第百十八話 魔神の一突き
『水の精霊よ、癒しの雫となりて彼の者に祝福を。《神水》!』
凝縮された魔力が雫となり、二人の口内へポタリと垂れる。
失った生命力を回復させる癒しの魔法が気付けとなり、シルヴィアが辛うじて息を吹き返したのを見て、ルルーシュはほっと息を吐く。
(まだ油断は出来ないけど、峠は越えた。後はどうにか安定させないと……!)
結界の維持と並行し、薬の調合と治癒魔法の行使を続けていく。
焦る気持ちを必死に抑え、丁寧に、確実に作業を進めるも、どうしても周囲で行われるリリィとライボルトの激闘に意識が向いてしまう。
「はあぁ……ッ!!」
魔法によって作り出された光の剣を、ライボルトが振るう。
重量を持たない神速の刃が宙に線を引き、瞬きほどの一瞬でリリィに迫る。
「ぐぅぅ……!」
ギリギリのところで正面に掲げられた黒刃が、光の刃を打ち砕く。
弾けた魔力の粒子が黒に染まった地下室を照らし出し、闇に慣れた目を眩ませる。
「隙ありだ」
「あっ、ぐぁ……!?」
動きの止まったリリィの背後にライボルトが回り込み、魔力の籠った拳で殴りつける。
衝撃が轟き、幼い体が軽々と吹き飛ぶ。壁に叩き付けられ、血反吐を吐きながら地面に崩れ落ちた。
「リリィ……!!」
ギリ、と歯を食いしばりながら、ルルーシュは今すぐ駆けだしたい衝動をぐっと堪える。
魔力嵐による先読みと、伸縮自在の魔力剣。二つの力でギリギリのところで食い下がっているリリィだが、やはり自力の差は如何ともしがたく、徐々に追い詰められていた。
加えて、ライボルトは魔力嵐に満たされた空間の中で魔法を発動するコツを掴み始めたようで、リリィの強みすら失われつつある。
そんな状況で尚、リリィはシルヴィアやテティアのために体を張り続けているのだ。本音を言ってしまえば、二人のことは放っておいて助けに行きたい。
だが……それをすれば、他ならぬリリィが壊れてしまう。そんな確信があった。
(いくらなんでも、魔力を垂れ流し過ぎだ。今は多少落ち着いてるけど、さっきの状態を続けたらリリィの体がもたない……!)
元々、リリィの切り札である魔力嵐、魔力剣は体への負担が大きい。過剰過ぎる魔力行使は相手だけでなく、術者の体そのものさえ崩壊させてしまうのだ。
それが、先ほどは激情に任せ、人に許された限界さえ容易く突破しようとしていた。むしろ、あれだけのことをしてまだ動ける現状の方がおかしい。
ここで二人を見捨てようものなら、二人が力尽きるより先にリリィが死ぬ。
(はは、薬師としては最低だな。母さんに怒られる)
目の前にある救える命より、たった一人の婚約者を優先する。
薬師としては失格と言われても否定できない考えだが、これだけはどうしようもない。
リリィを守れる男になるために、ここまでやって来たのだから。
(でも……リリィを、リリィの心を守るために必要なら……僕は、目に映る全てを救ってみせる!!)
