ねて、気付けば友達も増えていた。
自分をからかっていた子達とも、気付けば一緒に遊ぶようになっていた。
最初は好きになれなかった自分自身も、それなりに受け入れられるようになっていた。
大好きな両親が、いてくれたから。……なのに。
(もう、私は……ここには、いない)
どれだけ欲しいと願おうとも、目の前の光景はもう手に入らない。
どれだけ精一杯手を伸ばそうとも、所詮夢でしかないそれは幻のように儚く揺れるばかりで、触れることさえ叶わない。
どれだけ必死に足を動かそうとも、まるで世界そのものに拒まれているかのように、近づくことも出来なかった。
(いや……行かないで……)
いつの間にか幼い蒼の姿は消え、両親だけが手を繋いで歩いていく。
白く温かな光は遠ざかり、リリィだけが暗く冷たい闇の中で、時が止まってしまったかのようにその場から動けない。
(私を……一人に、しないで……!)
叫びたくとも声は出ず、瞳に溢れる涙は虚空へと吸い込まれ消えていく。
世界の全てが黒に染まり、体は氷に浸されたかのように冷たく凍り付いていく。
(お父さん……お母さん……!)
力なく伸ばされた小さな手が、虚空を切る。
もう、このまま眠りに着いてしまった方が楽だろうかと、絶望のまま諦めかけたリリィの手を……。
誰かが、掴み取ってくれた……気がした。
「…………っ!!」
急速に意識が浮上したリリィの目に飛び込んで来たのは、ここ数年ですっかり馴染んだ木目の天井。
前世の家に比べればずっと出来が悪く古臭いそれが、夢で見た景色とはまた違った形で早鐘を打ち続ける心臓を落ち着かせてくれる。
「わたし、は……」
月明かりが照らす薄暗い部屋の中、混濁した記憶を整理しようとするも、鈍い頭痛が走って思考が中断される。
それでも何とか体を起こそうと、痛む頭を抑えて身動ぎするが、そこでふと、自分の右手がやけに温かいことに気付き、そちらに目を向ける。
するとそこには、リリィの手を両手で包み込むようにして握ったまま、ベッドの端で倒れるようにして眠っているカタリナの姿があった。
どれだけ長い間そうしていたのか、意識がない状態でもしっかりと伝わってくる温もりに、リリィは冷え切った心が温かく包まれていくような感覚を覚える。
「そういえば私、熱だして寝込んでたんでしたっけ……」
徐々に意識がはっきりしてきたことで、リリィは自分に何が起こったかを思い出す。
カミラによって部屋に運び込まれた後、騒ぎに気付いたカタリナが駆け込んできて、丸一日ずっと看病してくれていたのだ。
連日の仕事で疲れているはずなのに、いつまでも手を握ったまま治癒魔法をかけ続けてくれていたカタリナの姿を思い出し、リリィは深く感謝すると同時に、罪悪感に胸が締め付けられる。
「私、本当にみんなに迷惑かけてばっかりですね……」
忙しい両親を労おうとしていたはずなのに、熱を出して余計に気苦労をかけていたのでは笑い話にもならない。
リリィが一人落ち込んでいると、その声で目が覚めたのか、眠っていたカタリナが体を起こし始める。
「リリィ……? 目が覚めたの?」
「お母様、すみません。起こしちゃいましたか」
せめてこれ以上心配をかけないようにと、笑顔を浮かべてみせるリリィだったが、そんなリリィの体を突然カタリナは抱きしめる。
一体どうしたのかと困惑するリリィの耳元で、カタリナは小さくく語りかけた。
「ごめんなさい、リリィ……最近仕事ばかりで、こんなになるまで調子が悪いことにも気付いてあげられなくて」
その言葉を聞いて、リリィはようやくカタリナが気にしていることに思い至った。
確かに最近は両親ともに忙しいことが多く、親子で接する時間は減っていたが、今回の高熱は突発的なものだ。直前まで本当に元気だったのだから、カタリナが気にすることなど何もない。
「お母様は、何も悪くないですよ……私も、急にこんなことになって、びっくりしたくらいですから」
なんとかそう説明するのだが、カタリナは中々腕を離そうとはしなかった。