リリィなら、二人の無事を確かめるまで倒れたりしない。そう信じて、とにかく今は治療に集中する。
耳にこびり付く苦悶の声を生きてる証だと自分に言い聞かせ、少しでも早く作業を完遂しようと手を動かし、魔力を操り、二人の治療を押し進める。
そうして、永遠にも等しく感じられる時間の中、ルルーシュはただリリィの無事を祈り続けるのだった。
「はあ、はあ、はあッ……! げほっ、ごほっ!」
肩を大きく上下させながら、リリィはがくりと膝を突く。
防護魔法のお陰で直接斬られた傷こそないものの、自ら噴き出した魔力によって全身に無数の裂傷が生まれ、咳き込んだ口元からは血が零れ落ちている。十歳という年齢を思えば、既に指一本動かせなくなっていてもおかしくない。
そんな状態でもなお、フラフラと頼りない足取りで起き上がるリリィに、ライボルトは奇異の視線を向けた。
「まだ抗うか。もはやお前に勝ち目などない、いくら時間を稼いで、仮にあの少年が二人の救命に成功したとて、全員が死ぬ運命に変わりはないぞ」
「はは……運命なんてくそったれです。みんなが助かる道が少しでもあるなら、それに向かって全力で突き進む。当たり前のことじゃないですか?」
「勝ち目がない戦いで、いつまでもみっともなく足掻くなど、騎士の風上にも置けんな」
「泥だらけになっても、最後まで足掻き続けるのがアースランド流なんです。田舎臭くてすみませんね」
口の端を無造作に拭いながら言い捨てるリリィの言葉によって、ライボルトの表情が不快げに歪む。
そこまで露骨な反応が返って来るとは思っておらず、少しばかり驚きに目を見開くリリィに対し、ライボルトは憎々しげに舌打ちを漏らした。
「全く、そんなところまで父親そっくりか、忌々しい……」
「……お父様と知り合いなんですか?」
「当然だろう、奴とは学園時代の同期だったからな」
同期だったとは言うものの、それを語る彼の瞳に映るのは、どこかドロドロとした感情。そこにはリリィが考えるような、生徒同士の和気藹々とした友情の欠片も見受けられない。
「気に食わない奴だった。何度打ち負かしても、どんな攻撃を加えても、根性だ気合だと耐え凌ぎ、誇り高き騎士にあるまじき泥臭さで剣を振るう。全く、あんな輩がいるから、ストランド王国の騎士の品位が疑われるのだ」
「ッ……お父様のこと、悪く言わないでください!!」
一度は落ち着きを見せていたリリィの魔力が更に高まり、地下室の中で渦を巻く。
いともあっさり心を揺さぶられる少女の姿に、青いな、と小さく呟くライボルトだったが……ふと、そこで小さな違和感を覚えた。
(気のせいか? この娘の体、先ほどよりも傷が回復しているような……?)
リリィの全身に刻まれていた無数の裂傷。大量の魔力が噴き出ることで生まれた一種の魔力暴走の傷跡が、先ほどよりも減っている――ように見える。
しかしすぐに、気のせいだろうと首を振った。
(治癒魔法を使った様子もない、単に出血が減ってそう見えているだけだろう)
裂傷と言っても、傷の全てが深いわけではなく、細かな傷とていくつもある。あれだけ若いのだから、少しすればそうした傷はすぐ塞がったとておかしくない。
そう考え直している間に、リリィの持つ木剣へと魔力が凝縮されていく。
「はあぁ!!」
一閃。絶大な魔力が籠った漆黒の刃が鋭く伸び、ライボルトに迫る。
大気すらも割り砕かんばかりの圧力を纏うそれは、先ほどまでと同じ、人並外れた魔力量が織りなす破壊の刃。
喰らえば必殺かもしれないが、ライボルトからすれば欠伸が出そうなほどにゆっくりとした一撃でもある。悠々と回避し、代わりとばかりに粉砕される地面を置き去りにリリィへ向かって突き進む。
「会話もまともに出来んか、野蛮人が!!」
素早く発動した光魔法により、魔力の剣を形成する。
リリィの魔力剣ような破壊力こそもたないが、いざとなれば目晦ましの閃光を放つことも出来るそれを使い、これまでと同じように斬撃を見舞う。
防護魔法を削る鈍い音。神速の移動速度が乗った一撃はたとえ防がれようと、その衝撃で以て確実に少女を痛めつけるだろう。
そのはずだった。
「くっ、ふ……!」
「なにッ!?」
確かに直撃したはずのその攻撃で、リリィの体は揺らがなかった。
防護魔法越しに伝わるその衝撃を、木剣に注いでいた魔力を身体強化に回すことで無理矢理ねじ伏せ、血反吐を吐きながら柄を握り締める。
「は……あぁぁぁぁ!!」
「ぐっ……!?」
叩き付けられる木剣を左腕で受け止め、後ろに跳ぶことで衝撃を受け流す。
腕から魔力が注ぎ込まれるが、身体強化のために魔力を回したせいだろう、その密度はさほど多くはなく、ライボルトの魔力制御でどうにか抑え込むことに成功する。
しかし無傷とは行かず、ライボルトは左腕に痺れるような違和感を覚えていた。
「えへへ……やっと一撃、届きました……げほっ、げほっ!」
「……この程度、戦闘に大した影響はない。むしろ、受けたダメージで言えばお前の方がよほど大きいというのに……なぜ笑う」
「だって、私の攻撃が届くってことは、勝てない相手じゃないって証明されたようなものですから。どれだけ効果が薄くたって、その一撃が届いたことが重要なんです」
冗談だろうと、ライボルトはそう思ったが、リリィの目は本気だった。
「正直、勝ち目の薄い戦いだってことくらい、私も分かっています。でも、ルル君が言ったんです、僕が手を貸すまで生き延びろって。私のポンコツな頭じゃ、今みたいな攻撃しか出来ませんけど……ルル君がああ言ったからには、私が諦めさえしなければ、必ず貴方に勝てる道はある。私はただ、それを信じて剣を振るうだけです」
絶望的な状況下、一矢報いるだけで死に体同然にボロボロになりながら、それでも尚欠片も揺らぐことなき絶対の信頼。
まるで子供が読む英雄譚に出て来る主人公達のような、どこまでも純粋で強固なその絆に、ライボルトは眩しさを覚え――同時に、背中をうすら寒いものが駆け抜ける。
「ッ……舐めるなよ小娘が!!」
「ぐぁ……!?」
残像すら残さない神速の剣が、リリィの先読みすらも置き去りにしてその体を打ち据える。
圧倒的な暴力の嵐に晒されて、それでもなお折れない少女を前にして、ライボルトの心を焦燥が満たす。
「あんな子供一人加わった程度で俺を倒せると、本気で思っているのか!? もうお前達は終わりだ、現実を見ろ!!」
「っ……それは、貴方も同じじゃないですか? 私を殺して、ルル君を殺して、シルヴィアさんやテティアちゃんまで……そこまでやって、本当に、何事もなく当主になれるだなんて、本気で思っているんですか……?」
「ッ!?」
「今ならまだ、間に合います……ルル君が、必ず二人を助けてくれますから。だから、引き返すなら今のうち、ですよ……?」
「黙れ!!」
ライボルトの剣筋が、僅かに鈍る。
とはいえ、その程度で覆るような実力差ではなく、ライボルトの振るう光剣がリリィの体を吹き飛ばす。
「貴様は、いつもいつもそうだ!! 俺は何も間違ったことなど言っていないのに、まだ諦めるのは早いだの、仲間を見捨てられないだのと綺麗事ばかり……!! どれだけ願ったところで、現実にはどうしようもならないことばかりだ、そうだろう!? それなのに、どうしていつも、お前ばかりが何もかも手に入れる!? どうして俺じゃない!!」
「っ……?」
リリィを介して、別の誰かを見ているのか。ライボルトの口から溢れ出る無限の怨嗟は、彼の放つ光の魔力をどこか薄暗く染め上げる。
「そうだ……俺は何も間違っていない。俺は必ず超級魔法を手に入れ、帝国を滅ぼす! そうすれば、俺を馬鹿にした連中も、俺の力を認めざるを得ないだろう。この家に、ランドールに相応しい男だと、必ず……!!」
リリィが作り上げた漆黒の世界の中で、彼の放つ暗き閃光が迸る。
闇に埋もれてなるものかと叫ぶ一方で、更に黒く深く、闇に溶け込むように。
「そのために……貴様等は邪魔なんだ!! だから、死ねえ!!」
矛盾の果てに放たれる斬撃が、リリィの首筋目掛け疾駆する。
魔力剣を下げ、表情の見えない俯き顔でじっとその話を聞いていたリリィに、それを迎撃する術はない。
このまま首の骨をへし折ってやると、そう気勢を上げる彼の一撃は――
『《飛盾》!!』
直前に現れた大気の盾によって防がれ、その斬線を逸らされた。
あと一歩のところで仕留め損なったライボルトは、小さく舌打ちを漏らしながら後退し、その魔法を発動した主を睨みつける。
「リリィ、遅くなった。大丈夫……じゃ、なさそうだね……ごめん」
「まだ生きてますし、剣も持てますから全然大丈夫ですよ。それより、二人は?」
「大丈夫、何とか状態は安定したから、後はちゃんとした施設で入院させれば、助かるよ」
「そうですか……良かった……」
「……ちっとも、良くないよ」
「え?」
「いや……何でもない。それより、今は早くこいつを倒して、学園に戻ろう。あそこなら二人の治療も出来るはずだから」
「はいっ、分かりました!」
リリィの後ろから現れたのは、白銀の髪に紫に輝く瞳を湛えた少年、ルルーシュ・ランターン。
今の今まで、シルヴィアとテティアの治療に専念していたはずだが、どうやら終わったらしい。
大した腕前だと、ライボルトは胸中で素直に称賛する。