「いいえ、今回のことは、本当なら私がもっと早く気付いてあげるべきだったの」
「どういうことですか……?」
カタリナの説明によれば、今回の高熱、それに幼い頃から頻繁に起こしていた体調不良は、どれもリリィの体内で過剰に高まった魔力が、制御を離れ暴れ出したことが原因ではないかということだった。
多すぎる魔力を自力では発散しきれず、身体機能を過剰に高めてしまった結果、様々な症状を引き起こす病――魔力暴走。
本来は、魔力量の多い人物が魔法発動時に活性化した魔力の制御に失敗して起こす病だが、リリィの場合はその魔力量が多すぎたため、普通に生活しているだけで発症してしまったのだろう。
魔力は体だけでなく、精神とも相互に作用しあう関係にあるため、この病を発症すると精神的に不安定になる傾向があり、幼いリリィが何かとよく泣いていたことも、これで説明がつく。
今回、久しぶりにリリィが熱を出して寝込み、その体を診察したことで、幼い頃よりも年齢を重ね安定しているはずの魔力が逆に以前にも増して乱れていたことからカタリナはこの病に気付いたのだという。
「“精霊の耳”の力があるって分かった時点で気付いていれば、こんなことになる前に魔力を抑えてあげることも出来たのに……本当にごめんなさい」
「大丈夫ですよ……お母様のせいじゃありませんから、気にしないでください」
カタリナは知らないが、リリィが幼い頃から精神的に不安定だったのは、転生者という特殊な事情と、その現実を上手く受け入れられない自らの不甲斐なさが最大の理由だ。
あまり詳しく説明できないことにもどかしい思いを抱きながらも、せめて気にしていないことだけは伝わるようにと、リリィはカタリナの体を小さな腕で抱き返す。
「ありがとう……リリィは優しい子ね。でも、あまり一人で背負い過ぎないようにね。辛かったら、吐き出してもいいんだから」
「……そんなこと、ないですよ」
夢で見た、前世の父親と同じようなことを言われ、リリィは目を伏せる。
自分が優しいなんて、そんなことはない。
優しければ、婚約話を聞いたくらいで、あんなに動揺したりはしないはずだ。
家のため、領民のためになるその話を、もっと純粋に喜べたはずだ。
しかし……リリィには、そうは出来なかった。
(でも……それが家族みんなの、ためなら……)
この世界に生まれ変わって、絶望の淵にいた自分を助けてくれた家族のためなら。
失った悲しみに耐えられず、ずっと泣くことしか出来なかった自分を受け入れてくれた家族のためなら。
一度くらい……優しくあれるはずだから。
「私なら、大丈夫です」
そう言って、精一杯の笑顔を見せる。
どこか噛み合わないその言葉に、カタリナはもう一度口を開こうとするが、それより早くリリィはカタリナの腕の中から離れた。
「それより、お母様こそ目の下に隈が出来てます。最近、ちゃんと寝てないんじゃないですか?」
「え? えーと、それは……」
「私のことは気にしなくていいですから、お母様こそちゃんと休んでください。ただでさえお仕事大変なんですから」
「でも、リリィだってまだ万全じゃないのに……」
「お母様のお陰で、もう熱だって下がりましたし、明日には良くなってるはずですから、心配しなくても大丈夫ですって。ほらほら」
「そう……? それじゃあ行くけれど、無理したらダメだからね?」
「分かってますっ」
半ば追い立てるようにして、カタリナを部屋の外へと誘導する。
最後まで心配そうな表情を崩さないカタリナだったが、一応はリリィの言い分に納得したのか、部屋を後にする。
「おやすみなさい、リリィ」
「はい……おやすみなさい、お母様」
最後にそれだけ挨拶を交わすと、扉がぱたりと閉じられ、辺りに静寂が戻る。
薄暗い部屋の中、夏場にも拘わらず無性に肌寒さを覚えたリリィはベッドの中に潜り込むと、誰にともなく小さな決意をした。
(今度こそ、みんなの……今ここにいる家族のために、ランターン商会に気に入られる人になれるように、頑張らなきゃ)
たとえそれが、その家族と離れ離れになる道だったとしても。