だが……だからどうしたと、彼は光剣を生成し直す。
「一人増えたくらいで、大層な自信だな……! そんなに俺を愚弄したいか!?」
「愚弄するわけじゃないよ。ただ、貴方の使う神速魔法はもう解析が済んだってだけだ。もう、その魔法は僕に通じない」
ルルーシュの言葉に、ライボルトは目を見開く。
そう、ルルーシュは何も、治療するためだけにリリィを一人で戦わせていたわけではない。時間をかけ、彼の魔眼の力で魔法を解析し、その対抗魔法の構築に勤しんでいたのだ。
それが済んだ今、もはや“神速騎士”は敵ではない。そう断言され、ライボルトの顔が屈辱に歪む。
「それが愚弄だと言っているのだ!!」
ライボルトの姿が掻き消え、神速の斬撃がルルーシュへと迫る。
しかしその全てを、ルルーシュは空中に出現した大気の盾で逸らし、一撃たりとも届かせない。
それは何も、ルルーシュの魔法が早いわけではなかった。
ただ、ライボルトの移動速度が、先ほどとは比べ物にならないほどに落ちているだけだ。
「神速とまで呼ばれるその速度の神髄は、単なる身体強化じゃなく、周囲の空気に対する絶対支配。早く動けば動くほど、どうしても強く発生する空気抵抗を魔法で打ち消し、逆に追い風として利用することで、限界を超えた移動を可能にしてる。要するに、この部屋にある空気全てを、そっちが支配する前に掌握しちゃえば、貴方の神速は神速ではなくなる」
「何を言っている……!? 自分の周囲を制御するだけで、どれだけの魔力と制御能力が必要だと思っている!? それが、この部屋全てなど出来るはずがない!!」
「出来るから、貴方は今神速を失っているんだ」
ルルーシュの言葉に、ライボルトは絶句する。
現在地下室の中を満たす、圧倒的な魔力嵐。その中で、自分が動く極僅かな範囲に対し魔法を行使するだけで、相当に神経を使うのだ。
それが、その何百倍とも言える広範囲を、たった十歳の少年が掌握する?
性質の悪い夢を見ていると言われた方が、まだ納得できるほどの暴挙だった。
「リリィ」
「はい、なんでしょうか」
「カッコつけて言ったけど、実際のところ、あまり長く持ちそうにないんだ。後はお願い」
「任せてください。この一撃で終わらせます」
ルルーシュの隣で剣を構え直したリリィは、目を閉じて魔力を集中する。
自らの守りを一切考慮しないその構えは、ルルーシュに対する信頼の現れか。
プレッシャーだな、と呟きながらも、ルルーシュはそんな彼女の行動に笑みを溢し、焦るライボルトの攻撃を捌き続ける。
『大地の精よ、その大いなる恩寵にて我に無双の力を与え給え。《強化》』
ゆっくりと紡いだ詠唱によって発動する強化魔法が、リリィの身体能力を限界を超えて引き上げる。
溢れ出る無限の魔力が木剣に集い、その形状を怜悧な太刀から武骨な大剣へと成長させ、余剰分がまるで堕天使の翼のようにリリィの体に纏わりつく。
「これで、終わりです……!!」
魔力嵐の先読みをも利用し、目を開けたリリィはライボルトに向けて突撃する。
フェイントも何もない、ただただ莫大な魔力に後押しされ、だからこそ全てを打ち砕く必殺にして最速の突き。
それを、ライボルトは両手に構えた剣で受け流す構えだ。
「舐めるなよ!! いくら神速魔法が使えないからと、それで敗れるほど俺は温くない!!」
リリィの魔力剣は全てを破壊するが、接触から破壊までは、魔力の注入という一瞬のタイムラグが存在する。それを利用して攻撃の軌道を逸らせば、後は無防備になった背中へと攻撃を加えるだけだ。
それこそ神業に等しい技術が要求されるが、神速を失えど、普段から神速の域で戦闘を繰り広げるライボルトにとって、リリィの読みやすい突進を捌くなど容易いこと。完璧なタイミングで剣を振り上げ――
――ズキンッ、と。
その左腕に走る痛みが、一瞬だけその動きを縫い留めた。
(あの、時の……!!)
ライボルトが無意味と切り捨て、リリィが希望を見出した、僅かな一撃。
ボロボロになりながらも決して諦めなかった末にもぎ取ったそのダメージが、最後の最後で明暗を分ける。
「はあぁぁぁぁぁぁ!!」
「くっそぉぉぉぉぉ!!」
捌き切れなかった一撃が、ライボルトの持つ光剣も、身に纏う防護魔法すらも打ち砕く。
莫大な魔力が意識を攪乱し、限界まで強化された力によって突き出された剣が、無防備となった彼の体を強かに打ち据える。
「《黒魔激突剣》!!」
リリィの全てを込めた一撃がライボルトの体を吹き飛ばし、その意識を完全に刈り取り――
黒宮殿が半壊するという、前代未聞の事態を引き起こした激闘は、ついに終幕を迎えるのだった。




